社長夫人ですか?

あの娘が腐女子に堕ちた理由

あの娘が腐女子に堕ちた理由

 けたたましいアラームが鳴る。


 目を開けると、ぼやけた文字が目に入る。ボーッと眺めていると、それが書類に書かれている文字であることに気付く。どうやら、机に向かっていて寝落ちしてしまったようだ。身体を起こして頬の下に敷いていた書類を持ち上げる。


 よだれで、濡れている。


 「やべ。」

 思わず呟く。


 朝日が部屋に差し込んでいる。時計の針が八時を指していた。

 「三時間くらいは寝たかなー。」

 美葉みよは大きく伸びをした。


 急いでシャワーを浴び、タオルで髪を乾かしながら栄養補助ゼリーを胃に流し込む。今朝はマルチビタミンのリンゴ味。ゴミ箱に容器を投げ入れようとし、今日が燃やすゴミの日だと気付く。面倒だと感じつつ、ゴミ箱から袋を引っ張り出す。袋の中身はゼリーの容器とカップラーメンの容器がほとんどだ。


ゴミ袋の口を閉めて京都市指定の新しいゴミ袋をセットすると、洗面所に戻り髪を乾かした。腰まであった髪は、肩の辺りで切りそろえた。髪を乾かす手間を省くためだ。だが、ショートカットにしてしまうと毎朝のセットが面倒だし、カットにも頻繁に行かなければならない。それで、一纏めに出来る長さにしていた。


 髪をまとめると会社の制服に袖を通す。ゴミ袋と鞄を持ち、玄関に鍵をかけて会社に向かう。


 会社までは、徒歩二十分。


 去年の夏を境に仕事量が劇的に増えた。それまで毎月必ず故郷の当別にかえっていたが、それどころではなくなってしまった。自分の事を構う余裕さえ無い。電車に乗らないのに、わざわざ私服を着て行き会社で着替える必要性を感じなくなる始末だ。


 おしゃれという概念は、頭の中から消えてしまっている。日常生活の中で、仕事以外のことに費やす時間はほとんど無かった。会社への往復のこの時間だけが、頭を休める時間になっていた。


 歩きながら、毎朝思い浮かべる光景がある。


 キンと冷えた空気の中で、正人の身体から発する熱が空気を揺らしている。その白いもやの中で、正人は一心不乱に鉋をかけている。鼻の頭から落ちる汗の滴が日の光を浴びて光る。一点を見つめる鋭い眼差し。張り詰めた空気。


 その空気がふと緩み、正人が自分の姿を見付ける。


 『お帰りなさい、美葉さん。』


 とろけるような笑顔を、自分に向けてくれる。


その笑顔が見たくて、学校が終わると毎日工房に直行し、そっと勝手口から中に入って正人が自分に気付くまで見つめていた。


 「動画、撮っとくんだったな。」


 独り言を言う。


 頭の中の映像が、曖昧になりいつか消えてしまうかも知れないと思うと、怖い。


正人は、美葉が高校二年の春突然やって来た。


美葉の実家は昔ながらの田舎に一件はある万屋である。美葉はそこから道を一本隔てて建つ小学校に通っていた。


同学年は、五人。


その小学校も美葉達の卒業と同時に廃校となった。


正人はその体育館で手作り家具の工房を始めた。


しかし、正人にあるのはずば抜けた感覚の鋭さと家具職人としての腕だけだった。


経営の戦略どころか屋号も決めておらず看板立てることすら思い付かない始末。


見かねた美葉が協力し、何とか工房として成り立つようになった。


隣人ということもあり、眠る場所は体育館の二階の宿直室だが、家族のように生活を共にするようになった。


 その正人に、あのテレビ番組を皆で見た夏以来会っていない。

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