節子ばあちゃんの子守歌-2
当別には入院施設のある病院は一軒しかない。あまり評判がいいとは言えない病院だったが、こんなにひどいとは思わなかった。
佳音が節子のもとを訪れた時、節子は小さな寝息を立てていた。乱れている布団をかけなおそうとして、愕然とした。
節子の腹部に白い帯が巻かれ、その両端がベッドにつながっている。
胴抑制だ。
精神科の病院などで興奮した患者が自分や他人を傷つける恐れがあるときに、体の動きを一部制限する身体抑制を行うことがある。あくまでも、患者の安全を守るためであり、精神科の病院では法律に基づいた手続きを経たうえで認められている。一般病院では、患者の身体抑制について法律では何も定められていないが、自由な動きを外部の力で奪うということには倫理的な問題があるのでできるだけ行わない。佳音自身も、抑制など行ったことがない。
まさか、自分の愛する祖母が、ベッドに縛り付けられているなど、想像もしていなかった。
佳音は、となりの患者の点滴をチェックしに来た看護師に声を掛けた。
「なぜ、祖母は胴抑されているんですか?」
年配の看護師は面倒くさそうに視線をちらりと佳音に向けた。
「認知症だからでしょ。折れている足で歩かれて、転倒されたらご家族も困るでしょう?」
そう答えると、こちらの反応を背中で遮って立ち去ってしまった。
佳音は、怒りを感じながらその背中を見送った。
この病院の看護師は患者の顔をまともに見ない。今の看護師も、点滴の残量だけを見て出て行ってしまった。
――自分は?
祖母の顔に刻まれたしわを見つめながら考える。
点滴の取り間違えをしないよう、確認した名前の文字。体温計や血圧計の数字。薬に書かれている名前とベッドの表札の文字。
数字や、文字ばかりが浮かぶ。
間違えないように、ミスをしないように、確認ばかりしている。だから、文字や数字ばかり見ている。きっと、患者さんの顔なんて、自分も見ていない。
小野寺から、こんなに丁寧に指導を受けて、導いてもらっているのに、自分はいつまでたっても看護師になれない。
涙があふれてくる。
自分がもっとしっかりしていて、誰からも認められていたら、実家に帰ることだってできた。節子が今ここでベッドに縛り付けられるようなことになっていなかったはずだ。
両手で顔を覆いうずくまる。節子の体からすえた臭いがする。入浴もあまりしていないのかもしれない。
「佳音は、泣き虫だねぇ。」
耳元に、しわがれた節子の声がした。同時に、小さな手が自分の頭をなでた。
少し体を起こし、節子を見ると、目を細めてほほ笑んでいた。
「ばっちゃん……。」
こらえきれず、肩に額を預ける。小さな嗚咽が、喉の奥から漏れていく。
節子の手は、佳音の頭をゆっくりと撫でた。
「ヤ、レン、ソーラン……。」
小さく、枯れた声が耳元に聞こえる。
その声に、記憶の中の節子の伸びやかな歌声が重なる。
膝を擦りむいた時も、美葉と喧嘩をした時も、泣いて家に帰り祖母の膝にしがみついて泣いた。
『佳音は泣き虫だねぇ。でも、いいんだよ。涙はねぇ、心を洗濯してくれるからねぇ。泣きたいときは、思い切り泣いたらいいんだよ。』
そう言って、なでてくれた柔らかい手。必ず歌ってくれた子守歌のようなソーラン節。
耳元のかすれた声と、思い出の豊かな歌声が重なり、心の中のささくれに染み込んでいく。
そこはまだ、表面だ。その奥はちぎれ、つぶされ、形を失いそうになっている。
「……ばっちゃん、助けて……。」
無意識につぶやいた言葉を、違う場所から冷たい声が否定する。
助ける?何から?自分は幸せなはずだ。守られて、満たされているはずだ。
小野寺の顔が浮かぶ。その顔には、笑顔と怒りが張り付いている。全身が、小刻みに震えた。
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