パン職人の正体-3

  見上げると、れんは困ったように眉を寄せていた。そして、佳音かのんが抱えている足と反対側のズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。片手で操作し、画面を佳音に見せる。


QRコードがあった。


佳音は慌てて鞄の中を探る。右手は錬の足を抱えたままだ。右手の力を抜かないように左手で鞄の中を探るのは難しかった。手間取ってしまい焦りながらも、なんとかスマートフォンを探し出した。


 錬が出したQRコードを読み取る。右手は錬の足をぎゅっと抱きしめている。


 「もう逃げねぇから、離せ。」

 急かすように錬が足を揺すった。佳音は唇を尖らせて首を横に振る。


 「本当に。仕事に戻んねぇと。」

 錬は困ったようにため息をついた。それから身体をかがめ、佳音の顔をのぞき込む。


 「……夜勤明け?」


 問いかけてくる錬の顔に、昔の面影を見付けようとその瞳をのぞき込み、頷く。錬の顔は険しさを崩さない。自分が知る錬は、常に柔らかい空気を纏っていた。そのほのぼのとした優しさはどこにも見当たらない。


 錬は険しいままの顔を背けた。


 「だったら、帰って寝ろ。起きたら、連絡して。」

 「連絡、していいの……?」

 「……なんのために連絡先聞いたんだ、馬鹿。」


 錬が、佳音の腕を掴み、自分の足からその腕を離した。佳音は抵抗せず、受け入れた。


 『馬鹿』


 そう言った錬の声に、微かな優しさを感じたからだ。


 「本当に、看護師になったんだな。」


 錬は、佳音の頭にぽんと手を置き、くるりと背を向けた。


 あの日と同じだ。錬が姿を消す前日にも、錬はこうして自分の頭に手を置いた。


ほんの一瞬の事で、やはり錬の手のぬくもりを感じることは出来なかった。




 くるみパンを胃に収め、ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。


 目が覚めてすぐに時計を見る。短い針が五を指していた。小花柄の遮光カーテンの隙間から夕方の日差しが差し込んでいる。


 慌てて、スマートフォンを見る。連絡先に錬の名前があるのを確認し、安堵で力が抜けた。あれは全て、夢だったのでは無いかと思ったのだ。


 『今、起きた。』

 約束通り、メッセージを送る。


 本当に、繋がっているのだろうか。


 不安になって画面を凝視していると、意外とすぐに既読が付いた。


 『今、どこ?』

 返事が返ってくる。


 錬と、繋がっている。佳音はほっとし、胸に手を当てた。みぞおちの辺りが、熱くなった。


 『家にいるよ。』

 すぐに返信すると、『馬鹿』と帰ってくる。

 『家がどの辺か聞いてんだ。パン屋の近く?』


 頭の中で、地図を整理する。錬が働くパン屋までは多分歩いても十五分くらいだ。こんなに近くに錬がいたのかと驚く。このマンションには去年の四月から住んでいる。一年と少しの間、ほんの目と鼻の先に居たなんて。


 胸が熱くなり、涙が溢れそうになる。


 『歩いて十五分くらいだよ。行っても良い?』

 『待ってる。』


 返事は、すぐに帰ってきた。

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