第2話
女子生徒を隙間なく詰め込んだバスは発車し、次のバスが停車位置に着いた。二人は真っ先に乗り込む。乗り込むと、すぐ降りられるように乗降口脇の二人掛けの椅子に腰を下ろした。
「あの、ジョイスの『ユリシーズ』ね。今、それを読んでるんだがね」
塚本が口を開いた。
「ありゃなんだね、確かに意識の流れは書かれているんだが、…どう言うのかね、人間の意識それ自体が小説のテーマになり得るのかね。材料には確かになるだろうが」
野元は英語科の教員であり、大学でも英文学を専攻した。「ユリシーズ」も少し読んだことはあった。
「『ユリシーズ』ですか。あれ、難しいでしょう。誰のことを書いているのか、途中でわからなくなるでしょう」
「あなた、読んだことある?」
「ええ、少し」
「あれが二十世紀の文学の方向を決めたと言うんだがね。しかし、読んで面白いものじゃないね。わけのわからないことを延々と書いているじゃない。あれじゃ、普通の人は読まないんじゃないの」
「そうですね。専門家か、高等遊民のような人しか読まないでしょう」
野元がそう答えると、塚本は我が意を得たりというような微笑を浮かべた。塚本はマスコミや文壇で評価され、もてはやされているような事柄には大体否定的だった。文学に限らず、政治や経済についても彼の立場は反体制に傾いていた。「ユリシーズ」の話はそれで一段落したようだった。
「もう問題できたかね」
しばらく沈黙した後塚本が言った。バスは国道から坂道を上る道筋へ直角に曲がった。塚本の横に立っている女生徒がバランスを崩して前に倒れかかった。ブラウスの胸の膨らみが塚本の顔の前にくる。塚本は顔を引いた。女生徒は照れたように隣の生徒と笑い合った。バスの中は女生徒達の賑やかな話し声で満たされている。
「一つはできました」
「いくつ作るの」
「あと二つ」
「へえ、大変だね」
「先生は」
「僕は一つ。そろそろ作ろうかな、と思ってる」
「何かいつも試験問題作ってる感じですね」
「毎月一回はテストがあるからね。実力テストか、定期テストか」
「試験のために授業やっているような気がしますよ」
「そうだね。教師は試験のために教え、生徒は試験のために勉強する。教育が試験に支配されている」
苦々しい顔付きで塚本は言った。
「今の子供達は試験のためではない勉強なんて考えられないんじゃないかな。試験があるから勉強する。勉強とは受験勉強だというのが当り前になっているんじゃないかな」
「そうでしょうね。学校自体がそうなっているんだから」
「そうそう」
塚本は頷いた。
「子供の思考力を育てるなんてことは全くしないんだからね。何故、どうして、という部分は切り捨てて結論だけを教える。しかもそれをすぐ受験テクニックと結び付けるから、結論の意味もよくわからない」
塚本は自嘲的な薄笑いを浮かべながら言った。
「推薦入試で合格した三年生なんか、もう勉強する気ないですからね。目標は達成したんだから」
野元がそう言うと塚本は頷いて、
「受験のための勉強だからね。試験に合格すればそれでOKなんだから」
「そうなると教師の側も指導の仕様がないですよ。試験に落ちるぞという脅しで生徒を駆り立ててきたんだから。卒業までどう引っ張っていくか」
「そうだね」
塚本の表情にまた自嘲的な笑いが浮かんだ。
「カリキュラムもそうなんだからな。国語科も私理のクラスには漢文を教えないんだ。大学受験に不必要ということで。高校を出て漢文が読めないというのはおかしいんだけどね」
私理とは私立大学理系学部の略称だ。男子部は二年生になると、国文(国公立大学文系学部)、国理(同理系学部)、私文(私立大学文系学部)、そして私理と、志望大学・学部別に四つのコースにクラスを分ける。それぞれのコースのカリキュラムは大学入試本位に編成されており、入試に不必要な教科・科目はカリキュラムから除外されている。例えば私文コースには数学はない。
