12 コインランドリー

 それは、緑色をしていた。

 満杯に詰まっていた汚れ物を床にぶちまけたリネンカートから飛び出して来たものは、悲鳴を上げて逃げようとした男の背中にしがみついた。その衝撃で男が転倒すると、物体は表面をぶるぶる震わせながら、徐々に広がって男の顔を覆った。

 男の悲鳴が唐突に途切れたが、それでも、喉の奥からくぐもった音を発しながら、奴の全身は激しく痙攣していた。

 俺は銃口の狙いを定めたままゆっくりと後ずさり、出口を目指した。

 痙攣する男の体から蒸気が立ち上り始めた。緑色のそれは、今や男の全身をほぼ覆い尽くさんとしていた。半透明で透けているそれを通して、露出している部分の皮膚が溶けているのが見えた。緑色のそれが付着しても衣服には何事も起きていないようだったが、蒸気は全身からあがっており、衣服を透過してその下の肉をも溶かしているようだった。

 男の体は最早痙攣するのを止めていた。溶けていく途中の肉体がグロテスクな赤色や白い骨の断面をさらけ出していたが、不思議なことに、やはり着ている衣類には一切ダメージがない。その下に隠れている肉体は、剥き出しの部分と同様にどんどん溶けて萎んでいくというのに。

「やあ、これは酷い」

 部屋の奥に、素裸の上に透明なエプロンを纏った中年おやじが、醤油皿と箸をそれぞれの手に持ち立っていた。この店、POLKAクリーニング店の主だ。姉妹店だというXXXのPORUKA精肉店で行われている怪しげな肉欲の宴から、秘密の通路を使って脱出してきたのだろう。半分溶けた骨を露出しながら、更に緑色のネバネバした物質に肉体を溶かされ続けている男の死体を目の前にしている割には呑気なコメントだった。

「一体何だ、これは」と俺は銃を振り回しながら訊く。

「緑色のネバネバ」

「そんなことは見ればわかる。このネバネバは一体何なのかと訊いている」

「まあ、捕食動物だね。いや、バクテリア……? その辺の区分は詳しくないんだけど。怒らせない限りは大人しいもんさ。教えれば簡単な芸も覚えるよ。可愛いだろう」

「食われたのはあんたの子分だ。店番してたチンピラ」

「ああ、トラゾウ? いいよ、あんな奴。どうせ捨て駒だもの」

 捨て駒のトラゾウは今や、床に接している下側の肉体三分の一ほどを残すだけになっていた。

「ああ、腹が減ったなあ。最近お楽しみの最中に邪魔が入ることが多くってさ。今回なんて、女の子の一人が逃げたのよ」

 クリーニング屋の店主は、溶けていく手下の体にかがみこんで、三分の二は既に溶けてしまった頭部を箸でつつきまわしながら

「もったいないなあ。脳みそは、わさび醤油と合うんだ。だけど、このネバネバ、動物の体を分解してしまうんだよ。これ食ったら、俺の内臓から溶けていっちゃう。クリーニングの溶剤としては最適なんだけどね。うちはこれのお陰で大評判なのよ。『どんな汚れでも落とします』ってね」

 ネバネバがくっついてなかったら食うのかよ。

 俺は吐き気と共に、精肉店の食肉処理室で見た光景を思い出し、更に気分が悪くなったが、それでも訊かねばならないことがあった。

「女の子が逃げたって?」

「ああ、中学生の割に発育がよくてね、でも顔は仏像みたいで徳が高そうだから人気がある子なんだけど。豚の頭に襲われて、体中噛みつかれたまま、逃走した。たいしたガッツだよね。今時の子にしては珍しい生存本能だよ。まるで野良ヤギ」

「逃げたって、一体どこへ」

「さあね。知らないよ。逃げられたんだから。こっちには来なかった?」

「見なかったよ。今着いたばかりなんでね」

 俺はユキを捜さなければ、と思い、踵を返した。その途端、けたたましい叫び声があがった。

「やめろ、ネバネバ。ハウス! ハウス!」

 振り返ってみると、チンピラをあらかた食い尽くした緑の物体が、クリーニング屋の店主の箸を持った手にしがみついていた。

「助けてくれ! 頼む、その銃で撃ってくれ!」

「いやこれは、撃つとこっちのダメージもでかいからなあ」

 俺はピストルの銃口で頭を掻いた。緑のネバネバは店主の右手からじりじりと上腕へ這いあがっている。店主は苦痛と恐怖の入り混じった叫び声をあげた。

「頼むよ。一緒に焼肉を食った仲だろう」

「俺は食ってない。なあ、ハタケヤマノボルって男を知ってるか」

 店主は明らかな狼狽を示した。

「そいつと、そこのカートに入っていた死体の男との関係を知りたい」

「なんのことだか」震える店主の言葉は、ネバネバがずるりと動き肩まで達したことで悲鳴に変わった。

「とぼけている時間はないと思うんだがなあ。教えてくれたら、お望み通り、こいつで撃ってやるよ」

「あいつ、タカシはそのハタケヤマって男の運び屋だ」

「タカシ? 死んでいた男はタカシなのか? タケシじゃなく?」

「タカシと呼ばれていた。あいつは、ハタケヤマの施設時代の知り合いだって話だ。ハタケヤマノボルは養子なんだ。詳しくは知らん。ああ、早く、早く撃って」鳴き声が絶叫に変わった。緑色に覆われた腕から蒸気が昇り始めていた。

