工房を畳む

工房を畳む-1

 雲の形のテーブルに、孝蔵と向かい合って座る。二人の前にはコーヒーを満たし、湯気をあげる木製のマグカップがある。


 コーヒーをいれている内に、少し気持ちが落ち着いた。


 ミスをおかし、保志に迷惑をかけてしまった。


 保志に見捨てられるのは仕方がないのかもしれない。しかし、支えを失ってしまったようで急激に不安になり、混乱状態に陥ってしまった。


 孝蔵が来てくれなければ、どうなっていたかと思うと背筋が寒くなる。


 コーヒーを口に含み、正人は思わず顔をしかめた。


 「お爺さん、ごめんなさい。酸化していますね。」

 古い油のような味がする。


 ショールームを閉鎖してから随分経つ。コーヒーをいれることもなくなってしまったので、古くなっていて当たり前だ。


 「せっかく久しぶりに会えたのに、こんなものを出してしまって、すいません。」


 下げようとして伸ばした手を、皺の目立つ手が止めた。


 「正人にはそう感じるかもしれんが、私には美味しく感じるよ。」

 そういって、ごま塩の髭までマグカップを持っていく。


 久しぶりに会った祖父は白髪が増え、少し小さくなったようだ。


 孝蔵は、木の匂いがする。


 木材の匂いは常に自分の周りにあって、その芳香に嗅覚神経は麻痺しているはずだった。しかし、孝蔵からは温かな木材の薫りがしていた。


 母が亡くなった日、抱きしめられたときに気付いた。奈落の底に突き落とされたような絶望の中で、唯一この世界につなぎ止めてくれたのがこのぬくもりと芳香だったように思う。


 「工房は、上手く行っていないようだね。」

 孝蔵は優しい声で言った。正人は素直に頷いた。


 「仕事を沢山請け負いすぎて、把握できなくなってしまいました。」


 マグカップの中のコーヒーに視線を落とす。その中の黒い液体が今置かれている窮状を写し出しているようで思わず目を背けた。


もう、自分自身ではどうしようも出来ない状態であることは、間違いない。不安で胸が押しつぶされそうになり、仕事のことを考えると頭が混乱してしまう。


 「正人は家具職人として一流の腕を持っている。しかし、工房の経営は職人としての腕だけでは成り立たない。その事は、もう充分分かったろう?」


 正人は、身体を小さく縮めて頷いた。


 「旭川に戻って、家具職人として仕切りなおすかい?それとも……。」


 孝蔵は、一度口をつぐみ、迷うようなそぶりを見せた。それは一瞬の事で、また言葉を続けた。


 「大学に行き直して、もう一度物理を学ぶのも一つの道だと思うが、どうだろう?」


 正人にとって、孝蔵の言葉は意外だった。慌てて、首を横に振る。


 「今更物理学を学んで、何になるんです?僕は父さんの後を継ぐ気はありませんし。」


 「だが、ただ図案通りに家具を作るのはつまらんだろう?それなら、好きな学問を究めた方が楽しいのでは無いか?恐らく、正人のような性質の人は、研究者の方が向いているように思うのだが。」


 孝蔵の言葉に、正人はもう一度首を横に振った。


一時は、物理学者の父に憧れを抱き、東京大学の物理学科に席を置いたことがある。


しかし、父は自分が憧れを抱いたような人物ではなかった。


心の病を持つ妻と、幼い自分を置いてアメリカに単身赴任し、殆ど帰って来ない。


挙げ句、妻が自死しても、葬儀が終わるとさっさとアメリカに戻ってしまうような、白状な人間だった。


 「物理学は、もう沢山です。大学に行くよう年ではありませんし。自分の食い扶持くらい、稼がなければ。それなら、今まで培ったものを生かすのが現実的でしょう。」


 ――何者でも無くなる。


 ふと、正人は思った。


 家具を届けた人たちの笑顔が浮ぶ。


 樹々に家具を求めてきた人の幸せを探り、悩み、試行錯誤の上に作り上げた家具。それを喜んでもらえたとき、自分もこの上なく幸せだと思った。その幸せな気持ちを、もう味わうことは無い。


 自分のこれからの人生は、何かを追い求めることをせず、ただ生きるために金を稼ぐものになる。


 ――それが、出来るだけでも充分だと思おう。自分の腕で生計を立てられるよう育ててくれた祖父に感謝しよう。


 「旭川に帰ります。僕を、職人として雇っていただけますか?」

 正人は、孝蔵に深く頭を下げた。

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