12 惨劇館(4)

 急に喉元に何かが込み上げて来た。ごぼっと音を立てて口から飛び出てきたのは、血の塊だった。いよいよ背中の損傷が、アドレナリンでは誤魔化せなくなってきたようだ。

 俺は床に片手をついた。急に重力が三倍に跳ね上がったみたいだった。

 がちゃりと銃を構える音がしたが、首を動かす余裕はなかった。

「やめて!」

 俺の前に立ち塞がるジャージのズボンが見えた。

「最後の警告だ、アバズレ。大人しくこっちへ来い。それとも、お前の母親に、娘を甘やかした罰としてお灸をすえてやろうか」

「ママには手を出さないで」

 泣き声になっていた。

「いいから逃げろ。俺はどうせ助からない。お前は子供だ。親の心配事は親に任せておけばいい」

 俺の声はかすれ、弱々しかったが、ユキに届いたらしい。彼女は、低い声で言った。

「『今居る糞みたいな世界より少しでもマシなら、そっちに戻れ』っておじさん言ったよね。でも私には、戻るところなんてないんだ」 

 戻りたくても、もう戻れないんだ、と追って聞こえた気がしたが、俺の視界は暗く閉じかかっていた。

「目を閉じて、息を止めて」ユキはそう言った。

 ぱすっ、と気の抜けたような音がした。そして、一瞬遅れて、とてつもない刺激臭が、固く閉じているはずの瞼や唇、息を止めている鼻腔の隙間から乱暴に押し入って来た。

「おい、おま――」

 泡を食ったノボリベツジョージの声。一体どんな顔をしているのか、見てやれないのだけが心残りだった。

「このアマ」

 ジョージの悪態は、すぐに激しい咳にとってかわった。止まらぬ咳の合間にヒューヒューと甲高い音を立てて呼吸しようとするジョージ。馬鹿なやつだな。目と口は絶対に開けちゃいけないのだ。


 たたたたた……

  だた

    たたたたた……


 どうやら涙と鼻水にむせ返り呼吸困難に陥りながら短機関銃を乱射し始めたらしい。俺は最後の力を振り絞って腕を延ばし、手に触れたジャージの生地を掴んで地面に引き倒した。

「あっ」

 ユキは短い悲鳴を上げたが、それが床に倒されたからなのか流れ弾に当たったからなのか、俺にはわからなかった。

 突然、銃声が止んだ。

「おい、何だ、お前達」

 ジョージが相変わらず激しく咳き込みながら、虫の息で言う。

 凄まじい咆哮があがった。

 俺は息が苦しくなり、コートの袖をフィルター代わりにしながら、呼吸した。凄まじい刺激が流れ込んできて激しく咳き込み、とめどなく溢れ出る涙越しに、ジョージが手榴弾で吹き飛ばした入口に、黒い人だかりができているのを確認した。視界がぼやけているしペッパースプレーの刺激のせいで、一秒間もまともに目を開けていることができないのだが、その入り口付近の黒い集団は、叫び声を上げながら中になだれ込んできた。


 レレレレレレレレレ・クイェー・レ・レ・レレレレレレレ・クイェー・クイェー・クイェー

 

 『ハタケヤマノボルの生涯』OP曲「ポルカ・ポルカ・ポルカ」は、相変わらず吃りながら鳴り響いていた。俺は視界が涙でぼやけてよく見えないことに感謝した。

 この曲は、彼等――このポノレク鷹羽の入居老人達に、思い出したくない苦痛を思い出させるという。彼らは、次から次へとこのこぢんまりとしたミニシアター内に、叫び声を上げながらなだれ込んでくる。彼らが向かう先にいるのは、ノボリベツジョージだ。

「やめろ、てめえら、やめろ」

 ジョージが迫りくる老人達に向けて短機関銃を撃ち始めた。しかし、苦痛を感じないらしい彼らは何度被弾しても、体制を立て直し、転んだ者を踏みつけて乗り越え、ジョージを目指す。空中でじわじわ拡散する濃縮二倍のペッパースプレーでさえ、彼らの行進を止めることはできない。

 多勢に無勢と観念したジョージは、踵を返しスクリーンに向かって走り出したが、恐ろしい形相の生きる屍達の無数の腕に捕らえられ、少女のような甲高い悲鳴を上げた。

「助けてくれ、サカイ。助けてえ!」

 俺は抱き抱えていたユキの体を離すと、「逃げろ」と言って、倒れた。

 ユキは俺の腕を引っぱり、抱き起そうとしていたが、俺にはその手を振り払う気力さえ残っていなかった。俺はもう駄目だ。お前だけ逃げろ、と口にすることさえ。

 ゾンビと化した老人達は、捕えたジョージに四方八方から噛みついたり、爪を立てたりしているようだった。ジョージの凄まじい悲鳴が、老人達の叫び声をぬってしばらく聞こえていたが、やがて途絶えた。

 ゾンビの一人がスクリーンの方を向いた。俺の言いつけを素直に聞いたことがないユキが俺の弛緩した体を引っ張っているのに目を付けた彼らは、こちらに向かって歩き出した。ドアからは相変わらず老人達がなだれ込んでくる。彼らは座席脇の通路だけでなく、座席を乗り越え、無様に転びながら前に進む。そう広くないミニシアターは、彼等で溢れかえりそうになっていた。

 ひっとユキの口から半分空気のような悲鳴が漏れ、俺の腕は支えを失って力なく床に落ちた。

 地響きのような低い音と共に、床が振動し始めた。更に、余力が残っていれば耳を塞がずにはいられなかったであろう轟音が響き渡った。

そして派手に水飛沫の上がる音。

 客席中央にジョージの投げた手榴弾でえぐられた放射状の穴、その中心が陥没して、どうやら下の階まで貫通したらしい大穴が口を開けていた。丁度その位置に差し掛かっていた老人達は、座席の残骸諸共下の階に落ちていった。

 みしみしと壁や床が軋む不穏な音はまだ続いており、中心部の穴から発した亀裂が広がっていっていることが、分厚い絨毯の下に段差が生じていることでわかった。

 しかし老人達はそんなことはお構いなしに、スクリーン目指して突進してくる。穴が開いていても進路を変えることはないので、大勢が穴ぼこに落ちたが、穴の脇に進路をとっているゾンビは、それには目もくれないで前進する。

 スクリーンのある舞台は、客席の床より一・五メートルほど高いのだが、ゾンビ達は先に到達したものの体を踏み台にして、のぼってこようとする。

 ステージ上にだらしなく横たわっている俺のコートにも手がかかり、体が引きずられた。

「離して!」

 ユキが必死で蹴りを入れて抵抗するが、無数に伸びてくる腕に彼女も捕えられてしまう。俺もユキも、段上から引きずりおろされてしまった。俺は目の前に、口の端が避けて血を流しながら悲鳴を上げ続ける老人の顔がいくつも迫って来るのを眺めていた。

 その時、轟音と共にシアターのまだ無事だった部分の床が抜けた。ガラガラとコンクリートの塊や剥き出しの鉄骨と一緒に落ちて行きながら、俺は先に落下した瓦礫と、それに潰された人々の血で二階の温水プールが赤黒く染まっているのを見た。ここにお袋の死体も混じっていればいいのに、と俺はいささか呑気なことを考えていた。

 ――だから、『ハタケヤマノボルの生涯』はやめておけって言ったんだ。

 誰かの声が聞こえた気がしたが、それが誰なのか、もう俺にはわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る