知己

坂本梧朗

第1話


 電車がK駅に着いた。塚本利秋が乗ってくる駅だ。野元修平はそれを意識したが、目を閉じたままにしていた。野元が乗っている車両は塚本が乗り込む車両だ。野元がその車両ー八両連結の後尾から二両目に乗るようになったのは初めは確かに塚本に合わせたためだった。そして二、三度、乗り込んでくる塚本を自分の側に招き寄せた。しかし、そのうち車両に乗り込んで自分を認めた時の塚本の表情に当惑したような翳りが浮かぶのを認めた。もちろんそれは瞬間的なもので、横、あるいは向き合った席に座って話し始めればいつもの塚本であり、そんな翳りは消えてしまっているのだが。しかし一瞬であっても自分が迷惑がられているのではという懸念を抱かせられたことは、野元にとって自尊心を刺激されることだった。それで野元は乗る車両を変えたこともあったが、電車を降りれば同じスクールバスに乗るのであり、顔合わせが早くなるか遅くなるかの問題に過ぎず、塚本の車両を避け続けるのも大人気ないと思い、また元に戻った。ただし以前のように乗ってくる塚本に声を掛け、自分の席の側に招くようなことはせず、目が合い、塚本にその気があれば、近寄ってくるだろうという気持ちで対応することにした。ところがそうすると塚本と目を合わすことが殆どなくなった。塚本が乗ってくる乗降口は決っていて、その正面やすぐ脇の席は避けていたこともあるが、そんなに離れた席に座っているわけではないのだが。塚本は乗り込むと周囲の席にさぁっと目を配る。空席を探しているのであり、乗客の顔はほとんど見ない。野元もそんな塚本の視線に頭の辺りを撫ぜられたことがある。そんな時も塚本は野元の存在に気づかず、目についた空席に腰を下ろす。塚本は座ると十中八九、ショルダーバッグから単行本を取り出す。それは雑誌の場合もある。雑誌といっても週刊誌などではなく、月刊の文芸誌だ。そして読み耽る。恐らく彼は車中の読書の時間を大事にしているのだ。自分の顔を見た時に塚本の表情を過った翳りは、その大事な読書の時間を奪われることへの不快感を表したものだと野元は今では考えていた。

 電車の扉が閉まり、野元は閉じていた目を開けた。車内を見回すと、塚本が乗降口すぐ脇の座席に座っているのが見えた。彼はよくその二人掛けの席に座った。早速、塚本はバッグから本を取り出した。彼は正面の席に座っている客をちらと見るだけでほとんど周囲に目を配らない。自分と目が合うのを避けているのではないかと野元は思うこともあった。

 野元が塚本に関心を持ったのは、彼が地元で発行されている詩誌に詩を発表していることを知ってからだ。野元は市内の目抜き通りにある書店で、その一隅に置かれている同人誌の中の一冊の頁をめくっていて塚本の作品を見付けたのだ。塚本が詩を書いているということは職場の誰かから聞いていたので、作者名に塚本の姓を見た時、もしかして、と思った。数日後、野元がそのことを塚本に尋ねると、塚本は笑みを浮かべて頷いた。それがきっかけで二人は話を交わすようになった。きっかけがそうだったので、文学の話がよく出た。塚本は職場でこんな話ができる人はあなただけだと嬉しそうに言った。野元もそう言われれば嬉しかった。やがて二人は文学に限らず、いろいろな事について話をするようになった。

 電車が目的の駅に着いた。野元はホームに出た。ホームはすぐ生徒達で一杯になる。野元と塚本が勤める高校の生徒達だ。野元が乗ってきた電車は下りだが、上りの電車も同じ時刻に駅に着き、やはり生徒達がホームに出てくる。その二つの流れが改札口で合流し、渋滞することになる。そのために改札口に降りていく階段の手前からノロノロ行進が始まる。「何で上りと下りを同じ時刻にぶつけるんだ」と塚本は何度か不満を吐き出したものだ。野元もうんざりする毎朝の不快事だ。後ろから歩いてきているはずの塚本を意識しながら野元はゆっくりと足を運んだ。時にはホームや階段で塚本と肩を並べ、挨拶を交わすこともある。今朝はそれはなく、三分余りのノロノロ行進を終え、野元は改札口を通過した。 スクールバスを待つ女子高校生達の列の前を通り過ぎ、野元は銀行の自動引き出し機の前のいつもの場所に立った。目の前に停まっているバスに女子高校生達が次々と乗り込んでいく。

「奥へ詰めろ。背中合わせに二列になれ」

 乗車指導の教師が乗降口から半身をバスの中に入れて声を掛ける。生徒達が乗り込んでいるバスの隣に次のバスが既に停まっている。そのバスに野元と塚本は乗るのだ。やがて塚本が改札口の混雑から抜け出して近づいて来た。間合いが三メートルくらいになったところで二人は挨拶を交わす。並んで立つと、「あー」と塚本が欠伸とも嘆息ともつかぬ声をあげた。楽しくもない一日が今日も始まったなあ、という響きを野元はその声の中に聞き取る。

「今日は職員会議はあったかね」

 しばらくして塚本が野元に訊ねる。

「ええ。ありますよ」

「何だったかね、議題は」

「文化祭の件と生徒処分じゃないかな」

「生徒処分というと」

「二年生で万引きが出たじゃないですか、一昨日(おととい  )」

「あ、そう。知らなかった」

「T区のSというスーパーでやったらしいですよ」

 塚本は校内の事情に疎いところがある。彼は職員室で話を交わす教員が殆どいない。だから情報がよく伝わらないのだ。

 二人の前を男子高校生達が通り過ぎて行く。野元や塚本に「お早うございます」と挨拶していく者もいる。二人はその一つ一つにそれぞれ「お早う」と返す。

 二人が勤める学校は男子部と女子部に分かれている。それぞれに校長がおり、校舎も離れていて、同じ校名を冠してはいるが、事実上は独立した二つの学校だ。スクールバスは女子部が運用しているもので、女子部の生徒しか乗れない。校舎はどちらも丘の上にあるのだが、毎朝坂道を上るのは女子には負担だということでスクールバスが運行されているのだ。男子部の生徒は歩いて坂道を上るほかはない。野元達は男子部に勤めていたが、職員は所属部署に関わりなくバスにのることができた。と言ってもスクールバスを利用する教員は殆どいなかった。マイカー通勤が圧倒的に多かったし、車を使わない者は同僚の車に同乗したり、あるいは駅から徒歩で坂道を上る者もいた。

 実際、毎朝スクールバスに乗るのは教員では野元と塚本だけだった。それも初めは塚本だけだったのだ。女子高校生で満員になるバスに男が一人で乗ることにはたとえ教員であっても心理的に抵抗があるもののようだが、塚本は単独でそれを十年近く続けていた。野元は塚本より五年遅れて採用された。彼は運転免許は持っていたが、車は持たず、十年以上ハンドルを握っていなかった。マイカー通勤はできず、望んでもいない野元はスクールバスを利用するようになった。彼がさほどの心理的抵抗もなくスクールバスを選択できたのは塚本という先行者がいたからだった。野元は無料で利用できるものは利用しようと考えたし、それを体裁に囚われず実行している塚本に共感を覚えた。同僚の車に乗せて貰うことについては、野元にはそんな同僚はいなかったし、いたとしても毎朝顔を合わせ世話になるというのは気の重いことだった。塚本に尋ねれば、車に乗せてもらうというような便益に基づく交友は嫌いだと答えるだろうと野元は思った。

 

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