03 刑事
待ち合わせの喫茶店に到着すると、閑散とした店内で相手は先にテーブルに着いていた。
会うのは何年かぶりだったが、店内でもよれよれのコートを着たままの男の背中は、前回より更に荒廃した雰囲気を漂わせている。また酒の量が増えたのだろう、と
溪山が側に立つと、コーヒーカップの中の泥のような液体を睨みつけていた男は、顔を上げて意外と人懐っこい笑顔を見せた。
「よお」
「お久しぶりです、境さん」
溪山は几帳面に頭を下げて、男の向かいの席に腰かけると、「紅茶を」とカウンターの眠たげな男に言った。
「なんでコーヒーを頼むんですか。泥みたいだって毎回文句を言うくせに」と溪山がからかい気味に言うと
「たまにしか来ないんだ。覚えてられるか、そんなもん」と境はカップを脇にのけて水を飲んだ。
「電話でお尋ねの件ですが」と溪山は声を低くして言う。
「何故またハタケヤマ・グループになんて興味を持ったんです。場末のしがない探偵が相手にする連中ではないでしょう」
突然何年振りかで電話があったと思ったら、「傍家山登」という、境のような探偵の口からは逆さにして振っても出て来そうにない名前を聞かされ、溪山は戸惑いを隠せなかった。そして、一体何に首を突っ込んでいるのかと、不安になった。
「しかも、『知っていることがあれば教えろ』なんて、ざっくりし過ぎでしょう。一体何を調べているんですか」溪山は茶封筒を境の前に置いた。「お渡しすることはできないんで、ここで読んでください」
境は茶封筒を手に取りながら、溪山の顔に刻まれた皺を見つめ、こいつも老けたな、と思う。境と違って、細身の体形を今も保っているが、もう駆け出しの若造ではないし、立場は逆転、今は探偵の境の方が頭を下げなければならない捜査一課の刑事殿だ。頭ごなしに、余計なことは訊くなと命令することはできない。
「まだ調査が必要なのかどうかもわからないんだが」と境は眉間に皺を寄せて首を振る。「その登って男、どうやら俺の幼馴染らしい」
「傍家山登がですか?」
思わずでかい声を出した溪山は、慌ててトーンダウンしながら「そんなこと、今まで一言も」と戸惑い気味に言ってから、はっとした。
「俺だって、最近知ったんだ」
境は事務所に登が突然訪ねて来たことをかいつまんで話した。酩酊して依頼内容を忘れたという醜態は、伏せておくことにした。溪山にとって、境はウワバミ、泥酔して前後不覚になった姿など見せたことがない。
「そういえば、傍家山登は養子だそうです。八歳の時に、養護施設から傍家山夫妻に引き取られた。ということは」
「ああ、養護施設時代の知り合いだ。といっても、俺は殆ど覚えてないんだが」
親のない境が養護施設で育ったということは、溪山も知っていた。本人も特に隠したい風ではなかったが、積極的に話すことでもない。
「それじゃあ、金持ちのボンボンが気紛れに昔を懐かしんで会いに来ただけなんですか」
溪山は疑わしそうに言う。
「それがよくわからないから困っている」
書類の中に紛れていた写真に境は目を止めた。肩から上の傍家山登を真正面から写したB6版の写真。免許証の写真を引き伸ばしたのだろうか。間違いなく、事務所にやって来たあの顔だ。
「何かトラブルに巻き込まれているのかもな」
境はスマホを取り出すと、傍家山登の顔写真を写真に収めた。
「ハタケヤマ・グループに関しては、きな臭い噂があることはあるんです」
傍家山家は、不動産の売買から、総合病院、老人介護施設、レストランの経営まで幅広い事業を展開している押すに押されぬ地元の名士で、この地域に雇用と莫大な利益をもたらし、この一帯の住民は、本人あるいは家族や親類が何らかの形でハタケヤマ・グループに関与しているといわれている。恵まれない子供への学資提供や寄付といった慈善活動に熱心な篤志家の顔を持つ一方で、裏では医療ミスや土地の売買にかかわるトラブルの噂も絶えないという。
「現在は、新しくシニア向けマンションを建設するという構想があるそうで、土地の買収でかなり強引な手も使っているとか。なんでも、裏でヤクザと繋がっているって話ですよ。そうでなくとも、この界隈であの一族に逆らおうなんて輩はいない。警察にも上層部にコネクションがあるとか」
「ふーん」
