きよしこの夜

@FFHiro

第1話

 ばばあにサンタクロースは来ない。

 本人は自虐的と考えても、人様から見ればなるほどと思う政子は六十六歳である。

 十二月に入って、ついてないと思うことが起こるのはきつい。六十で定年退職したあとアルバイトで経理の仕事をしていた小さな会社をクビになった。

 「山本さん、もう年金も出てるし、ウチを辞めたって不自由はないでしょ。」さして気の毒そうな風もなく私と同い年の社長に言われて、はいと頷いてしまった。

 確かにお金に不自由はないのだ。贅沢を言わなければ。両親が遺してくれたのは土地付きの小さな家だけだが、ローンも家賃も不要というのはまだ幸せかもしれない。親の家で暮らしていることから、前の会社のころからも「お金を貯めている。」という評判はたてられていた。確かに、少しばかりの貯金はあるが、海外旅行、観劇、洋服と、親がかりである気楽さから遣ってきた結果、少しばかりとの結果になっている。

 しかしながら、仕事を失った痛手は金銭面ばかりではない。行くところがない。会う人がいない。両親を定年前後に間を置かず失い、コロナ禍下で友人たちとも会うこともなくなった。もとより、学生時代の友人はほとんどが家庭に入ると、会うことも少なくなった。

 趣味も続いたお稽古ごともなく、仕事をしていたときは、週末は家事と昼寝で時間が過ぎていた。その仕事もなくなった今、どう過ごせというのか。ぼんやりとテレビを見ているばかりでも時間は過ぎていく。

 クリスマスも近い日の夜、ふらりと外に出てみた。散歩がてらにコンビニにでも行こうと思ったのは、一日中家に居て、誰とも口を利いていないことに気づいたからだった。

 コンビニの店員と一言、二言言葉を交わし、外に出ても、気持ちが乾燥しきっていて、風が自分を通りぬけ、何かを舞い上げる音が聞こえそうだった。

 政子は、帰り道の途中の公園に入っていった。クリスマスツリーになりそうな大きな木の下に、ベンチがある。 ベンチを見下ろす木には、当然何の飾りもない。大きく首を曲げて見上げると、冬の夜は空気が澄んで、晴天も味方した夜空の星が、木の上に落ちてきそうなほどたくさん瞬いていた。

 冷たいベンチに腰を下ろして、エコバックの中からさっき買った温かいカフェ・オレのボトルを両手で包む。

 「そうすると、あったかいでしょう。」

 隣から突然聞こえた若い声に驚いて、そちらを見て再び驚いた。カフェ・オレのボトルを取り落とさなくて良かった。まだ蓋をしたままでも。

 中年の男がにこにこしながら座っている。知らない顔ではない。良く知っている。でも、できれば再び見たくない、会いたくない人だった。以前働いていた会社で二年間、政子の上司だった矢野だ。

 矢野はできると称される男だった。そしてそれを部下にも要求する。そのうえ、できない部下には徹底的に原因を追究し、「できる」方向に導こうとする。指導力があると評されたが、厳しい物言いに慣れない政子は、彼の追及に怯え、混乱し、ますます仕事が遅くなる。失敗を恐れるあまり、新しい仕事には手を出さず、やってきた仕事のみを行い、それを奪うと思われた後輩への指導も頑なに拒否した。その彼が目の前にいる。にこにこ笑って?笑顔なんて見たことあったっけ。そう考えて、ふいに政子は固まった。

 目の前の男は、政子より若い。政子が彼の部下だったのは、彼が40代後半だっただろうか。その年頃の彼が、目の前に居る!

 その驚きがもう一つの記憶を蘇らせた。数日前に届いた定年退職者会の会報に、矢野の訃報が載っていた。七十半ば過ぎでと早い逝去に驚いたばかりだった。

 ごくん、と漫画のような音が出るんじゃないかと思うほど、大きく唾を飲み込んで、やっと声が出せた。

 「や、矢野さんじゃないですよね。」

 矢野であっては困る。人気のない夜の公園で幽霊を見るなんで嫌だ。それに矢野から化け出られる謂れはない。恨むのなら政子の方が恨みたい。

 「矢野さんって言うんだ、この人。違うよ。あなたの心や記憶をスキャンしたら、この人が何回も出てきたんで、会いた人かなって思ったから姿を借りたんです。」

 「違う!」と否定する前に聞くことがある。

 「あなた、誰?」

 「天使、って言葉がわかりやすいかも。」

  わかりやすくはない。天使って何。受胎告知等の絵で描かれている天使とは随分違う。どういうこと?口には出てこない質問が頭の中で渦まく。

 「僕ね、結構新米の天使なの。で、神様に昇格試験として、クリスマスまでに誰かの願いを叶えてこい、って課題を出されたの。」

 風貌と全くそぐわない若い、柔らかい声が続ける。「で、対象が政子さんだったんだけど、どうやって近づこうかと考えていたら、公園でベンチに座ったし、他に人がいないからタイミングとしてはいいかな、と思って声をかけた。あ、カフェ・オレ、早く飲まないと冷めちゃうよ。空気が冷えてきたから。」

