02 ホーム・ビターサワー・ホーム
きつい香の匂いが漂っていた。
花の宮の方もこうだったのだろうか、と俺は考えた。全く覚えがなかった。泥酔していた俺の注意力は余程散漫になっていたらしい。
広々としたロビーの中央には一人掛けソファが四つ、ローテーブルを囲んで配置されている。よれよれのスーツの中年と上下ジャージの中学生、俺のトレンチコートを羽織った全裸で裸足の爺さん、全く場違いとしかいいようがない御一行だが、何食わぬ顔でロビーを横切っていく。
爺さんは暖房の利いたホールに入った途端、眠たげに垂れ下がっていた瞼を見開き、周囲をきょときょと見回した。
「どこ、ここ」
「あんたの家だよ」
俺は老人の肩を叩いて言った。暴れられると厄介なことになる。眠っていてくれた方がよかったのに。
「帰りたい」と老人。
「帰って来たんだよ」と俺。
「帰りたい」
頑固に繰り返す老人に、俺は溜息をついた。親の介護を押し付けられた世の人々(多くは「嫁」という立場の女性だろう)の苦労を思い暗澹たる気持ちになった。
抑え気味の柔らかな照明なのに金ぴかで下品な印象を与える広々としたエントランス・ホールの先にあるエレベーターの前には、ホテルのベルボーイを思わせる制服を着た若い男が作り物臭い笑顔を顔に貼付けて立っていた。男の目は糸のように細いが、笑っているわけではなく、抜かりなく俺とユキに目を配っているのがわかる。どうも、見た目のゴージャスさとは異なり、快適とは程遠い空間だ。
「お帰りなさいませ、ノボリベツ様」
ベルボーイは分度器で測りながら練習したのではないかと疑いたくなる角度で腰を折り曲げ我々を迎えると、エレベーターの「開」ボタンを押した。
エレベーターは二基、床と同じようにピカピカ光る鏡のような扉が開き、俺達三人が乗り込むと、ベルボーイも後についてきて、白い手袋をはめた指で十二階のボタンを押した。
「よく戻って来られたもんだな」
扉が閉まった途端、男が馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。癪に障る言い方だった。車椅子と介護人を乗せることを前提としているにしても広々としたエレベーターの内部を注意深く観察していた俺が口を開くよりも早く、ユキが返答をした。
「貧乏暇なしだから」
「おいおい、俺より何倍も稼いでるって話じゃないか。若いっていいよな」
ユキが無視すると男は
「こんなジジイに体中舐めまわされるのにはゾッとするが、意識不明で何もわからないんだから、それで十万ももらえるなら俺だってやりたいぐらいだよ。つくづく女ってのは若いだけで人生楽勝だよなあ」
エレベーターの上昇が止まり、控えめなチンという音と共に扉が開いた。
「ふにゃふにゃじゃないのを咥えたくなったら、いつでも言ってきなよ」
俺達の背後で閉じる扉の隙間をぬって不快な男の声が追いかけてきた。俺に肩を抱かれて体を支えられていた爺さんが、突然俺の手を振り払って、閉じる寸前の扉をすり抜けて、エレベーター内に消えた。扉で遮断された箱の中から、甲高い悲鳴が漏れ聞こえてきた。
俺は慌てて「開」ボタンを連打した。
扉が開くと、男は制服のズボンの前をきつく握りしめ、奥の隅にうずくまり唸り声を上げていた。
爺さんは、染み一つない床にぺっと唾を吐くと、
「今度この姉ちゃんに無礼な態度をとったら、千切り取ってやるからな、この三下が」
と威勢の良い捨て台詞を吐いた。そして、電池が切れたみたいに唐突に、背中が丸くなり、顔の筋肉が弛緩した。
俺は、今さっき啖呵を切った人物とは別人のようによぼよぼになった爺さんに手を貸して、エレベーターの外に連れ出した。再び扉が閉まりエレベーターが下降していく音を聞きながら、はたと気づいた。
「爺さん、ノボリベツジョージってどこかで聞いた名前だと思ったが――」
「ヤキがまわったもんだぜ、あんなガキに舐められるとはな」
俺の問いかけを無視した爺さんは、一瞬表情を引き締めドスの利いた声で呟いたが、後はむにゃむにゃと聞き取れない独り言になった。
「昔はなんか偉い親分だったって聞いたけど」とユキ。すっぴんで仏像のような無表情の顔からは、いかなる感情も読み取れない。