境はさして感慨もない様子で頷いた。刑事時代には相当血生臭い事件にかかわって来たので、この程度では驚かない。
「しかしそれならば、お前の言う通り、俺みたいなしがない探偵はお呼びじゃないな。汚職警官やヤクザにツテがあるなら」
「俺なら、ハタケヤマ・グループにかかわるのはやめておきますがね」
だけど、向こうが勝手にやって来たんだよなあ、と境は呑気そうに呟きながらコートやスーツのポケットをまさぐり、煙草を取り出した。
「お前、ライター持ってるか?」
「禁煙してからもう三年ですよ」
「最近は警官も健康志向か。流れ弾に当たって死ぬかもしれないのに」と鼻で笑って立ち上がると、カウンターで居眠りしていたマスターからマッチ箱を貰って火を点けた。
咥え煙草で書類一式に目を通した境は、中身を封筒の中に戻そうとして、登の顔写真に再び目を止めた。なんてことのない身分証明書用の写真なのだが、何かが引っかかった。
「顔に傷がないな」
「え?」
「登の頬には、傷があった。相当古い傷だ。パッと見、殆どわからないんだが、酒を飲んで顔に赤みが差した時にはうっすら見えた」と境は自分の左の頬を指でなぞって見せた。
溪山は写真を凝視したが、傷の痕跡はなかった。
「最近の写真の加工技術はすごいですから」
溪山は首を傾げながら言う。写真と実物が異なるというのは、刑事にとっては迷惑以外の何物でもない。最近は証明写真ですら美白効果を謳っていたりする。髪を染め、カラーコンタクトを点け一重瞼を二重にすることは最早あたり前。そんなに自分以外の何者かになりたいのか、と思う。
「それに、テレビや雑誌の取材なんかにも度々登場する男ですから、メイクをして隠しているのかも」
「メイクかあ。大企業の社長のおっさんがなあ。時代は変わったな」境は写真を封筒に入れ、溪山の前に押しやると、新たな煙草に火を点けた。
しばしの沈黙の後、口を開いたのは溪山だった。
「
「馬鹿言え、俺はあんな爺さん相手にその気はないぞ」
「来年、還暦なんです。それで、退職のお祝いを」
「爺さん、もうそんなか」
境の大先輩で十歳以上年上だから、そういえばもうそういう年齢か、と境は改めて流れた時間の長さを思い知った。
「よろしく伝えてくれ。俺は――元気で生きてるって。若いカミさんを貰ってガキが八人できたってな」
「そんな大法螺、高城さんが信じるわけないでしょう」
一服し終わると、境は伝票を持って出口に向かった。
「高城さんの還暦祝いには顔を出してくださいよ」
溪山の呼びかけに、境は振り返らずにただ片手を上げてひらひら振って見せた。
店を出て行った境の姿を、溪山は喫茶店のガラス越しにしばらく目で追った。境には話さなかったが――いや、緘口令が敷かれており、部外者には話せなかったのだが――傍家山登は二日前から行方不明になっており、内密に捜索するようにとお達しを受けたばかりだった。登の母親――ハタケヤマ・グループの現会長――から直接署長に捜索依頼があったという噂だ。無用なスキャンダルを避けるため、くれぐれも慎重に、と。
まさか境が傍家山登の失踪にかかわっているとは思えなかったが、あの人には損得勘定抜きに何をしでかすかわからないところがある。無気力な駄目探偵として事務所に大人しく燻っていてくれればよいのだが、と溪山は冷めた紅茶を啜りながら願わずにはいられなかった。
犯人の前に立ち尽くす境。
――境さん!
銃声を聞きつけて駆け付けた溪山が肩を掴んで揺さぶっても、無表情なまま額から血を流し床に倒れている男を見つめている。右手に持った銃からは、薄く煙が上がっている。
犯人は、丸腰だった。
――境、てめえ……!
高城刑事の鋭い声にも、境は反応しなかった。
「――不味い」
思わず声に出るほど、紅茶もまずかった。
そう、この店「喫茶はるか」はコーヒーも紅茶も泥のようだと評判なのだった。それでも、料金設定が未だ昭和時代で止まっていることと、深夜まで営業しており何時間居座ってもやる気のないマスターに咎められることがない、更に昨今の禁煙ブームを完全に無視というそれだけの理由で一部の愛好家に利用され続ける店なのだ。
何故忘れていたんだろう。溪山は自分を呪った。
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