アパート・アスマー

桜枝 巧

アパート・アスマー


 それは、力強く、そして愛おしくなるほどに艶やかな音だった。


 アパートのひとつ上の階に、誰かが引っ越してきたことは知っていた。

 挨拶は無かったから、どんな人なのかは知らない。

 僕が大学に向かうより早く家を出て行き、僕が帰った後に帰宅するような生活を送っているようだった。

 休みの日も外に出ているのか、顔を合わせたことは無い。

 音の性質から、女性ではないかと考えているが、それも僕の妄想に過ぎなかった。

 髪の長い見知らぬ女性が車に乗り込むところを、遠目に見かけたことはある。しかし、彼女が例の住民なのかは分からなかった。遠目に見ても、ぱっと目を引くようなひとではなかった。

 対してその音は、一瞬で耳に残るくらい、印象的だった。

 朝六時半頃、僕は呼吸さえ潜めて、天井に耳を澄ます。

 瞼を下ろし、聴覚を研ぎ澄ませる。

 少しでも天井から降りてくる音を拾えるように、今日は初めて椅子に乗ってみた。普段は物置の物を取る時くらいにしか使わないパイプ椅子で、足を載せると酷く不安定だった。それでも構わなかった。

 我が家の冷蔵庫の稼働音、窓の外から聞こえてくる小鳥の鳴き声。できれば、それらも消してしまいたかった。上の階を除いた世界全ての時間を止めてしまえるなら、僕は何もかもを差し出すだろう。

 

 ーーことん、と。

 

 無機質で柔らかく、花束よりも鮮やかで、路傍の花よりも密やかな音が、世界に満ちる。

 それは僕の鼓膜を震わせた瞬間、身体中の血管を駆け巡り、歓喜と快楽以外の感情を奪い去ってしまう。

 僕は思わず声を出しそうになって、唇を噛んでこらえる。今口を開けば、体内にあるあの音が、溢れ出てしまいそうな気がする。

 恐らく、何かを床に落とした音なのだろう。

 物を置いた音にしては大きいし、勢いがつきすぎているように感じる。

 かと言って、と僕は思考を巡らせる。

 果たして、こうも毎日同じ時間に、同じ物を落とすだろうか?

 何か感情が籠っている訳では無い。こうすることが日々の決まりなのです、とでも言いたげに、それはたった一つの密やかな音を僕に落としてくる。

 何かの合図のようであり、一日にひとつだけ上の階の彼女が零してくれる言葉のようだった。

 僕は必死で耳を澄ます。

 そして、息を呑む。

 音がする。

 一瞬ではない、断続的な音だ。分厚い床を飛び越えて、微かに風の音が聞こえてくる。

 ドライヤーだ。

 気が付かなかった、なんということだ。

 恐らく、僕が愛するあの音は、ドライヤーのコンセントプラグ部分を落とした時の音なのだろう。

 理由は分からないが、上の階の彼女は、コードを紐解く時にプラグ部分を落としている。

 僕は想像する。足元がぐらつく。

 ドライヤーを使うということは、恐らく風呂上がりだ。薄い肌着を身につけ、普段他人には見せない大胆さを見せて、彼女はリビングに入ってくる。

 髪にはいくらか水滴が残っているかもしれない。頭にタオルを被せたまま、大股で部屋の中を移動する。

 手にはドライヤーが握られている。コードは送風部にぐるぐるに巻かれている。

 彼女はそれを解こうとする。

 あまり器用ではないのかもしれないし、あるいは面倒臭がりなのかもしれない。コードを解くとき、その先にあるプラグが地面に落ちる。彼女は気にしない。コードを解ききってから、ようやくプラグを拾い上げ、コンセントに差し込むーー。

