11 クリーニング店
ルミは半開きのガラス戸から首を突き出し、枯れ草が数本生えているだけのプランターに顔をしかめ、四本積み上げられたタイヤの山の背後には人が隠れられるようなスペースがないことを確認してからガラス戸を閉めた。
「あなた、XXXXに行ったんじゃないの」
ルミは怒りも露わに言った。
「行ったさ。実際、そこから戻って来たところだ」
「どうしてここに居るの。ここは警察も調べたんだし、何もないわよ」
「それはどうかな。現場に戻るのは捜査の基本だ」
「勝手に他人の部屋に入って、しかもこれは何なのよ」
ルミがベッドの上に放り出してあった食べかけのスルメのパックを掴んで俺の目の前に突き出した。
「それにこれ、白粉の匂い? あなたのじゃないわよね。あなた、一体ここで何してたの」
俺は溜息をついた。部屋の中はルミの安物の香水の匂いで満たされて俺は鼻が馬鹿になりそうだというのに、女はどうしてこう鼻が利くのか。
「重要参考人を尋問してたんだ。ところであんた、ここへは車で来たのか?」
だったらなんだと怪訝そうな顔をするルミに俺は言った。
「車をXXXXの近くに置いてきてしまったんだ。悪いがそこまで送ってくれないか」
「何で私が。経費を渡してあるじゃないの」
「色々話したいことがあるが、こんな電気を止められた暗がりでは不便だろう」
ルミが壁のスイッチに手を延ばすと、明かりが灯った。目をしばたたかせる俺に、
「電気代とガス代を払ったのよ」
とルミは言って目を伏せた。何のために、という言葉を俺は呑み込んだ。彼女の男はこの部屋と、それからXXXXの三階冥途カフェのロッカー、さらに六階のクリーニング店で死んでいたのだ。そして俺の勘では、彼女はそんなことはとっくの昔に知っている。
ルミは電気を消し「行きましょう」と言った。
「どこへ?」
「車をとりに行くんでしょう」
ルミの車――XXX一階駐車場の俺のパーキングスペースに勝手に停めてあった――は、薄いグリーンのシトロエンDS21のナントカ。どうやら、俺の駐車スペースを無断で使用するフランス車は一台だけではなかったようだ。
左側通行の国で左ハンドルは運転し辛いだろうに、と俺は思いながら右側の助手席に乗り込んだ。無論俺は左ハンドルの車など運転したことはない。車が夜の街へ滑り出してしばらくしてから、俺は口を開いた。
「こういうクラシックカーが流行ってるのか?」
「クラシックカー? 何のこと?」とルミは前を向いたまま眉をひそめる。
「いやなんでもない。忘れてくれ。あんた、XXXXについて何を知ってる?」
「それを調べてほしいって頼んだつもりだったんだけど」
「あんたの男がそこで、人には言えないような仕事を時々していたらしい、とあんたが言ったんだ。あんた自身は、あのビルとどういう関係があるんだ」
「私とは何の関係もないわ。ただ、彼からたまに聞かされてたから」
「それじゃあ、ポノレカ花の宮、またはポノレカ鷹羽というマンションは」
あからさまな狼狽が見られた。運転を任せておくのが不安になるほど狼狽えている。
「そこじゃ割のいい仕事にありつけるって話じゃないか。あんた、随分羽振りがいいみたいだが、ひょっとして」
「私は知らないわ!」
そう怒鳴ってから、少々強すぎたと反省したのか口調を和らげた。
「私とは無関係だけど、彼のお母さんが入居してるって言ってたわ。花の宮の方だったかしら」
「あいつは、孤児だろう」
「子供の時に捨てられたにしても、生みの親は居るわけでしょう。詳しくは知らないけど」
「その女――あの男の母親とやらは、なんて名前なんだ。サカイ・ナニガシっていうのか」
「違うわ。リッチな夫と再婚したのよ。その夫に先立たれ、相当な財産を相続したそうよ。だから、あんな豪勢な老人ホームにいるのよ。名前は、なんだか長ったらしいのよ。ナガレヤマとかアラシヤマとか」
「ハタケヤマ」
「そうだったかしら。覚えてないわ。彼はお母さんのことを憎んでたから。捨てられた時、五歳だったそうよ。可愛い盛りなのにね」
「あんたの男のことだが」
車がXXXXの近くまで来ていたので、俺は慌てて言った。ルミは明らかに、このビルまでの道をよく知っている。
「あのビルでの仕事は運び屋だ。運ぶブツは、ヤクじゃない。ヒトだ。豪勢な老人向け分譲マンションの住人相手に、商品を届けていた。これ以上まだ知りたいことがあるのか」
ルミはXXXXの入口の手前で車を停めた。
「私は、彼の居所を知りたいの。最初にそう言ったでしょ」
俺はルミの車から降りかけて、あることを思い出した。ポケットからプラチナの指輪を取り出し、ルミに渡した。
「これ、あんたの落とし物だろう」
俺の部屋で死んでいた男が握りしめていた指輪だ。ルミは掌に載せた指輪をしばらく凝視した後
「私のじゃない。でも、彼のものよ。預かっておくわ」と俺が何か言う間も与えず、ハンドバッグの中にしまい込んだ。
