パン職人の正体

パン職人の正体-1

 夜勤が終わり、ロッカールームで着替えをしながらほっと息をつく。


 夜勤帯は看護師二人体制だ。内科病棟は高齢者が多く、認知症を患っている人も数名いる。巡回や点滴の交換、体位交換など必須の業務の他、トイレのためなどナースコールも多い。看護師になって二年目の佳音かのんはまだ夜勤に慣れることが出来ないでいる。


 要領が悪い。判断が遅い。ケアレスミスが多い。


 ペアの看護師に迷惑をかけてしまうのではないか気になる。一人で対応しているときに、急変があったらと不安にもなる。


 だが、今のうちに沢山の経験を積まなければ。いつまでたっても一人前にはなれない。


 ため息をつきながら、帰路につく。


 下手稲通りを走りながら、ふと芽依めいの事を思い出した。


 そう言えば、芽依のアルバイト先のパン屋さんはこの通りにあったはず。家を通り過ぎてしまうけれど、芽依の好きな人がどんな人なのか、見てみたい。疲れを感じながらも、曲がるべき交差点を直進する。


 五分ほど車を走らせると、煉瓦の壁にオレンジ色の看板が目に入った。佳音はウインカーを出し、駐車場に入った。


 車から降りると、焼きたてのパンの香りが店から溢れて周囲を満たしていた。急に空腹を感じる。


 焼きたてのパンなんて、久しぶりだな。


 心の中で呟き、ガラス戸を押して店の中に入る。


 店の中央に置かれた平台や壁際に沢山の種類のパンが並んでいる。レジの前に立つ年配の女性が、いらっしゃいませと明るい声を掛けてくれた。平日の朝食には少し遅い時間なのに、店内は数名の客がトングを片手にパンを選んでいた。


佳音はウキウキした気持ちになり、トレイとトングを手に持った。


 クロワッサンやロールパンなど定番商品、胡麻ソーセージや焼きひじきチーズなど個性的な調理パン、シナモンロールやアップルタルトのような甘いパン。種類が多くて、迷ってしまう。


 小野寺おのでらさんも、食べるかな。


 キリリと引き締まった切れ長の瞳と、常に自信に満ちあふれた微笑みを思い浮かべる。


 美味しいと、褒めてもらえるかも知れない。


 そう思うと唇は綻ぶが不思議と指先が震えてくる。


 きっと、甘いものは好きでは無い。味の濃すぎるものや、個性的すぎるものも。クロワッサンはパンくずがこぼれる。行儀が悪いと怒られてしまうかも知れない。


 気が付くと、彼の好みのパンを選んでいた。胃は活動を止め、ウキウキした気持ちはしぼんでしまう。


 会計を済ませ、紙袋に入ったパンを受け取ったところで、芽依めいの事を思い出した。


 パンに気をとられていて、大事なことを忘れてしまっていた。


 だから、自分は駄目なんだわ。


 ため息をつき、店内を見渡す。レジの奥に、作業スペースに続く出入り口がある。その中を覗いた。


 背が高くて、坊主頭。


 芽依の言葉を思い出しながら、その人物を探す。正面にパン釜が見える。丁度、焼き上がりの時間を知らせるブザーが鳴ったところだった。ひょろりと痩せた、背の高い坊主頭の男が釜の前に立った。


 あの人だ。


 佳音はよく見ようと目をこらした。


 釜が開き、香ばしい香りが漂う。白い作業服を着た職人はミトンを付けた手で鉄板を引き出した。そのまま、こちらを振り返る。


 「れん……?」

 思わず、声が出た。


 『もう少し目がくっきりしてたり、鼻筋が通ってたりしたらイケメンなのに、おしいねって感じ。』

 芽依の言葉が蘇る。


 そう、あっさりとしていて物足りない、でも柔らかさを感じる錬の顔。見間違えるわけが無い。


 一瞬、目が合った。しかしふい、と目をそらし、何も見なかったように鉄板を持って歩き去ってしまった。その姿が、白い珪藻土の壁に阻まれて消えてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る