あるはずの無い隙間-2

 発注リストを捲る。


 『小林宅のダイニングテーブル。ナラ。』


 デザインは、スケッチブックにあるはずだ。スケッチブックを捲ると、いくつかダイニングテーブルの絵が出てくる。


 ダイニングテーブルはそれぞれ、デザインに大きな違いは無い。スケッチブックに絵が描いてあるだけで、発注者の名前も、使うべき素材も、大きさも書いていない。


 どれだっけ。


 小林さん?


 どんな人だったかな。顔が、思い出せない。


 「がんばれ。」


 どうして、ギャラリーに来てくれたんだっけ。

 どんな想いで、フルオーダーのダイニングテーブル発注したんだった?


 「がんばれ。」


 小林さんの求める幸せは、何だった……?


 何も、思い出せない。


 「がんばれ……。」

 自分の声だけが、頭に響く。


 「がんばれない……。」

 身体の力が抜けおちる。崩れるように座り込んだ床に、スケッチブックがバサリと落ちた。


 「もう、がんばれない……。」


 身体にも、頭にも、心にも、力が入らない。ぐらぐらと視界が揺れる。


 こんな自分など、生きている意味は無い。


 風に揺れる白い影が、うっすらと脳裏に浮んだ。


 お母さん。

 あなたのそばに、行きたいです……。


 十九歳のあの日。母の死に様を見たあの日の感覚が急激に蘇る。生に意味を見いだせず、母の元へ行きたいと願っていたあの頃の自分を満たしていた絶望感。それが、そっくりそのまま今の自分を満たしている。


 あなたのそばに、行かせてください……。


 心の中で、願ったものは、「死」。そこに手を伸ばしたい。激しい衝動が身体の内側に沸き起こる。


 うっすらと浮んでいた母の姿が鮮明になって行く。


 銀朱色の朝焼けの下で、朝露に濡れる満天星どうだんつつじ。紅に染まる満天星が連なる庭を歩いていた。やっとたどり着いた玄関。その横の松の木にぶら下がり揺れていた白い人影。項垂れて風にそよぐ黒髪。


 鮮明な母の姿は強烈な胸の痛みを連れてきた。うなり声を上げ、胸をかきむしる。


 その時ふっと、温かな物が自分を包んだ。


 「正人。」


 骨張った、老いたからだ。このぬくもりは、覚えている。


 「おじいさん……?」


 祖父の手が、子供をあやすようにポンポンと背中を叩く。


 「旭川へ、帰っておいで。」

 祖父の髭が、耳元でチクチクする。


 正人は、頷いた。


 「帰ります……。」 

 すがるように、祖父の腕を掴みそう言った。

 

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