生存報告だけは

生存報告だけは-1

 夜勤が終わり、一度家に帰ると、携帯電話をテーブルの上に置いて家を出た。


 徒歩で錬が働くパン屋に向かう。


 小野寺が携帯電話にGPSアプリを入れた。佳音かのんが目の届かないところで遊び歩くのを防止するためだという。そんなことをしなければならないほど、自分は信用を裏切ってしまったのかと思うと情けなくなる。しかし、今はどうしても錬に伝えたいことがある。これは、錬の両親のためだから、しかたのないことだから。


 歩きながら、自分の心に言い訳をする。


 煉瓦造りの店からは、相変わらず香ばしいパンの香りが漏れて広がっている。でも、もう食欲はわかない。テーブルの上に置かれた踏み潰されたパンを思い出し、動悸がし、冷や汗が吹き出してくる。しかし、何も買わないわけに行かず、小さな塩パンを一つ、トレイの上に置いた。そして、店の奥をのぞき込む。


 ひょろりと細い、錬の姿を探す。


 正面のパン焼き釜の前に、錬が現れる。釜を空けて、鉄板を入れ、タイマーをセットしている。振り返って欲しいと思う間もなく、錬はこちらを振り返り、佳音を見付けて笑顔を見せた。


 ほっと、全身の力が抜ける。


 錬が親指を立てて、店の裏を指し示した。佳音は頷き、パンの会計を済ませると急いで店の裏手に回った。


 錬はすでに外に出ていて、身を乗り出すようにして佳音が現れるのを待っていた。佳音の姿を見付けると、満面の笑顔で手を挙げる。佳音も思わずかけよった。


 「夜勤明けだろ?お疲れ。」


 そう言って、小さな紙袋を差し出した。佳音は、首をかしげながら紙袋を受け取った。


 「新しい酵母で作ったパンなんだけどさ、商品化を目指してるんだ。この酵母は食感がもっちりしてて、噛めば噛むほど小麦の味を感じるんだよ。だから、敢えてシンプルなパンにした。試食して感想聞かせて。」


 パンの話をしている錬は、とても嬉しそうだ。思わず、笑ってしまう。


 「何だよ。パンオタクだと思ってるだろ。」

 「思ってる。」

 二人で、目を合せて笑う。


 錬といると、ほっとする。ほっとして、自分は常に緊張していると言うことに気付く。


 昔はこんなこと、無かったはずなのに。一人前になれないと、常に頑張らないといけないから、だからずっと緊張していないといけないのだろう。


 そんなことを考えると、笑顔が引きつってきてしまう。つられたのだろうか、錬も笑顔を消した。


 「……疲れてんだな。」


 錬の言葉に、佳音は首を横に振った。疲れていないと言えば嘘になる。でも、上手く笑えない理由は疲れだけでは無い。


 心配をかけてはいけない。

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