意図的ラッキースケベ
【万年筆はかく語りき】
ヤバイ……、ヤバイよ……!
私は焦っていた。小走りで駅構内を抜け、北口を出る。学生街の南口と違って、こちらは駅から数十メートルも離れれば閑静な住宅街が迎えてくれる。
目的地はとっきーの自宅だ。アポは取っていない。だけど悠長にしていられない。
とっきーは気付いているだろうか。
「このままじゃ……負けちゃうよ……」
お腹の底から沸き上がる焦燥が、一層足を早くした。
とっきーのアパートは駅から十分ちょっと歩いた所にある。部屋の前にたどり着いた私は、火照った息を整え、インターホンを鳴らした。
「…………」
返事はない。
もう一度鳴らす。が、やはりインターホンから天使の声は聞こえてこない。外出中だろうか。
ドアノブを捻ると違和感があった。返ってくるはずの抵抗感がないのだ。
「鍵……開いてる」
顔の幅くらいにドアを開けて、中を覗き込む。
「とっきー?」
部屋は静まり返っている。私の中で嫌なざわめきが起こった。
施錠されていないドア、人けのない部屋。私はこの状況に至る可能性をできる限り洗い出してみた。
①鍵を閉めるのを忘れて、部屋の奥で寝ている。
②鍵を閉めるのを忘れて、お買い物に出かけた。
③外でトラブルがあり、慌てて飛び出した。
④彼女の身に何かが起きて応対することができない。
夜勤明けで寝ているだけならそれでよかった。でも、いつものとっきーはこのくらいの時間帯なら起床している。施錠を忘れて外出するなんて不用心な真似をあのとっきーがするだろうか。ここに来る途中で騒ぎがあった様子もない。
ということは――。
「とっきーの身に何かあった……?」
最初は独奏のように鳴っていたざわめきが、今や不協和音のごとく響き合っている。
「とっきー! とっきーってば!!」
1Kの間取りなので、玄関とリビングは廊下一直線で結ばれている。何度呼びかけてもリビングから彼女が現れる気配はない。静まり返った廊下が私の不安を増幅させる。
今日は紅音ちゃんとのYuriTube対決の件で話があったのに、もはや私の頭からはきれいさっぱり消えていた。
「お邪魔します!」
一刻を争う事態だと思い、中へ突入する。不法侵入でも構わない。今はただとっきーの安否を確認することが最優先だ。
廊下を進むと、右隣の一室から音がした。パラパラした音が継続的に聞こえる。
「ここってたしか……」
その部屋に入ると、まるで視界が開けるように耳朶を打つ音が一段と大きくなった。
そこは脱衣所だった。脱衣所が何なのか知らない人のために説明すると、浴室への出入り、朝の身支度、夜の歯磨きなどをする場所のことだ。
そう、毎日とっきーがここで服を脱いだり、髪を乾かしたり、スキンケアをしたりしているのだ。どんなパワースポットよりも神聖な場所だ。初めてお邪魔したときに私も使わせてもらって尊死したのを思い出した。
余韻に浸っていた、そのとき。
「っ!?」
あまりの衝動に心臓が丸ごと持っていかれそうになった。脱衣所と浴室はくもりガラスの扉で隔てられている。その向こう側では等身大の肌色がゆらゆらと動いていた。
ぼやけたガラスを介してもわかる綺麗な曲線美。それはまるで教会の天井に飾られたステンドグラスのように完成された芸術品に感じられた。
結論から言えばとっきーは無事であり、すべては杞憂だった。しかし、安堵の気持ちは神速でどこかへ飛んでいた。
たった一枚の薄いドアで遮られた浴室で、推しが生まれたての姿でシャワーを浴びている。浴室から聞こえてくるくぐもった水圧の音が私の胸をカッと熱くする。
私は今、己の欲望と戦っていた。推しの裸体を見たいという欲望と。
浴室の扉には鍵は付いていないっぽい。つまり、ちょっと勇気を振り絞ってドアをちょんとするだけで、とっきーの一糸まとわぬ姿を拝めるのだ。