 と言われて、持っているボトルを思い出し、封を切って一口飲む。冷えるのを恐れるからではなく、落ちつくために。

 「じゃ、消えて。」

思いがけないこと、超常現象、どっきり、どれも政子が忌み嫌うものである。自身の理解の範疇の中で暮らしたい。

 「いきなりその望み?ひどくない?そんな簡単に言えて、即叶う望みが本心から出てるとは思えなくない?」

天使は人の望みを選別するんだ。

 「僕の昇格がかかっているんだよ。協力してあげたいとか、政子さんは思わないの?」 

 「人の心を勝手にスキャンしたあげく、間違った変身した天使になぜ私が協力しなきゃいけないの?」

 「間違い?この人は会いたい人じゃないんだ。」

 さっきまでのにこにこ顔が落胆の表情に変わる。

 「そう、世界で一番会いたくない人。その上、もう亡くなった人だから、幽霊に会っているみたいで、気味が悪い。」

 普段の政子に似合わずぽんぽん言葉がでてくる。政子も自分の世界を守ろうと必死なのである。

 (自称)天使は、政子の言葉にますます萎れる。が、ふいに顔を上げて言い出す。

 「間違いはしょうがない。誰だって間違える。政子さん、これまで66年の人生で間違いは色々あったでしょ。」自分をスキャンした相手に言われると、返す言葉はない。

 「クリスマスなんだもん、なにか奇跡に近いことが起こってもいいと思わない?あ、でも僕は神様じゃないから、奇跡は無理。あ、サンタクロースも呼べない。管轄が違う。」神様の世界はお役所みたいに縦割りなのか。

 「じゃあ何ができるの?」

 「政子さんが、まず候補をだしてみてよ。」やはり、天使は人間の希望を選別するのだ。

 政子は矢野の姿をした天使を改めてつくづくと見つめた。矢野は着るものをおろそかにしない人だった。目の前の天使は、あまり暗くないモスグリーンのシャツに茶系のネクタイを締め、それらの色が混じったツイードのジャケットを着ている。

 マフラーもコートもないのが寒々しいが、本人が寒そうにしていないので見栄えの悪くない中年男性に見える。

 「クリスマス・イブにレストランに食事をしにいきたいのだけど、付き合ってくれる?」

 「レストラン?イタリアン?フレンチ?」

 「フレンチ。行きたいお店があるの。」

 クリスマス・イブには独り身の女友達数人と食事をするのがここ数年の習わしだったが、コロナのせいで2年ほど会えていない。オンライン飲み会を提案した友人(離婚して息子と二人暮し)もいたが、パソコンにそれほど詳しくない政子には敷居が高く、他の友人もWi-Fiがうまく働かないなどの理由で実現していない。

 その上、政子はクリスマス・デートの経験もなかった。性格からか元々縁遠いのに加え、まれに付き合った相手がいても、クリスマスを一緒に過ごすには都合が合わなかったりした。

 行きたいレストランは以前友人たちと一緒にいったところで、シェフとホールを担当するその奥さんの二人でやっていた。フランスから空輸しているとシェフが自慢したパンも美味しかったことが忘れられず、もう一度行ってみたいとずっと考えていた。

 両親は政子一人で連れていくには高齢過ぎ、そのうち、相次いで病を得て、鬼籍に入ってしまっていた。

 政子自身も60代半ばを過ぎ、コロナでほぼ行くのを諦めていたレストランである。目の前にちょうど都合の良さそうな人間(?)がいて、望みを叶えると言っているのだから、このチャンスを逃しては、二度とその店でのクリスマス・ディナーは実現しないだろう。

 「レストランで食事を付き合うだけでいいの?」

 「季節に合わせて、コートやマフラー、手袋もして、レストランで奇異な目で見られない格好に整えてくれれば助かる。」

 「一度変身した姿は変えられないけど、身の回りのものを季節に合わせるくらいはできるよ。レストランの予約は?僕がする?」

 「大丈夫。自分でする。」

  早速スマートフォンを取り出して、ネットでお店を検索するがうまく出てこない。コロナの流行のせいで閉めたレストランも多いから、もしかしたらと落胆しかけると、矢野の顔をした天使が言い出した。

