<case : 43> trust - 信頼

「ぐっ……」

「残念だったな、そこに倒れている俺の部下が、死ぬ寸前にアラートを飛ばした」


 ナタリはすぐに立ち上がり、体勢を立て直す。衝撃で、目の焦点が合わない。おまけに銃を落としてしまい、ナイフを手に臨戦態勢を取る。


「お前は……あのクラブで見たガキか。そうか……ファントムだったんだな」


 袁は筐体を操作する。ほどなくして、ナタリが止めたガスが再び天井から漏れ始める。


「どうする? ガスを止めたければ、俺を止めるしかないぞ」

「言われなくても!」


 ナタリは迷いなく袁に挑む。ナイフを繰り出す手は決して遅くはなく、普通の人間ならば避けるどころか、反応することすら難しいはずだった。ミコトが掃除屋候補として認めたナタリの戦闘能力は決して低くはない。


 そんなナタリでも、兄の劉と同じく篠塚の手によって超常的な違法改造を施された袁の相手にはならず、袁はナタリの繰り出す手のことごとくを、軽々とさばく。


 そして返す手もナタリの目に捉えきれないほど速く、彼女の細い首を掴んで持ち上げ、ナタリの足が宙に浮く。袁が腕に力を入れると、ナタリは苦しそうな表情で藻掻き、その顔はみるみる血の気を失っていく。


「ナタリ!」


 ガス室の中で、ミコトが叫ぶ。既にガスも無視できない量が天井に溜まり始めている。


 袁は苦しむナタリを睨みつけながら言う。


「マキナス、お前たちのような欠陥品が我が物顔でドームを跋扈する時代は終わりだ。これからは、篠塚様の〈第三の知性〉がお前たちに取って代わる……」

「やめて! ナタリが死んでしまう!」


 ミコトがガス室の中から袁に向かって叫ぶが、袁は見向きもしない。


「せ……んぱ……」


 途切れかけた意識の中で、ナタリはヴェルのことを思い浮かべる。やっぱり、ヴェルの言ったとおりに待機していればよかったのかもしれない。


 でも、それだと長官たちの救出には間に合わなかった……もう少しで、助けられたのに、あと一歩、力が足りなかった……。


 ──先輩、すいません。


 ナタリがブラックアウトする寸前、開いた扉の向こうから青い閃光が飛んできて、袁の背に突き刺さる。


「ぐおっ!」


 袁は前のめりに倒れ、その衝撃で、ナタリを締め上げていた腕が外れる。放り出されたナタリは床の上を転がり、首を抑えながら激しく咳込む。


「冴継! お前は長官とキオンを救出しろ!」


 聞き慣れたその声に驚いたナタリが顔を上げる。視線の先には、銃を構えたヴェルがいた。


「せ、先輩? どうやって……」

「行け!」


「は、はい!」


 息を整えたナタリが筐体に駆ける。同時に、袁が立ち上がる。ナタリは追わない、いや、追えない。銃弾を受けて背中から一筋の煙を立ち昇らせる袁は、銃口を向けるヴェルから視線を外せない。


 この男は、ファントムの掃除屋だ、それがなぜここにいる? 兄の劉が追っていたはずだ。まさか、兄がやられたというのか? それに、さっきの青い弾丸は何だ?


 袁が表情に出さず思案している一方、ヴェルにとってはここで劉との戦闘経験が活きてくる。


 仕掛けるならこちらから、それも、短期決戦しかない。


 ヴェルは銃をしまうと、袖口からナイフを取り出して再び構え、袁に向かって突撃する。袁もすぐに臨戦態勢を取る。初手を繰り出すのはヴェル。ナイフを逆手に握り、袁に向かって思い切り振り下ろす。


 予想の範疇なのか、袁はヴェルの手を見て一瞬笑みを浮かべたが、自身の身体に現在進行形で起きている異常にようやく気づいて、すぐに表情を引きつらせる。


「ま……待て!」


 袁が言い終わる間もなく、ヴェルは袁の左胸に思い切り突き立てる。


「……な、なぜ……だ」


 絞るような声で袁が言うと、口から大量の血を噴き出して、勢いよく地面に倒れ込む。


「弾丸に仕込まれたアンチ・プログラムが、背中に隠してある三本目の腕の起動を封じた。お前たち機械人は、ギミックをアテに戦う。つい数日前、お前と同じ機械人と戦ったばかりでな……俺がナイフで単純に仕掛けたら、三本目の隠された腕で虚を突いてくることは分かっていた」