俺は爺さんの体を再び支えながら廊下を進む。一昔前、殺人だの麻薬や武器の密売だので度々新聞を賑わせていた反社会的組織の頭だった男の名前が確か、クサツだのノボリベツだのだったはずだ。数々の凶悪事件への関与が噂されていた男だが、お縄になることは一度もなかった裏社会のかつての首領。
「確かに、年はとりたくないもんだな。ところで、さっきの男はなんだ」
「介護職員兼監視。徘徊老人が勝手に外に出ないように、見張ってる」
「いよいよ監獄だな」
十二階の廊下の絨毯は、ふかふかで歩きにくかった。均等に並ぶドアに大きめの番号が振られている。マンションというよりはホテルのようだ。
ここでも香が焚かれていたが、鼻が慣れたのか、一階のロビーで感じたほどの違和感はなくなっていた。だが――
強い香の匂いでも隠せない異臭が、ほんの僅かではあるが、空気中に漂っているのが感じられる。
爺さんの部屋番号のついた、廊下の一番端のドアを前にして、そういえば、部屋の鍵はどうやって開けたらよいのかと考えた時、扉がすっと開いた。
「お帰りなさいませ」
爺さんを出迎えたナース姿の女は、ユキと俺の姿を見て眉をしかめた。
「あら、ジムの会長は?」
あのおやじ、爺さんの送迎役も担っているらしい。
「ちょっと野暮用があってね。この子の送迎のついでに頼まれたんだ」と俺はユキを指して言った。
「事前に連絡もなく、勝手なことをされたら困るんだけど。それにあなた」と女はユキの方を見て「あんなことをして、よく戻って来られたわね。会長が始末――いえ、お灸をすえるって言ってたけど、無事だったの」
「お爺ちゃんに直接指名されたから」
平然と肩をすくめるユキに対して露骨に顔をしかめたものの、女は俺の腕から老人の体を抱きとると、中に入るようユキに顎で示した。
しかし、何食わぬ顔で後に続こうとした俺に対しては
「ちょっと、あなたはいつも通り外で待ってなさいよ。終わったら連絡するから」
と厳しい声が飛んだ。俺は老人の方を目で示し
「コートを貸してるんだ。俺はここの連中みたいな衣装持ちじゃないんで、返してくれないか。外は寒いしなあ」と言いながら半ば強引に中に入った。
女は爺さんがコートの下は素裸であることに気付き舌打ちをすると、「今着替えをとってくるから」と玄関からまっすぐ伸びる廊下の左側のドアの中に消えた。
さてどうしたものか。首尾よく爺さんの部屋の中に入れたものの、このままだと俺は外に追い出されてしまう。こんなところにユキを一人で置いていくつもりはなかった。
俺の気持ちを読み取ったらしいユキが
「あの人、大丈夫かなあ」と大きめの声で言った。
「ああ?」
「エレベーターの人。お爺ちゃん……あそこに噛みつくなんて、ひどいよね」
女が姿を消したドアの内側から、大きな音がして、乱暴にドアが開いた。
「なんですって?」
腕にひっかけていた爺さんの着替えを廊下に放り出し、女はユキの両肩を掴んで揺さぶった。
「痛いよ」
「あの人に……ゴローちゃんに何があったのよ?」
「知らないよ。なんか、お爺ちゃんを怒らせたみたい」
「この老いぼれが」
女が振り上げた腕を俺は掴んだ。
「おいおい、ナースが患者に暴力を振るっていいのか?」
俺の目の前に、おむつ一丁の裸でひいひい言いながら床を這いずるノボリベツ爺さんと、それを蹴り倒して転がし、ナースの衣装に似合わない高いヒールの靴で老人の薄い胸を踏みつける看護師の姿が浮かんだ。
「あんた……いつも雇い主にそんなことをしているのか」
俺の言葉にぎょっとして女は腕を振りほどいた。
「何を言っているのかわからない。あんたみたいな下っ端には関係のないことよ」
女は怒りの形相で拳を振り回したが、ハタと我に返った。
「ゴローちゃん!」
「そういえば、入れ歯を外した口に突っ込むと気持ちいいとか言ってたな。あのゴローって人、そういう趣味なの?」とユキ。
「すぐに戻って来るから、じっとしてなさいよ。この発情期の雌犬が」
そう言い捨てて女は慌てて部屋を出て行った。
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