「クリーニング代は出さないからな」

 絶叫が響き渡る中、俺は店主を捕食中の緑のネバネバに狙いを定め、左腕で目と鼻を覆い、引き金を引いた。


 ぷしゅっ


 という気の抜けた音とともに、呼吸をとめているにもかかわらず、凄まじい刺激臭が俺にも襲いかかって来た。咳やくしゃみをしたい衝動に駆られるがここは我慢だ。俺はコートの袖で顔面を覆ったまま、手探りで出入り口を探し当て、部屋の外に出た。

 カウンターにぶつかって薄目を開き、刺すような刺激に涙を流しながら店内を横切り、ひんやりとした廊下に出た。

ドアを速攻で閉め、激しく咳き込んだ。涙と鼻水が止まらない。間接的でもこの威力だ。ペッパー濃縮液をまともにくらった店主が、先程とは異なる種類の激しい咳と嗚咽の混じった凄まじい叫び声を上げているのが閉じたドア越しにもはっきり聞こえた。

 階段を下りながら、タカシという男について考える。ノボルの施設時代の知り合い? だったら、俺とも面識があるはずだ。ノボルが五歳で施設にやって来た時、俺は七歳、既にそこの住人だった。ノボルが裕福なハタケヤマ夫妻に貰われていったのはあいつが八歳の頃。俺の方はその後、高校卒業まで施設に残った。だがタカシなんて名前には憶えがなかった。偽名なのかもしれない。あるいは、そいつも養子にもらわれていき、その際に下の名前も変えた?

 一階に到達すると、俺は涙と鼻水を拭い、何度か深呼吸した。今後の動きを考えなければならない。近くのパーキングに停めてある車を回収してから、どうする。俺はルミからの依頼で動いている。ルミから捜索を依頼された男、俺の行く先々で死体になっていた俺そっくりの男がタカシだとして、そいつは俺とノボルが押し込まれていた養護施設に関連があるらしい。

 ハタケヤマノボルの近辺を洗うのが一番の近道のような気がした。しかし、ノボルは半年前に死んだ、しかも自殺だったと、ノボルが住んでいたマンション前で張り込んでいた刑事達は言っていた。

 ノボルの部屋があったポノレカ花の宮に潜入することができるだろうか。まず、あの刑事二人がまだ張り込んでいたら、どうにもならない。更に、あの玄関のオートロックをどう通過するか、仮に通過できたとして、ノボルの部屋に潜入する方法は?

 八方塞がりだ。

 俺は首を振って、何か別の方法を考えなければ、と歩き出そうとした矢先に、背後から怪鳥のような奇声がした。振り向くと、素裸の爺さんが階段を駆け下りてくるところだった。

「おい、待てコラ!」と柄の悪い声が後から追いかけてくる。

 俺は、あっけにとられた俺の横を通り過ぎようとした爺さんの細い腕を掴み、反対の手で口を押えた。肩で傍らの一階コインランドリー・ポノレカのドアを押し開け、爺さんと二人で洗濯機の影に身を潜めた。

 間髪入れずに凶悪な顔をした二階のポノレノク・ボクシングジムの会長が階段を駆け下りてきて、外に飛び出していく。

「畜生、どこ行きやがった。まったく、足の速いジジイだぜ!」

 悪態をつきながら、おやじは夜の町に消えた。

 俺は追っ手の姿が見えなくなると、老人とは思えない力で抵抗する爺さんから手を離した。

「なあ、活力に溢れているのは結構なことだが、なんでいちいち服を脱ぎ捨てるんだ? 寒いだろうよ」

 俺が穏やかに言いながら脱いだコートを肩からかけてやると、爺さんは俺の顔をまじまじと見て、

「タカシ!」

 と嬉しそうに言った。

 惜しい、と俺は内心思う。俺はタカシじゃなく、タケシなんだがな。

「家まで送ってやるよ」

 俺の言葉に、爺さんは嬉しそうに頷いた。

「女の子も一緒かい?」

「女の子? いや、今日はやめとこう。怖いおっさんに見つかる前に家に帰りたいだろう?」

「でも……それじゃあ、あの子は、あのまま置いていくのかい?」

 爺さんが枯れ枝のような指で示したのは、布団などの大物用乾燥機の丸い窓だった。稼働中の機械の中には、見覚えのある上下青いジャージを着た少女がドラムの回転に合わせてぐるんぐるん回ってていた。

「ユキ!」

 乾燥機の中に入っているのは、ユキだけではなかった。それは洗濯物ですらなかった。

 豚の頭が――いくつかはユキの腕や腿に咬みついたまま、残りのいくつかは、ユキの体から離れてあちこちにぶつかりながら、回転していた。

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