序章

序章

月明かりに照らされた紅梅を見上げる。


梅は、桜と同じ五月に咲くものだと思っていた。うららかな春の日差しに揺れる可憐な花だと。こんなに寒い空気の中で、それでも凜として咲く姿が美しいと思う。


 2月も終わりにさしかかっている。雪のない冬がこんなにも寒いと思わなかった。北海道に比べればなんと言うことも無い気温なのかも知れない。でも、骨に染みこんでいくような寒さだ。


 雪は、冷気を柔らかく包んでくれていたのだと、その姿がない世界に生きて初めて知った。


 白い息を吐きながら角を曲がると、二階建てのアパートが見えてきた。看護学校から徒歩十分。六畳のワンルームで暮らすのも慣れては来た。


 アパートの玄関先に並んだ郵便受けには、ダイレクトメールが乱雑に投げ入れられている。大概、いらないものばかりだ。中には風俗店のチラシも混じっており、不愉快極まりない。ムッとしながらゴミ箱に入れていると、後ろから名前を呼ばれた。


 聞き覚えのある声だが、こんな時間に、こんなところでと驚く。


 振り返ると、やはりそこにれんが立っていた。


 黒いコートの中で、身体を小さく丸めている。長い時間、そこに立っていたのだろうか、身体が小刻みに震えている。錬は、ゆっくりとこちらに近付いてきた。


 その様子に、違和感を覚えた。


 錬には似合わない、張り詰めた空気を身に纏っていたからだ。


佳音かのん


 錬はもう一度名を呼んだ。佳音は、錬を見上げる。背の割に肉がなく、ひょろりとした身体を、いつも通り少しかがめて顔をのぞき込んでくる。


 その瞳には、何か強い決意のようなものが見え隠れしていた。


「佳音。俺は、佳音以外の女をこれからも好きになることはない。俺と、付き合って欲しい」

 一言発するたびに、唇から白い息が漏れる。


 何度聞いたか分からない、錬の告白。


 最近は聞き慣れて冗談のようなやり取りになっていた。しかし、この言葉を茶化すことはできそうにない。


 だからといって、応えられないものは、応えられない。


 佳音は、小さく首を横に振った。

「ごめんね」


 錬の瞳が、小さく揺れた。


「分かった」

 錬は、かがめていた身体を起こした。


「男は顔じゃないからな。悪い男にひっかかんなよ」


 大きな手がぽんと頭に置かれ、離れた。ぬくもりを感じる間もないほど、それは一瞬だった。

 錬はくるりと後ろを向いた。振り返らず、軽く手をあげて歩いて行く。


 ああ。


もう二度と、この人が私を好きだと言うことはない。


 佳音はそう、察した。


 錬の背中が見えなくなって行く。

 それが、暗闇に黒いコートが溶けて行くからなのか、涙が溢れて視界がぼやけて行くからなのか、分からない。


 


 錬は、そのまま姿を消した。

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