走り去るユミの車を見送りながら、あの女は指輪の内側に彫られた文言「From T to Y, 20XX.03.30」を見もしなかった、と思った。ただ俺が差し出した指輪を掌に載せて、そのまま眺めていただけだ。あの角度からでは内側のメッセージを読むことをできない。読む必要もなく知っていた、ということか。それとも、洞察力に欠ける彼女は、そんなメッセージが彫られていることさえ気付かなかったのかも。
しかし俺の経験では、女というのはこの種のことには目ざとい。ことに、惚れた男がかかわっているとなれば。証拠を奪い去られてしまったが、まあいい。俺は打ち出の小槌、即ち依頼人を窮地に立たせるようなことはしない。警察ではないのだから、真実などは依頼人が望む程度に明らかになればそれでいい。
俺は次の一手を考えた。そして、せっかくここまで来たのだから、パンチドランカーの乱入のせいで中断せざるを得なかったXXXXの調査を継続するのがいいだろうという結論に達し、雑居ビルの階段へ向かった。目指すのは、二階のボクシングジムでも、三階の冥途カフェでもなく、六階クリーニング店だ。
階段で最上階に到着した時点で、日頃の運動不足のせいで膝が抜けそうだった。
夜もいい加減に更けているというのに、POLKAクリーニング店はまだ営業中だった。よく見れば看板に二十四時間営業と謳っていた。蛍光灯が灯っていても薄暗い廊下に、ガラス越しに店内の明かりが降り注いでいる。何もかもさらけ出されている様子がかえって胡散臭い。カウンターには男が一人、物憂げに頬杖をついてスマホをいじっていた。
俺は片側の顔の皮膚がピリピリするのを感じながら、店のドアを開けた。
俺の姿を見た途端、目つきの悪いチンピラは、飛びあがるようにして店の奥に走り込もうとした。俺はコートの内ポケットから取り出した玩具の銃口を男に向けた。
「動くな。これの中身はペッパースプレーだ。濃縮二倍だぞ。ここで発射すれば、店はしばらく営業不能になる」
「なんだよ、いきなり。強盗か? クリーニング店を襲うとは間抜けだな。もっと金のありそうなところへ行けよ」男は両手を上にあげて振り向きながら、そう言った。
「あんたには貸しがある。それを払ってもらおう」俺は自分の額から頬を人差し指で撫で、勢いよく床を踏みつける動作をした。
「あれは、ただの冗談だ」
「冗談で人の顔を踏みつけていいのは猫だけだ」
俺は店の奥に行くよう玩具で示した。透明な袋を被った大量の衣類がびっしり吊るされ、これから洗濯に出す衣類が山積みされたキャスター付きリネンカートが置かれている部屋だ。
「肉屋から脱出してきた時、ここに男の死体があった。あれはどうした」
「何のことを言っているのかわからない」
俺は無言で銃の安全装置を外した。男は顔色を変えて早口で言う。
「やめろ! お前も肉屋に居たんなら、死体の一つや二つ、どうってことないだろう」
「お前が俺の事務所に来て、散々おふざけをしていった日のことだ。お返しに俺もおふざけをしてやろうか。素敵な香水を振りまいてやる」俺は銃の引き金にかけた指に力を込めた。
「やめろと言っているんだ。お前、ここのおやじを舐めていると痛い目に遭うぞ」
「悪の元締めなのか、クリーニング屋のおやじが? お前は一体なんだ」
「俺はただの運び屋、末端の駒だ」
「ここで死体になっていた男も運び屋だったな」
「そこまで知っているなら、それ以上何が知りたい」
「そうだな、奴が始末された理由、その方法、ここからどこへ運ぶつもりだったか――つまり処分方法、そんなところかな」
「無理だ! 俺みたいな下っ端は、上からの命令に従うだけだ。全容は知らん」
「それなら、知っていることを話せ」
汚れ物が詰め込まれたリネンカートの腹の辺りが動いた気がした。先ほどから、目の端で捕えていた不審な動きだ。どうやら、気のせいではないらしい。
「おい」冷や汗を流しながら熱弁をふるう男を制して、俺は顎で問題のカートを示した。「あれはなんだ」
俺達二人が凝視する中で、カートの腹がまたぐっと突き出された。男の顔色が変わった。
「撃て、あいつを、撃て。そうすれば縮んでしばらく動けなくなる」
男は悲鳴にも似た声で叫んだ。
「そんなことをしたら、二週間は臭いがとれないぞ。恐らく、洗濯物に染みも残る」
「構うもんか、俺はただの雇われ店員だ」
母親の胎内で暴れる元気すぎる胎児のように、それはカートの中で暴れていた。車輪が軋み、ぐらぐらと揺れたかと思うと、横倒しになったカートから衣類が床に零れ落ちた。
金切り声をあげ、背を向けて逃げようとしたチンピラめがけて、衣類の下からそれは飛びかかった。
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