 僕は目を開くと、椅子から降りる。その場に座り込むと、あの上の階の音達は消えてしまう。

「…………あぁ」

 喉を震わせると、自分の身体がぐずぐずに溶けだしてしまいそうな気がした。

 酷い罪悪感と高揚感が襲ってくる。

 帰って来れなくなりそうになるのを、ゆっくりと深呼吸することで留める。

「今日、一限、あったっけ」

 僕は呟いてから、立ち上がるために膝を立てた。


 その日から、朝六時半頃になると、椅子に乗って耳を澄ますことが、僕の日常になった。

 ドライヤーの音が聞こえてくるのは、月曜日から木曜日までの朝だけだった。夜遅く帰ってきてから、そのまま寝てしまうのだろう。そして、朝シャワーを浴びる。

 週末はゆっくり風呂に入るらしく、あの音は聞こえてこなかった。夜、ドライヤーで髪を乾かすときを待ってみたこともあったが、あの音は聞こえてこなかった。

 僕は六時半までに起き、珈琲を淹れる。朝食を作り終えたところで、椅子に乗る。あの愛おしい音を聞き終えてから朝食を食べ、服を着替え、歯を磨き、髭を剃る。

 それは最早、生活の一部だった。

 かと言って、彼女の他の生活音を聞き取ることはしなかった。

 確かに興味がないと言えば嘘になる。

 しかし、それ以上聞き耳を立てる必要性は全く感じなかった。僕が欲しているのは、ただあの一瞬、ことん、という音だけなのだ。

 その日は、たまたま大学に早く向かわなければならなかった。

 前日までに済ませておくべきレジュメの印刷が間に合っていなかったのだ。大学のパソコン室が開く時間も決まっているから、タイミングを見計らって家を出る必要があった。

 あのプラグが落ちる音を聞き終え、身支度を済ませると、ちょうど良い時間になった。普段はもう一杯珈琲を飲んでから向かうのだが、無理そうだった。

 僕が家の扉を開いた時、カンカンカンカン、と階段を下ってくる音が聞こえてきた。

 見れば、そこにはいつか見た長髪の女性の姿がある。

 ちょうど出勤する所だったらしく、パンツ・スーツ姿だ。大きめのカバンを肩にかけているが、急いでいるらしく、紐の片方がずり落ちていた。

 口には栄養補給のゼリーが加えられている。普段からそうしているのだろう、彼女の姿は、酷く朝に馴染んでいるように見えた。

「……おはようございます」

 僕が挨拶をすると、彼女は軽くお辞儀をした。

 瞳は小さく、背も低い。あまりぱっとしない顔だ。だのに眉毛は黒々としていて、彼女の額にくっつく虫のようにも見えた。

 後ろで雑に結んだ髪が、お辞儀に合わせて揺れる。手入れされているとわかる程度にはまとまっていた。

 この髪を、いつも彼女は乾かしているのだろう。

 そう思ったが、それ以上のことを思うことは無かった。

 慌ただしく僕の目の前を通り過ぎた彼女は、淡いピンク色の軽自動車に乗り込むと、直ぐにどこかへ行ってしまった。

 僕は黙ったままだった。

 彼女の指先が、大胆にドライヤーのコードを解き、ことん、というあの音を生み出すところを想像してみる。

 その指先は整っていて、爪が僅かに光沢を帯びていた。透明なネイルでも塗っているのだろう。そこから放り出されたプラグは宙を舞い、やがて重力に従って床に落ちる。

 そこに、最早彼女の顔はなかった。どころか、指先以外は見当たらなかった。それすらなくたってよかった。必要なのは、彼女がその行為をしているという事実と、あの軽やかで、力強くて、艶やかな音だけだった。

「何かを愛することについて、その他の多くを欲する必要はない」

 僕は満足すると、自転車を取りに向かった。


 それから、彼女と顔を合わせる機会は何度かあったが、軽く挨拶を済ませる程度のものだった。それはそれで構わなかった。

 彼女には感謝している。僕とかの音を出会わせてくれたことは、何よりも有難いことだった。もしも彼女が何かを望むのなら、僕はそれをするに違いなかった。

 当然、彼女が沈黙と無関係を望むのなら、僕はそれに従う。

 今日も僕は椅子に乗り、天井に耳を澄ます。床を隔てた逢瀬を繰り返す。

 冷蔵庫の線を引き抜き、カラスはアパートから追い払った。音がしないよう、ゆっくりと呼吸をし、全ての動きを止める。己の心拍すら邪魔だった。

 最早、朝以外の時間は蛇足に過ぎなかった。あの一瞬だけが、僕が欲する時間だった。

 何かを愛することについて、その他の多くを欲する必要はない。

 昼は必要ない。

 夜は必要ない。

 生活は必要ない。

 僕は必要ない。

 彼女は必要ない。

 ただ、あの愛らしい「ことん」という音を聞き取るだけの存在になる。

 そうして僕は、今日も愛しい音に逢いに行く。

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