PART IV

01 依頼人

 目的地である雑居ビルの前に立った男は四階建の細長い外観を上から下までゆっくりと観察した。

元は白かったのかもしれない外壁はすっかり黒ずみ、一見、火災発生後の惨状のようである。心なしか、左に傾いている気がする。いや、気のせいではない。最上階の四階部分は、左隣の民家の上に覆い被さるように傾いでいる。次に大地震が来たら、件の民家は押し潰されてしまうのではないか。

 その民家も、庭木が密林のように茂ったあばら家だ。木々の合間を縫って僅かに見えている家の壁も、蔦がびっしりと覆っている。家の中にまで侵食した植物に住民が食われていそうだ、と男は子供染みた想像にうっすら笑みを浮かべた。錆ついた門の表札には『奈落行』とある。

「なんぞ、用かの」

 非常に低い位置から声がして、男は振り向いた。年齢不詳の老婆が、彼を見上げていた。彼自身、さほど長身ではないのだが、萎びて縮んだ老婆の前に立つと、巨人にでもなった気がした。

「失礼」と男は軽く頭を下げてから、「私はこちらのビルに用事があって」と傾いだ雑居ビルの方を指さした。黙礼してビルの入り口に向かう男の背中に、老婆は言う。

「このビルヂングは、わての持ちもんやが。なんぞ、用か」

 男は振り返って、困惑気味に首を傾げた。すすけて黒ずんだ建物の入り口には『ビルヂング』とやはり黒ずんだ文字があった。どうやら、これがこの建物の名称らしい。

「私は――人に会いに来たんです」

「ほう」

重く垂れ下がった瞼を精一杯見開いて老婆が言った。

「探偵はんに用事か。奥さんに浮気されたんか、あんたみたいな羽振りのよさそうな男前が」

 男は不躾な老婆に閉口しながら、好奇心を禁じ得なかった。

「何故私が探偵事務所の客だとわかったんですか?」

「このビルのテナントは、今やその探偵事務所だけだからの」

 ほっほっほ、と皺皺のおちょぼ口で笑いながら、老婆は先に立って歩き始めた。見た目の印象よりしっかりした足どりだ。昼間だというのに薄暗いビルの階段を、楽々上っていく。仕方なく男は老婆の後に従った。

 四階の踊り場に到達した時には、さすがに少し息を切らしていたものの、老婆は二三度深呼吸をすると、矍鑠とした動きでドアに向かった。

「おや」

 すりガラスに『サカイ探偵事務所』の文字があるドアには『CLOSED』の札がかけてあった。室内も電気が消えている。

 男は安堵とも後悔ともとれる溜息をついた。

「お出かけでしょうか。アポイントメントを取っていなかったから……」

「お出かけのわけあるかいな、あんな素寒貧。境はん、おるんやろ、お客さん連れてきたで」

 後半は、ドアに向かって怒鳴っていた。老婆は意外な力強さでドアをガンガン叩いたが、やはり反応はない。

「やはりお留守では」

 首をすくめて縮こまっていた男が背後から遠慮がちに申し出たが、老婆は

「居留守や。ちょっと待っとり」とウエストポーチの中から鍵束を取り出した。

「あの、勝手に中に入るのは――」

「なに、家賃を三ヶ月も貯め込んでんのや。銭のない奴にプライバシーはない」

 合鍵でドアを開けて薄暗い室内に踏み込むと、「キャッ」と悲鳴を上げて、女が部屋の奥にある給湯室に素早く消えた。裸の胸を衣類で覆っていたことだけは、かろうじて確認できた。

「境はん!」

 老婆が金切り声をあげた。

「頭が痛いんだ。そうデカい声を張り上げるなよ」

 長椅子にコートを引っ被って寝ていたサカイ探偵は呻き声をあげながら上半身を起こした。

「今何時や思うて」

「今日は臨時休業だ。頭が割れるように痛いんだ」

「迎え酒で治しや」

「殺す気か? 俺はアル中じゃない」

 頭から湯気を出しそうな勢いでまくし立てる老婆――このビルの大家であることは間違いないらしい――と探偵のやり取りを、男はぼんやりと眺めていた。

素早く衣類を身に着けた女が、忍び足で言い争う二人の脇を通って出て行った。手持ち無沙汰に入口に立っている男の前を通過する時、女は男を見上げてニッと笑った。きついメイクは崩れ放題、胸元を露出させた派手な格好をしていたが、意外と若そうだった。