 ヴェルのナイフは、正確に袁の人工心臓を串刺しにしていた。話し終える頃には、袁はすでに動かなくなっていた。


「ヴェル!」


 ナタリによって無事にガス室から救い出されたミコトとキオンが、そして、ガスを停止したナタリが、一斉にヴェルの元に駆け寄る。


「先輩、ど、どうやってここまで? もっと時間がかかるかと……」

「地下にいた夕霧博士が、モグラだけが知っている地上への最短ルートを共有してくれたんだ。あ、いや、夕霧博士というか、博士のAIなんだが、ややこしいな。くそっ」


「夕霧博士って、地下の資料にあった、あの?」


 キオンが尋ねる。


「ああ。その博士の人格を模したAIが生きていて〈カオティック・コード〉のアンチ・プログラムが刻まれた弾丸をくれたんだ」

「よく分からないけれど、みんな無事で何より。でも、積もる話は後よ」


 ミコトがそう言うと、ヴェル、ナタリ、キオンはそれぞれ頷いて、続くミコトの言葉を待った。


「篠塚宗次郎は〈カオティック・コード〉を利用して、拉致した要人を〈第三の知性〉に造り替えるつもりよ」

「そして、中央政府の権限を握った後、最下層を手始めにすべてのマキナスを〈第三の知性〉へと造り替えるつもりだ」


 キオンの補足に、ミコトが頷いて言葉を続ける。


「〈第三の知性〉は、話を聞いた限り、篠塚宗次郎の思い通りに動く、マキナスに代わる新たな人工生命体よ。彼は、この施設の地下に中央政府の要人たちを監禁していると言っていた。アイザックから完成した〈カオティック・コード〉を受け取ったら、奴は……」

「待って下さい、ここにアイザックが?」


 ヴェルが口を挟む。


「ああ、少し前に着いたという報告がきて、篠塚はここを出ていった」

「しまった」


 そう言って血相を変えたヴェルを見て、ミコトが尋ねる。


「ヴェル、どうしたの?」

「ノアが……」


「ノアって、報告書にあった例のマキナスのこと?」


 ヴェルは頷いた。もし、先にアイザックが篠塚宗次郎と会っているのなら、アイザックは身を挺してノアから篠塚を守ろうとする。


「冴継、二人を護衛して外の安全な場所まで連れ出してくれ」

「先輩、私も行きます」


「ダメだ。さっきの戦闘のダメージが抜けてないだろ」


 ヴェルの言葉は事実だった。ナタリは先の袁との戦闘で受けたダメージ、特に不意を突かれてくらった蹴りによって、肋骨を骨折していた。


「お前を信頼しているから二人を任せるんだ。頼まれてくれ」


 その言葉に、ナタリは目を開いて、ミコトとキオンも目を丸くして、顔を見合わせた。


 ひと昔前のヴェルはこんなことを言う男ではなかった。アリシアを失って、自身も再起不能寸前にまで追い込まれ、マキナスの身体を借りて復活したとはいえ、いつも心のどこかで闇を抱えていた。


 言われたナタリは、拗ねたような表情を見せる。


「ず、ずるいです先輩……。そんな風に言われたら、こ、断れません……」


 そう言って膨れるナタリを見ながら、ミコトとキオンはひとしきり笑う。


「ヴェル。私たちはナタリについて外から支援します」

「調整局とテンペストの繋がりを示す証拠も十分だ。俺たちはまずファントムを解放して、その後、部隊を引き連れて再びここに戻る」


「分かった。それまでに、俺は篠塚を止める」


 行きましょう、と言ってナタリが先導し、ミコトとキオンが後に続いて部屋を出ていく。ヴェルは夕霧博士から受け取った青い弾丸を再び銃に装填し、別の扉から廊下に出て、ノアを探す。


 間に合ってくれ。ヴェルは全速力で駆ける。

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