<case : 02> phantom - 残党街
見上げても星は見えず、殺風景な隔壁の蓋が、空のあるべき場所を覆っている。
そんな、光の届かない多重構造都市〈ドーム〉の最下層。澱んだ埃交じりの空気が喉に絡みつき、ヴェルは強化鉄でできた灰色狼の面の下で、不快な表情を浮かべた。
周りには、ジャンクが溢れていた。全世界を巻き込んだ第三次世界大戦の爪痕は、二百年経った現在も、そこかしこに残されている。
それらの、行き場を失った残骸の間を縫って縦横に無造作に伸びた電灯が、申し訳程度に道と呼べそうなところを照らしている。
「久しぶりの仕事だが、ヴェル。気分はどうだ?」
耳に埋め込まれたスピーカーを通して、通信担当兼分析官のキオンの声が聞こえてくる。
「いつもと変わらない。むしろ、家に帰ってきた気分だ」
「陽の光も届かない最下層が家だって? さすが〈掃除屋〉様は、病み上がりでも言うことが違う」
「いいから、早く情報を送ってくれ」
「了解」
データの受領音を聞くと同時、ヴェルは腕に一体化したデバイスを操作して、眼前にARスクリーンを展開、該当のデータへアクセスする。
──瀬田ダンジ、ドーム最下層、残党街居住の労働型マキナス、個体識別番号T-1878897、男性型、メンテナンス期限の大幅超過。再三の申し入れにも応じず施設への強制連行を許可。
「……これだけか?」
「それだけ。お前なら目ぇ閉じてたって楽勝だろ?」
「なら、俺じゃなくても──」
「そう言うなって……すぐに違法改造者や反人工生命主義者の排除に回されるほど、アリシアの件、安くはないってことだろ」
ひと呼吸おいて、キオンは言葉を続ける。
「お前を思っての上の配慮だよ。いいか、無理はするなよ。何かあったら遠慮なく呼んでくれ」
「……分かった」
通信を終了し、さっそくデータが示す座標を確認してスクリーンを閉じると、ヴェルは目的地に向かって勝手知ったる最下層の道なき道を歩き始めた。
すぐに、離れたところから、複数の視線を感じる。害意はない。ただ視られているだけだ。外から来た人間が珍しいのだ。
〈残党街〉と呼ばれるこの場所は、金も、名声も、このドームの正式な居住権すら持てなかった者たちが行きつく、多重構造都市の最下層に位置する巨大な貧民街だ。理由がない限り、そこに自分から赴こうという奴はいない。
さらに、ヴェルを監視しているのは、人間だけではない。二百年前──第三次世界大戦に投入された化学兵器による汚染で、地上の大半が生物の棲めない場所となった後、人々は地上に残された僅かな未汚染地域を特殊素材で覆い、このドームを建造した。
その際、不足した人口を補うために開発された、人類発明の集大成。人間のように思考し、人間と変わらぬ意思を持ち、人間と共生する人工生命体。
「マキナスか……」
入り組んだ路地を抜け、人間と破棄されたマキナスたちが共同で暮らす居住区に足を踏み入れる。入り乱れる原色の電灯を頼りに、一段の高さが微妙に異なる階段を登り、ゆっくりと奥へ進む。
ガタン、と横で音が鳴る。ヴェルが目を向けると、金属の板が立てかけられていると思っていたそれは実はドアで、中から老婆が顔を覗かせていた。
漆黒のタクティカルジャケットに、灰色狼の面をつけたヴェルの姿を見てその場にへたり込んでしまったらしく、老婆は小刻みに震えている。
ヴェルは、面を外して老婆に危害を加えるつもりはない旨を身振りで示し、小声で問いかける。
「瀬田ダンジ。この奥にいるか?」
老婆は、なお震えながら、小さく頷く。その場を後にして、確信をもって奥の部屋の前に辿りつき、ささくれたドアをノックする。
「どちら様?」
中から出てきたのは、痩せた少年だった。
「
「お、おじさんならいないよ。本当だよ」
「坊主。嘘はやめた方がいい。昨日、帰宅してから外に出ていないという報告が入っているんだ」
少年を押しのけて部屋の中に入る。低い天井、ボロボロの壁、残飯の欠片でも落ちているのか、床を見ると斑点のような黒ずみがある。
よく見ると、小さな虫が何匹も蠢いていて、他にもゴミや衣服が散乱して足の踏み場もない。子供が住むに、とても衛生的とは言えない。
居間らしきスペースに入ると、机はなく、老人と老婆がそのまま地面に座り込んでいる。
「お父さん、お母さん。お客さんだよ」
少年が座っている二人に向かってそう言ったので、驚いたヴェルはもう一度二人に目を向ける。しかし、どう見てもそこにいるのは、少年の両親には見えなかった。光の加減もあるのかもしれない。
「前から、こんな調子なんだ。ご飯のとき以外はずっとこう」
「……そうか」
ヴェル自身、残党街を訪れるのは初めてではない。
ドームでもっとも犯罪率が高く、違法マキナスの潜伏率も突出した最下層のこの街は、キオンとの会話でも言ったとおり、ヴェルにとっては家のようなものだった。
それでも、アリシアとの任務では子供と接する機会はほとんどなかった。この少年の暮らす背景を垣間見て、あらためてこの街の救いのなさに、ヴェルは続く言葉を失った。
人工生命犯罪対策室──通称〈ファントム〉で、ヴェルとアリシアは危険度高と判定されたマキナスや反人工生命主義組織を排除することを生業とする、表の組織図に載らない〈掃除屋〉と呼ばれる特別捜査官だ。灰色狼の面は、社会の裏側に示すヴェルの顔である。
アリシアの死さえなければ、今もこんな暇な任務で油を売らず、もっと闇の深い案件を担当していたはずだ。
そう思っていたが、この任務も闇の深さは変わらないのかもしれない。
定期メンテを受けないマキナスは人格データが老朽化し、思考に偏りが生まれてやがて暴走してしまう。人格データに埋め込まれた〈人工生命体の倫理規定〉によって、自身と人間に危害を加えることこそないが、知らぬ間に犯罪に手を貸してしまったり、間接的な事故の原因となり得る。
マキナスの暴走による事故。
ヴェルは認めていないが、アリシアもその犠牲者の一人だった。
「お兄さん、だぁれ?」
廊下の角から、少女が顔をのぞかせる。背格好から察するに、少年の妹か。
「上層から来た。瀬田ダンジというマキナスはいるか?」
「おじさんなら奥の部屋にいるよ」
少女が廊下の奥のドアを指さした。
「そうか。分かった」
「待って。おじさんは以前から体調がよくないんだ」
少年がヴェルを制する。
「今日は特に調子が悪そうで……帰ってから、すぐ部屋にこもっちゃって、出てこないんだ」
「おじさんの体調が優れないのは、定期メンテを受けないからだ」
「それって、お金かかるんでしょ? ボクたち、おじさんの配達の仕事がないと……」
「違法配達屋か。正規の業者なら、身体検査でハジかれるはずだ」
「おじさん、捕まっちゃうの?」
少女も少年のそばにやってきて、心配そうな表情でヴェルに問いかける。この先、自分がやることは変わらないため、不毛なやりとりに辟易してヴェルは静かにため息をつく。
「メンテナンスを受けてもらう必要がある」
「どうしても?」
「それがおじさんのためだ」
そう言って、ヴェルはドアを開けて中に入る。
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