あたしの負けよ
【渡り鳥はかく語りき】
八重城のスマホに映っているのは、つい数時間前にアップされた紅音の動画だ。
「これって……」
「『アビサル・フェアリーズ』ED曲のミュージックビデオだね」
来年一月から放送される『アビサル・フェアリーズ』。紅音がそのメインヒロインを演じることは知っていたけど、まさかエンディングまで担当することになっていたなんて。
シンプルな白のワンピースに身を包んだ紅音が、月明かりの水面をイメージしたセットで歌っている。
「紅音ちゃん、歌上手だよね」
「……うん」
夜の海に舟を出すような静かな出だし。きれいな高音、伸びのあるサビ。歌詞の意味を伝えるような歌い方。アビフェアは主題歌がアップテンポな曲だから、本編を締めくくるエンディングは静かなテイストにしたのだろう。
きっとアニメ本編を見た後にこれを聴いたら、うっとりするような素敵な余韻が残るだろう。
『残荘』で一緒に主題歌を歌っていたとき、彼女の歌声にはすでに光るものがあった。そして今回、満を持してソロアーティストデビューというわけだ。
あたしにはわかる。たった二分間のプロモーションムービーの背景には、彼女の類まれなる
短い動画が終わり、あたしはふぅと一息ついた。
「で、これを見せにわざわざ来たの?」
「情報解禁されたのついさっきだから、とっきーまだ知らないかもと思って。もしそうなら早く耳に入れたほうがいいかなって」
「べつにこんなの遅かれ早かれ話題になるでしょう」
実際Yuritterでは、アビフェア公式アカウントと紅音自身が宣伝している効果もあって、凄まじい勢いで拡散されている。ネット上ではちょっとした祭りだ。
メインキャラクターを演じ、その作品の主題歌やキャラソンを歌うのは、声優なら誰もが抱く夢だ。あたしには歩けなかった道を、彼女は今自分の足で歩いている。その後ろ姿がどこまでも眩しい。
「ちょっと、とっきー! 紅音ちゃんの歌唱力に見惚れちゃうのはわかるけど、事の重大さを認識しているの?」
「というと?」
「紅音ちゃんとの勝負のことだよ! このMVの再生数もカウントされるんだからね」
「あ」
あたしは何を呆然としていたのだろう。夢を叶えた同期の姿に意識が持っていかれて、肝心なことが抜け落ちていた。
再生回数に目を落とす。そこには、
「8万……再生」
あたしは言葉を失った。
この前のゲーム実況やコラボ配信とは比較にならない圧倒的な数字。勝負終了まであと三日。残りの期間で10万再生は軽くいくだろう。
「ははっ」
なんだか馬鹿馬鹿しくなって、あたしは思わず笑ってしまった。
「結局、紅音は最初から対等に勝負するつもりなんてなかったのよ」
花を持たせられているとも知らずに、一時的にリードして浮かれていた。案外良い勝負ができるかも……なんて馬鹿な幻想は、一瞬で砕かれた。
今までの過程なんてどうでもいい。ひたすら頑張ったこの一ヶ月はぜんぶ茶番だった。だって、このMVひとつですべてがひっくり返るのだから。
ホント、馬鹿みたい。
「終了まであと三日。紅音は、あたしが逆転できないこのタイミングを狙っていたのね。そのために切り札を温存していた」
EDの担当とMV制作は昨日今日で決まることじゃない。ずっと前から水面下で進められてきたはず。それを世に出せば絶対に勝てるという自信が紅音にはあったのだ。すべて、彼女の計画のうちだったのだ。
それに対してあたしはどうだ。
なんとなく勝ちたいという中置半端な気持ちで挑んでいなかったか。八重城と唄多に頼りっぱなしで、全力を出した気になっていただけじゃないのか。
紅音の手は、正直ズルいと思う。でも卑怯ではない。あたしが声優の道から逸れて燻っていた間も、彼女は進み続けていたのだから。だから動画の下に表示される閲覧数は、彼女の功績の証であり、受けるべき正当な評価なのだ。
「とっきー……」
八重城が心細そうな声を漏らす。
ダメだ……笑え、風町渡季。ラジオのときみたいに明るい声を出せ。
八重城はきっと、あたしを勝たせてあげられなかったことを申し訳なく思っている。八重城が気にすることじゃないよ……そう言いたかった。
すべてはあたしの実力不足が招いた結果。それを痛感し、彼女にこんな顔をさせてしまった自分が情けなくて、何も言えず、膝の上で拳を握る。笑顔を繕うなんて無理だった。
「こっちこそごめん」
「どうしてとっきーが謝るの?」
「せっかく協力してもらったのに、あんたの時間奪っちゃった。あたしが巻き込まなかったら、あんたは執筆に専念できたから」
「私が好きでやったことだから、とっきーが謝る必要はないんだよ?」
八重城の返答は一言一句違わず予想できた。予想できたからこそ、余計に申し訳なさが募る。
不思議と悔しさはなかった。いたたまれない気持ちになっているのは、目の前の女の子にかける言葉が見つからないからだ。
「…………」
「…………」
お互いに無言を貫く中、紅音の優しくしっとりした歌声がその沈黙を埋める。
意識して言わないようにしていた言葉。それを発してしまったらすべてが終わってしまうよう気がした。
でも、あたしが始めた勝負だから……あたしが終わらせなくちゃ。
カップに残ったチャイを飲み干す。ジンジャーの辛さも、シナモンの甘みも、もう感じられなかった。
「あたしの負けよ」
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