02 探偵

 ハタケヤマノボル、と依頼人は名乗った。それは覚えていた。男からもらった名刺も残っていた。

『傍家山登』と氏名と携帯の電話番号しか印刷されていないシンプルなものだが、裏面には英語表記がある。そして、手付金三百万円。手が切れそうな新札で、銀行の帯がついた束が三つ、無造作に茶封筒に突っ込んであった。

 しょぼくれた浮気調査ばかりの探偵にとっては空前絶後の上客といってよい。ただ問題は、何を依頼されたのかさっぱり思い出せないということだった。探偵は二日酔いで痛む頭に眉をしかめながら、大家の婆さんが煎れてくれた緑茶を啜った。

「思い出せんちゅうことがあるかいな」

 大家は、垂れ下がった瞼の下からでもはっきりわかるほど異様な光を放つ目で、ローテーブルの上の札束の入った茶封筒を見据えて言う。まるでX線で透視できるみたいだ、と探偵は思う。

「手付金でそんな大金をくれるっちゅうことは、コロシやな。コロシやのうても、それに準ずるハアドな仕事に決まってるがな。よかったな、サカイはん。遂に運が回ってきたでえ」

「探偵の仕事をなんだと思ってるんだよ」探偵は呻き声をあげる。

 昨日の男――その風貌も傍家山登という名前も、探偵には一向に馴染みのないものであった。名刺をもらって初めて、ハタケヤマという名前に聞き覚えがある気がした。だがそれは、彼のような底辺を這いずり回る人間には縁のない名前、代々続く大金持ちの一族の名だ。

 しかし、依頼人の方では、明らかに彼に覚えがあるようだった。期待のこもった目で見つめ、言ったのだ。

 ――境さん、俺ですよ。登です。

 昔は、傍家山という姓ではなかった、と男は言った。だが、以前の苗字も登という名前も、探偵の記憶を甦らせなかった。

「どうやら、養護施設時代の知り合いらしいんだが、もう三十年以上昔の話だ。覚えちゃいない」

「せやけど、あんたを慕って、わざわざ捜しはったんやろ。やっぱり、やばい仕事は気心の知れた相手にしか頼めんからの」

 老婆は、ちんまりと一人掛けのソファに納まって言う。

「だから、気心も何も、俺は覚えちゃいないんだ。初対面の赤の他人と大差ないだろう。向こうは比較的早くに今の両親に貰われたっていうし、俺は十八まで施設に居た」

 しかし、昨夜遅くまで杯を交わし話し込むうちに、どれだけ酒をあおっても顔色一つ変えない男の顔に、泣きべそをかいた幼い顔が重なる瞬間があった。だが、酒に強いはずの探偵は、しこたま酔っぱらっていたのだ。それというのも

「だいたい、仕事の相談をしに来るのに、酒なんか持ってくる奴があるかってんだ」

 傍家山登は、素寒貧の探偵には手を出せないような高級なウイスキーや日本酒を持参していた。一杯やりながら話しましょう、と依頼人が言ったのだ。

「あんたの錆びついた脳ミソを働かせるには、潤滑油が必要やって、思わはったんやろ。賢いのう。流石傍家山のボンボンや」

「婆さんあんた、金持ちはゴキブリみたいに嫌う癖に、なんであいつの肩を持つんだ」

「あんたの家賃滞納分と、向こう一年分、はろてもろたん」

「ああ?」

 酒豪の探偵を潰した後、ほんのり頬を染めた程度の傍家山登は、四階のサカイ探偵事務所を出て階段を下りた。そしてそこで待ち構えていたビルヂングの大家に捕まり――

「老朽化が進んで取り壊したいのに、探偵が居座っている。あの事務所は、先代のサカイはんからのつきあいやけど、わてももう歳じゃから言うたら、えらい同情してくれはってな」

「取り壊す予定があるなんて初耳だぞ」

「そら、壊すんも銭がかかるからの。わての目の黒いうちは、大丈夫や。しかし、わてかて、もうええ歳や。あんた、わてが死んだらどないする?」

「それは、困るな」

探偵の住まいは事務所とは別のしょぼくれた雑居ビルだが、そちらの家賃も半年ほど滞納しており、あちらの大家と顔を合わせ辛いので、こちらの事務所に寝泊まりして、結局こちらの大家から責められる日々を送っているのだ。

「せやろ」と婆さんは自分が煎れた緑茶をすすり、言った。

「だから、あの上客の首根っこ、しっかり捕まえておかんにゃあ」

 大家が帰って一人になると、探偵は大金の入った茶封筒を金庫に放り込むと、長椅子に寝転んでコートを上から被った。

 しっかり捕まえておくも何も、依頼の内容が思い出せないのだ。普段の二日酔いは安酒のがぶ飲みによる質の悪い二日酔いだが、上等な酒をしこたま飲んでも、やはり悪酔いはするということがわかった。探偵の頭は酷く痛み、昨日の会話を思い出そうとしても、霧がかかったようである。

 おぼろげに覚えているのは、新しい事業の話を傍家山登が熱っぽく語っていたこと。それから――

 何やら、しきりに詫びていた。

 二人とも、かなり酒が深まった頃のことである。外見にはほぼ変化なしでも、傍家山登もかなり酔っていたのに違いない。ローテーブルに額をこすりつけんばかりに頭を下げて、自分のせいで人生を狂わせたとかなんとか、くどくどと述べ立てていた。

 一体何のことやら

 悩んでいても埒が明かない。探偵は傍家山登の名刺にある携帯番号に電話をかけた。呼び出し音が鳴り始めると同時に、ぶーん、ぶーんと静かな振動音が無音の事務所内に響いた。

 震源地を突き止めるのは、閑散とした事務所内ではそれほど難しくなかった。先ほどまで大家の婆さんが腰かけていた一人掛けソファ、昨日傍家山登が座り彼と酒を酌み交わした肘掛椅子だ。

 四角い革張りのマットレスの隙間から、カバー付きのスマホが見つかった。最新モデル。無論探偵のものではないし、大家の婆さんのものでないことも明らかだ。この界隈の人間は、高価で操作が煩雑なスマートフォンを嫌い、未だに二つ折りのガラケーを使っている者が多い。大家の婆さんに至っては、ガラケーすら使っている姿をみたことがなかった。だから、用事があってもなくても、事務所まで直接やってくるのだ。

 探偵は自分の電話を切った。カバー付きのスマホも、ほぼ同時に振動を止めた。

 今時の人間なら、スマホを紛失するというのは一大事のはずだ。傍家山登から名刺をもらった際に、彼も渋々自分の名刺を渡したはずで、そこには探偵の携帯番号が記載されている。金持ちだから、電話機は複数所有しており、一台くらいなくしても大事ではないのか。だが、電話機に含まれる個人情報は? 傍家山家の人間ならば、誰か使いの者に取りに来させてもよいだろう。何故放置しているのか。

 まさか、失くした電話の心配を後回しにせざるを得ないような、のっぴきならない状況にいるのだろうか。

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