 「電話番号知らないの?日にちも迫ってるし、電話した方が早くない?」

 以前友人たちと食事をしたときに、また来たいと電話番号を連絡先に加えた記憶があった。五十音順で調べてみると、まだ残っていた。

 エスポワール、フランス語で希望を意味すると聞いた。

 「この電話は現在使われておりません。」というアナウンスを恐れながら電話をすると、つながって呼び出し音が鳴り始めた。客商売には似合わず5回目のコールで、やっと相手が出る。接客に忙しい時間帯だったかもと、政子は申し訳ない気持ちになった。

 「お待たせいたしました。エスポワールでございます。」ホール担当だった奥さんの声が答える。

 「急で申し訳ないのですが、明日の24日のディナーに伺いたいのですが、お席はありませんでしょうか。」

 「何名様でいらっしゃいますか?」

 「二人です。」

 「少々お待ちください。」と電話は一旦保留にされる。予約状況を調べているのだろう。コロナの新規感染者数が減ってきて、世間は賑わいを取り戻しつつある。飲食店も年末に向けて、予約が埋まりつつあるとニュースで聞いた記憶が蘇る。まして、クリスマスのイブの24日である。天使はこの状況を何とかできるもんだろうかと、顔を見ると、にこにこと笑い返してくる。そうじゃない、私は不安なのに気持ちも読めないのかと政子は天使の技量を疑う。

 ややあって、電話が再び繋がった。

 「二名様でしたら、お席のご用意が可能です。お時間は6時でもよろしいでしょうか。」

 「はい、結構です。」

 「お名前と、お電話番号を頂戴できますでしょうか。」

 名前と電話番号を伝え、それでは24日にお待ちしていますと言われて、電話を切った。

 「予約できたんだね。良かったね。当日は、政子さんのお家まで迎えに行けばいい?車で行けるよ。花束を持っていこうか?」

 何が嬉しいのか、矢野の顔をした天使のテンションは高い。

 車で迎えにくる?花束持って?止めてもらいたい。近隣との付き合いは少なくなったものの、長く住んでいる家である。周りの目というものは一応ある。

 「ううん。お店の前で、6時に。」と言っても、政子の性格では30分前にはお店の近くに着いているだろう。

 「えー、デートじゃない。お店に着くまでも楽しみたいものじゃない。」

 デート?政子にとっては天敵ともいえる相手である。前後は要らない、食事さえ付き合ってくれれば良い、というのが本音だが、往年の矢野からは想像できない人の好さげな笑顔に、それは政子には伝えられない。

 「大丈夫。食事を付き合ってくれれば、それだけでいいの。」

 「ふーん。」やや不満気であるが、反対はしない。そう、彼のミッションは政子の願いを叶えることで、意に沿わないことはできないはずだ。

 「それより名前は?あなたをなんて呼べばいいの?」

 「矢野さん、でいいんじゃない。僕の本当の名前は長いし、たぶんこの顔には似合わないもの。」なるほど。

「では、明日6時に。レストランの場所は大丈夫ね?」

 「一応天使なんで、大丈夫。」人の心を読むのを誤った新米天使は自信満々である。「では、ってもう帰るの?明日のこととか相談はないの?」

 寒空にこれ以上いられない。政子の心も、今目の前で起こっていること、自分が言い出したこと等、現実とのずれに対処が難しくなっている。

 「明日の洋服とかを考えたいの。寒くなってきたし。」

 「そうだね、女性は色々と準備があるよね。何か困ったことがあったら、『矢野さん』って呼んでみて。すぐ現れるよ。」

 ランプの魔人でもあるまいし、明日のレストラン以外で現れてもらっては困る。矢野の名前を思い浮かべることも注意しなければ、と政子は自分を戒める。

 自宅に帰って、冷え切っていることに気づき、お風呂で温まる。

 とんでもない約束をしてしまった。クリスマスにフレンチレストラン。すっぽかす、という選択も心に浮かんだが、すっぽかされて困るのはレストランだろう。天使は政子が約束の場所に現れなければすぐに、さっきのように目の前に現れるに違いない。