幸いにも彼女はまだこちらの存在に気付いていない。おそらくシャワーの音にかき消されてインターホンにも私の声にも気付かなかったのだろう。
話は簡単だ。数分前の八重城姫梨に戻ればいい。とっきーがトラブルに巻き込まれたのではないかと心配になり、良心の呵責に耐えながら家に突撃したら、入浴中のとっきーとばったり鉢合わせる。そういう筋書きにすればいい。
それなら彼女も「まぁ事情が事情だし……」と言って許してくれるだろう。おまけに私は推しの裸を見れる。
完璧だ。完璧なラッキースケベだ。
いや、こうして策を練っているのだから意図的ラッキースケベというやつか? 意図的ラッキースケベ……言葉にするとなんとも矛盾している感じもするけれど、細かいことはいいや。
扉を開けたらとっきーはびっくりするだろう。パニックになったとっきーは石鹸で足を滑らせ、私の上に覆いかぶさってくるかもしれない。共倒れになった拍子にどさくさに紛れて、いろいろ触れるかもしれない。
何を、なんて聞くのは野暮というものだ。主語や目的語を省略できるのが日本語の美点なのだから。
推しとのラッキースケベを実現させるために、今の私は執筆のとき以上に脳をフル回転させていた。我ながら必死すぎる。そこまでして推しの裸体を拝みたいのか。人間の欲とは恐ろしい。でも、奇跡は行動を起こした者にこそ訪れる。
「よし……っ」
右手をくもりガラスへ添わす。あとはほんの少し腕に力を込めるだけで世界の真理が解き放たれる。
生唾を飲みすぎて逆に喉が乾く。胸の内は煮えたぎるマグマのようだったが、意外と頭の中は雪の降る夜のように静かだった。
断っておくけど、これは決して犯罪ではない。偶発的事象が積み重なった神のみぞ知るラッキースケベであり、煩悩から解脱するための
もう少しで楽になれるよ、姫梨。
そう自分に言い聞かせて扉を開けようとした、そのときだった。
「ひっ!?」
キュっと、中から蛇口をひねる音が聞して我に返る。
とっきーが出てくる気配がして、私は慌てて脱衣所を飛び出し、泥棒のような抜き足差し足忍び足で家から退散した。
「私の小心者~~~っ!」
*
「あれ、どうしたの? 今日は打ち合わせの予定なかったわよね?」
「は、はい、そうなのですが……ちょっととっきーの小耳に入れたいことがございまして」
「なんで敬語? まぁ上がりなさいよ」
「お、おじゃじゃしますっ!」
「今さら何緊張してんのよ」
やばい。推しの顔を直視できない。
住居不法侵入ならびに覗き未遂から小一時間ほど。駅周辺で適当に時間を潰した私は、さも今来た風を装って再びとっきー宅へ。
お風呂上がりのとっきーは非常に
私は己の欲望に勝った。寸前のところで思いとどまった。あのままラッキースケベ作戦を遂行していたら、警察に通報されて、今頃は檻の中だっただろう。
短編小説だってまだ提出していない。そうなれば牢屋の中から小説を書かなければいけない。それはそれでアメリカンドラマみたいでかっこいい気もするけど……。
「あんたさっきから何ブツブツ言ってるの?」
「とっきーの裸が見れなくて死ぬほど残念なんて言ってないよ!?」
「はぁ?」
リビングテーブルに腰掛けると、彼女は手早くチャイを作ってくれた。一口啜れば体の芯から温まる。彼女も対座して同じようにチャイを飲んだ。
こうして対面するとやっぱり可愛いなって思う。お風呂上がりの色艶のいい顔を見ていると、さきほどの光景が思い出されてドキドキする。
「それで、あんたの用事は?」
雑念に囚われてばかりもいられない。私はスマホで目的の動画を再生して彼女に見せた。
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