すっかり狂ってしまった歯車-2

 歯車は一気に狂っていった。


 キャパシティを越えた途端、仕事の段取りを的確に組めなくなった。段取りの悪さが仕事のスピードに影響し、美葉に禁止されていた夕食後の仕事をしなくてはならなくなった。その結果、生活リズムが狂う。睡眠時間が減り、食事も不規則になる。頭が働かなくなり、作業スピードが衰え、ミスが多くなり、更に仕事が進まなくなる。


 悪循環に陥ってしまった。


 正人まさとの間違いを、美葉みよが正すことは無かった。

 あれ以来、美葉は一度も帰郷していないからだ。


 シルバーウィークも、年末年始も、ゴールデンウィークも、今年の盆も。仕事が忙しくなったのと、英会話を覚えるために、大型の連休は社長の知り合いの家にホームステイをすることになったがその理由だ。


 今の状況を、美葉に見せるわけにはいかない。

 美葉が次に帰ってくるまでには、何とかしなければと、気持ちばかりが焦る。


 「がんばれ。がんばれ。」


 呟きながら、ダイニングテーブルのパーツをチェックする。動かない頭と身体を動かすために、自分を叱咤激励する。そうすれば、少しずつ固いスイッチが入る気がするのだ。


 と、その時スマートフォンが鳴った。繋がりかけた思考がまた途切れる。少しいらつきながらも、スマートフォンを手に取ると、「親父さん」という文字が目に入った。


 正人は、スマートフォンを片手に外に出る。

 「今、行きますね。」

 言葉を交わす前に店の前で手を振る美葉の父親、和夫かずおの姿が見えた。


 小学校と谷口商店を隔てる細い道を渡ると、店の中に節子せつこの姿があった。美葉の親友佳音かのんの祖母である節子は度々、夕方になると地域の万屋である谷口商店に現れる。


 節子は、店のカウンターにあんパンを三つと甘口のカレールーを置いて、手提げ鞄の中を探っていた。小さな巾着袋や、預金通帳の入ったケース、手帳の中。中身が入っていないポーチを何度も順繰りに開けては「おかしいねぇ。」と呟いている。


 「お財布、忘れたんですか?」

 正人が声を掛けると、節子は手を止めずにため息をついた。

 「おかしいねぇ。さっきまであったと思ったんだけどねぇ。」


 正人は作業着のポケットから財布を出し、千円札をカウンターの上に置いた。


 「節子さん、ここは僕がお支払いしますよ。」


 節子は驚いて正人を見た。この数年で皺が増え、くりくりとした瞳は垂れ下がったまぶたで小さくなってしまった。


 「そんなわけには行かないよ。」


 不機嫌な声で言う。正人は、頭を下げながら言った。


 「そうさせてください。節子さんには、この間美味しいトマトをいただいたので、お礼です。いつもお世話になってばかりでは、悪いので。」

 「トマト、あんたに持たせたかい?」


 正人は大きく頷いた。


 「それはもう。スーパーのレジ袋一杯いただきましたよ。節子ば……、節子さんのトマトは、世界で一番美味しいです。」

 「そうかい。」


 節子は、にっこりと笑った。正人は、ほっと息をつく。和夫も、やれやれと安堵の息を吐き、あんパンとカレールーをレジ袋に入れた。

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