 明日のことを考えよう。髪は、年末の混雑を避けようと、先週カラーリングやカットを済ませたばかりである。問題は洋服か。コロナの流行以降、外出する機会がへったので、新しい洋服を買っていない。明日、以前良く購入していたお店に行ってみよう。店長がきっと何かちょうど良いものを見立ててくれることを願う。今の、カオス真っただ中の政子には決断力は残っていない。まずは睡眠をとって、明日に備えよう。

 翌朝目覚めると、昨夜起こったことは自分の夢だったような気がしたが、スマホの発信履歴には、「エスポワール」と確かに残っていた。

 万が一にもエスポワールに迷惑をかけないこと!と政子は自分に言い聞かせて、行動を起こした。

 デパートの中にあるブティックにいくと、幸い店長は変わっておらず、レストランに食事に行くという政子の言葉に、ちょうど良さげなものを選び、合わせてコートも勧めてくる。滑らかにまくしたてる彼女に対して戦意は全く起きず、言われるままに購入する。年が明けてカード明細がきたときに、きっと夢から覚めた気がするのだろう。

 5時半には、レストランの最寄り駅についたが、レストランの近くには6時近くまで近づかない、と心に決める。政子が行けば、きっとあの天使が現れる気がした。

 何をみているのかどこかうわのそらな気分で駅ビルの中を歩き回り、6時5分前にレストランに到着した。以前と変わらず、どちらかというと地味な佇まいの店である。大通りから少し離れて、以前何かに紹介されていた時に『隠れ家的』と評されていたことを思い出した。

 店の前に、矢野の顔をした天使が立っていた。にこにこしている。

 「さすが政子さん、時間ちょうどだね。」

 コート、マフラー、手袋も付けている。

 天使は、店の前で自分の手袋をはずし、店のドアを開けて、政子に中に入るよう促す。

 店の中の温かい空気がふわりと顔にかかる。

 女性が現れ、「ご予約の山本様でございますね。」と言い、「申し訳ございませんが、先に検温をさせていただきます。」と政子の額に非接触体温計を近づける。天使に体温はあるのか。おそるおそる振り返ると、ピッという音とともに女性が「ありがとうございました。」とほほ笑んだのが見えた。体温はふつうに測れたらしい。

 「コートをお預かりいたします。消毒にもご協力をお願いいたします。」

 店の中は、各テーブルに置かれたキャンドルが間接照明となってやや薄暗い。他にも客はいる様子だかしかとは認識できない。

 席に案内され、メニューを渡される。飲み物のメニューはと彼女をみると、

 「クリスマスですので、シャンパンをご用意いたします。どうしてもシャンパンが苦手な場合はお知らせください。また、ノンアルコールのスパークリングワインの用意もございます。」と告げられたので、天使を見ると、

 「僕はシャンパンで。政子さんは?」と間を置かずに、聞かれた。

 「私もシャンパンで。」と答える。政子はアルコールには強くないが、一杯くらいなら大丈夫だろう。何より、クリスマス・イブなのだ。店の用意に否やを唱える気は起らない。

 シャンパンのグラスが配られ、乾杯をする。

 テーブルの向こうには、笑顔の矢野、もとい、矢野の顔をした天使がゆったりと座り、シャンパンのグラスを傾けている。様子の良い彼と、明らかに年上に見える政子は、他人からはどのように見えているのか。にわかに気になるが、薄暗さに加え、シャンパンの酔いが加わり、気が大きくなる。たぶん、誰も政子たちのことは気にしていない。それぞれのテーブルで、各々楽しんでいるのだろう。特に声も聞こえないが。ふと、オープンキッチンの方をみると、シェフの帽子が見えた。

 メニューを開くと、以前と同様プリフェックスのコースが二つ並んでいる。

 さて、どちらで、と考え始めたとたん、目の前の矢野が口を開いた。

 「残念、ここまでみたい。」

 なんのことかと顔を上げると、先ほどまでオープンキッチンの中にいたとシェフとその妻が、テーブルの横に並んで立っている。表情は悲しそうだ。

 「申し訳ございません。料理の提供まではできませんでした。」

 シェフの声がする。以前訪れて、料理の説明やパンのことなど説明してくれた時の陽気な雰囲気ではない。

 「オリンピックの頃に、私も妻も罹患してしまいまして、店に戻ることは二人とも叶いませんでした。お客様たちに再びお会いすることも、料理を食べていただくこともないままに、甥にレストランの始末を委ねるしかなかったことが心残りで、山本様のお電話をつい取ってしまいました。」

 コール5回で取られたあの電話?政子の頭の中に疑問詞が一つ、二つと勢いよく増えていく。罹患して店に戻れなかったって、この人たちは?