 まだ十代にも見える幼さ

 男は首を傾げた。ここに来たのは、果たして正しかったのかどうか。

「――そういうわけで、お客さんやで。きばりや。家賃滞納してるんやから」

 老婆はのしのしと歩いて、入口で佇んでいる男に向かって頷いて見せると、部屋を出て行った。

「依頼人って、誰の紹介だ? ここの住所は電話帳に載せてないし、ウェブサイトもないのに、よく辿りつけたな」

探偵はあくびしながら言う。

「ええまあ、散々道に迷いました。タクシーの運転手には、途中で匙を投げられて放り出されました」

「この辺は物騒だからな。あんた、そんな上等な身なりで呑気に歩いてると、身ぐるみはがされるぜ」

 探偵は寝癖でぼさぼさの頭を手櫛でなんとか撫でつけようと無駄な努力をしながら、改めて男を観察した。ぴっちりボタンを留めたコートとマフラーは控え目なデザインだが、ブランド物に疎いサカイの目にも、かなりの高級品であることがわかった。靴も左腕を動かすたびにチラ見えする時計もそうだ。一体どんな手違いでこのような紳士が魑魅魍魎のひしめく陋巷に迷い込んだのか。

 男に客用の肘掛椅子を勧めると――酒で濁った脳裏に、昨夜その椅子で全裸に近い女に跨られていた記憶が一瞬浮かんで、消えた――男は嫌がる素振りも見せず、座った。優男風の見た目より肝が据わっている。

「ちょっと失礼。顔を洗いたいんでね」

 と奥の給湯室に消えた探偵だが、なにしろドアも仕切りもない細長い空間だ。「おい、あいつパンツを忘れていきやがった。風邪ひくぞ」などと呟く声が聞こえてくる。次いで、派手な水音。

 男は辛抱強く待ちながら、室内を観察する。といっても、畳十畳ほどの細長い部屋に、ドアを入ってすぐローテーブルを挟んで探偵がベッド代わりにしていた長椅子と、一人掛け用の肘掛椅子二脚が向かい合っている。その向こうは探偵のデスクが、入口のドアと向き合うように窓に背を向けて座るよう設置されている。探偵が姿を消した給湯室は、部屋の突き当りを右側に入ったところだ。

 灰色のタオルで顔を拭きながら出てきた探偵は、男が一人掛けのソファに座っているのを見て、驚いた顔をした。

「やあ、まだ居たのか。わざわざこっそり逃げ出すチャンスを与えてやったのに」

 探偵は顔を拭いたタオルで頭や首筋もごしごし拭いながら、男の向かい側、中身が朽ち果てた皮膚の残骸のように横たわる皺くちゃのトレンチコートをどけて、長椅子の真ん中に腰かけた。

 男が手袋もマフラーも身に着けたままなのに気付いた探偵は

「ああ、すまない。寒いよな」と立ち上がって、エアコンの電源を入れた。

「――で、何の用事かな。誰に何をどう聞いたのか知らないが、俺は浮気調査が専門の、しがない探偵だよ」

 男は微笑を浮かべて、探偵を見つめている。背は高くないが、立っても座っても背筋が伸びており格好がいい。丁寧に撫でつけた髪は、エリートサラリーマンといった風情だ。探偵とほぼ同年代のようだが、長年の不摂生のせいで腹回りが年々きつくなり、髪に白い物も目立ち始めた探偵とは見た目の上では十歳以上離れているように見える。

「先ほどの女性は、随分お若いようだった。――未成年みたいに」

 男は静かに言った。声が意外に高く女性的ですらある。

「名前も知らない女だからなあ」

 境はこめかみを押さえながら、夕べの記憶を探る。

「酔っ払いに絡まれているのを助けたら、行く宛がないから泊めろと言われてね。こんな寒空に外にほっぽり出しておくよりはいいだろう」

 男が微笑を浮かべたまま見つめているので、居心地の悪さを感じた探偵は、

「まあ若いったって、十八とか十九だろうよ。もう結婚できる年齢だ」

 と頭をかきながら言った。

「ところで、まだ名前を訊いてなかったな。あんた、誰だ」

 男の口元から一瞬笑みが消えた。男は指先を見つめながら、手袋を外した。ピアニストのように細く繊細な手に、指輪はしていないし、最近までしていたような跡もない。

「私は」とマフラーを外しながら男は言った。

「傍家山登と言います」

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