「社会科も変ですね。一年生には歴史しか教えてないでしょう。公民をやるのは私文のクラスでそれを選択したものだけですよ」
「本当かね」
塚本は驚いたように言った。
「そう言えば一年の時間割には日本史と世界史しかなかったな。公民というのは昔の現代社会や倫社・政経にあたる教科だろう」
と野元に訊ねた。
「そうですよ」
「そうかね。そうすると憲法もよく知らないままで高校を卒業していく生徒が多いわけだ」
「そういうことですね」
野元は頷いた。
「基本的人権とか政治の仕組みなんか、なんにも知らないで社会に出て行くんだね。それでいいのかね」「さぁ」
訊かれた野元が今度は薄ら笑いを浮かべた。そして、
「だから政治に関心がなくなるんじゃないですか、今の若い人は」
と応じた。
「関心がないというより、政治について何にも知らされないんだからな」
塚本が溜め息交じりに言った。そして、
「受験勉強の裏側では主権者意識のない国民が形成されつつあるということか」
と苦い表情で吐き出し、
「まぁそれも、悪政を続ける連中にとっては都合のいいことではあるんだな」
と、顔をしかめて独り言のように呟いた。
バスが大きく左右に揺れながら旋回し、男子部と女子部の間にあるターミナルに停止した。バスを降りると、男子部へは更に角度の急な坂道を五十メートルほど上らなくてはならない。二人は肩を並べて上り始めた。
この坂道を上り始めると野元の心は重くなる。受持ちクラスの生徒の顔が浮かんでくる。野元は今年初めてクラス担任になった。クラス担任になってみて、生徒管理の重圧をひしひしと感じるようになった。生徒の生活態度、授業態度、服装頭髪など、種々の項目に学校が良しとする基準があり、それを逸脱している生徒は是正することが担任の責務となる。それで担任はいつもそんな基準の嵌まった目で生徒を見ることになり、そうした外面的な部分での対応に追われて、生徒の心の中まで目を届かせる余裕がない。
実に様々なチェック項目があるのだ! 服装については制服の着方から始まって、その下に着るシャツや下着の色・種類。学年組章の着け方、位置。ズボンの穿き方、靴の色。ベルトの色・太さ、靴下の色、etc。頭髪については髪の長さはもちろん、染髪・パーマ・眉毛剃り等の禁止。ピアスの禁止、etc。さらに携帯電話、ポケットベル、ウォークマンなどの持ち込み禁止。他にも教科書・ノートを置いて帰らない、登校や帰路の途中でのコンビニへの立入禁止など、禁止項目が目白押しだ。こうした様々なチェック項目をクリアした生徒に対して、担任は初めてリラックスした気分で向き合うことができるのだ。しかし実際にはそんな生徒とも向き合う余裕はない。不断に他の四十数名のチェックを続けなければならないのだから。
生徒を外面的に管理して知識を注入する。それも出来合いの、受験用に加工された知識を。それが学校という場所なのだと野元は思う。それは教える側としても、嬉しくも楽しくもない事実だった。だから当然にも不満を抱き、批判を持つ。しかしそれを口にできるのは塚本と話す時だけだった。他の教員達とそんな話はできない。彼等は学校の現状を当然と考え、そのシステムに沿っていかに忠実に効率よく働くかを競い合っているようだ。学校の受験・管理体制に批判的言辞を吐けば、やる気のない者と白眼視されかねない雰囲気があった。だから塚本も孤立しているのだ。彼が話を交わすのは自分ぐらいのものではないか、と野元は思う。塚本は職員室で本当にしゃべらない。野元と擦れ違っても声をかけてこないことが多い。大丈夫かなと野元が思うほどだ。この人も変わった人だと野元は横を歩く塚本のことを思った。
坂を上りきると、正門の脇に門立ちの教師が立っていた。登校してくる生徒達の服装・頭髪などをチェックする役目で、週番制になっていた。二人はその教師と挨拶を交わして職員室の方に向かった。
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