 「山本様のご来店に向けて用意をするのは、妻も私も心が弾みました。シャンパンはそのままございましたが、食材を仕入れることはできず、料理もできなかったのが残念です。お詫びに、私と妻が繁忙期にまかないで食べていたものをご用意いたしました。」

 テーブルの上を見ると、矢野の前には緑のたぬきが、政子の前には赤いきつねが置かれている。蓋を開けてすでにお湯が注がれているようだ。開けた蓋を抑えるのに、四角く折りたたまれた真っ白なナプキンが置かれている。

 「あと1分ほどで召し上がれます。」

 目の前の二人とは別に、少し先に生き生きと笑うシェフと奥さんの姿が見える。

 「フレンチの店のまかないに、カップ麺というのはどうかね。」

 「お客様が第一。そのご用意をするために、自分たちのために時間を割けない時もあるわよ。早く食べられて、温まって、おなかに力が入る。赤いきつねも緑のたぬきも、今日は私たちの助っ人よ。やけどしないように、食べているときだけ、少しゆっくりしましょう。」

 「そうだね。今日の夜は予約でいっぱいだから、これでエネルギーをもらって、あとは精一杯がんばろうね。」

 そんな二人の会話が政子の耳に届く。

 レストランを、お客様を、何より自分たちの仕事を愛してやまない二人が店をやっていたことが政子にも理解できた。そして、理不尽にも病で急にその愛してやまないものを奪われた無念さも。

 「どうぞ、やけどをしないようにゆっくりお召し上げりください。」

 声がしたと思ったら、二人の姿は消えていた。周りを見渡すと、他のテーブルのろうそくも消えて、店にいるのは天使と政子だけだ。

 「これって。」政子が話し出すと、天使が遮った。

 「彼らのせっかくの心づくしだ。まずは食べちゃわない?」

  天使が箸をとり、蓋を大きく開ける。途端に温かい湯気と美味しそうな匂いがただよってきて、政子は空腹だったことに気づく。

 蓋から取ったナプキンを膝におき、(普段着ではないのだ。)蓋を取る。四角い大きなお揚げが、汁を吸ってふっくらと浮かんでいる。

 政子も箸を取り、やけどをしないように少し汁を啜って、食べ始める。温かな汁が、麺が喉を通って、お腹に落ちていく。お腹が満たされてくると、疑問詞でざわついていた心も落ち着いてきた。

 すべて食べ終わったときには、なんだか満たされた気持ちだけが政子の中に残っていた。寒い公園の大きな木の下のベンチで始まった不思議は、政子の中できちんと帰結したように思える。お腹が満たされるというのは、大事なことだ。

 天使だけがやや気落ちしたように話し始める。

 「フレンチが食べられなかったんだから、僕の課題は落第かな。」

 政子が答える。

 「私は『レストランで食事がしたい。』と言ったのよ。フレンチが食べたいと言ったわけじゃない。」

 「赤いきつねだよ。」

 「美味しかったし、満腹になった。そのうえ、心まで温めてもらった気がする。私が神様なら、及第点、ううん満点を上げる。」

  天使の顔が明るくなる。

 「神様に僕の対象が『満足だった。』と言っていましたって、伝えればいいのよ。」

 そんなことを伝えなくても、神様にはきっと満たされた政子の心はお見通しだろう。乾いていた心は、もう政子の中にはない。

 店の外にでて、空を見上げる。満点の星だ。あの公園の木の上にも同じように輝いて、木をクリスマスツリーのように見せているかもしれない。

 「素敵なクリスマス・イブだった。ありがとう。」

 天敵の矢野の顔をした天使に言う。この変身の失敗だけが、かえすがえすも残念だ。

 「次に課題の対象をスキャンするときには、もう少し注意深くね。」

 政子が初めて年上らしく、天使に注意をする。

 「うん。政子さん、これで本当に良かったの。」

 「ええ、シェフと奥様とあなたに温めてもらったこの気持ちのまま、家に帰る。じゃあね。」

 「メリー・クリスマス。」

 「あなたにもメリー・クリスマス。そして、良いお年を。」

 政子は歩き始める。天使も、レストランも振り返らずに。

 きよしこの夜、サンタクロースはやってきた。お決まりのように姿は見せないけれど、政子にプレゼントを持ってきた。天使も、シェフとその奥さんも受け取ったのだといいのだけれど。

 多くの人が政子と同じように幸せでありますようにと願いながら、政子は家に向かった。

                終わり


 

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