節子さんと手を繋いで

節子さんと手を繋いで-1

 「節子せつこさん、一緒に帰りましょう。これ、僕が持ちますよ。」

 正人まさとは、レジ袋を持ち、節子を誘うようにして歩き出した。


 晩夏の斜陽が、濃い影を作る。今年は残暑が厳しい。稲が鮮やかな金色に大地を染めている。道ばたの雑草の陰から、トンボが飛び立つ。青い空には、大きな入道雲がふわふわと浮いていた。


 節子の歩に合わせて歩くと、いつもよりも沢山のものが見える気がした。節子は、身体の後ろに手を組んで、背中を丸めて身体を横に揺らしながら歩く。ぽっこりとした腹は随分小さくなり、足も細くなってしまった。


 「節子さん、あんパンは、誰と食べるんですか?」


 正人が問うと、節子は小さくかすれた声で応えた。


 「お父さんと、紀夫のりおとだよ。皆甘いのが好きだからね。」


 「じゃあ、今晩はカレーライス?」

 「そうだよ。お父さんも紀夫も、カレーライスが大好きだからね。」

 「旦那さんと息子さん、喜びますね。」

 「そうだね。」


 節子は、にっこりと笑った。幸せそうに、目を細めている。


 最近、節子は時々「節子ばあちゃん」から「節子さん」になる。


 随分前に亡くなった夫と暮らし、小さな一人息子の世話をしていた頃に戻るのだ。それは大抵夕方で、谷口商店で夕食の材料やパンなどを買ったり、帰りが遅い夫を探して歩き回ったりする。この地域の住民は皆節子の今の状況を理解していて、上手に話し相手になり、家に連れて帰るのだ。


谷口商店に現れたときは、店を空けるわけには行かない和夫の代わりに、正人が家に送り届けることになっていた。


 節子は昔、この地域皆の頼れるおばあさんだった。誰の事も懐に受け入れ、迷いに対して的確にアドバイスをしてくれる、北極星のような存在だった。


 節子は、ソーラン節を歌い始めた。昔のように声に張りは無く、掠れてしまっているが、歌詞や節を間違えることは無い。正人も、合わせて歌う。


 節子と過ごすこの時間は、今や正人にとって唯一の安らぎだった。


 時が流れて、少年達は皆立派な大人になり、自分の役割を果たしている。自分だけがその流れからはぐれて暗い澱みの中に落ちてしまった。


美葉もまた、美しい大人の女性となり、夢を叶えて京都でイキイキと働いている。


もしかしたら美葉が帰って来なくなったのは自分を避けているからかもしれない。


赤く頬を染めてうつむく姿を思い出すと最近そんな不安に襲われる。


あれは、困っていたのかも知れない。


自分にはそんな気持ちは無いのに一方的に想いを寄せられてどうしようかと思ったのかもしれない。翌日の車の中で流れた気まずい空気。次の帰郷の予定を聞いた時のしかめ面。


記憶の中のパーツは、美葉と両思いだと感じたのはただの思い上がった勘違いだと告げる。


そんな焦りや不安を、時間と空間が曖昧になった節子の存在は忘れさせてくれるのだ。


 節子の家にたどり着くと、家の奥の畦道にトラクターを停めて、健太けんた波子なみこが話をしていた。


 節子は、物忘れが目立つようになって来た頃、農作業の手伝いをしに来た、妻と別居中の紀夫むすこに向かって「あんた、誰だい。」と言ったことがあった。紀夫は自分の事を母親が忘れてしまったことに傷つき、それ以来家に立ち入らなくなった。


唯一の男手の長男の紫苑しおんは進学校に進み、家の手伝いをしたくても出来ない状況になっていた。そこで、波子は健太に有機米を作る土地として農地を貸し出し、自分が出面として手伝うという事を提案した。健太は父親から「有機農業は趣味でやれ」と言われ、思うように土地と手を広げられないでいたので、波子の申し出は願ったり叶ったりだったのだ。


 波子は、節子の姿を見付けると、困ったように眉を寄せて駆け寄ってきた。


 「お帰り、ばあちゃん。正人、いつもありがとうね。」

 いいえ、と正人は笑顔で首を横に振った。

 

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