10 宴:少女、裂きイカ、そして女
部屋の中に入るなり、ユキはふんふん鼻を鳴らした。
「香水の匂い」
すっかり時間の感覚がなくなっていたが、少し前にユミがこの部屋で俺を待っていたことがあった。そこへ大家が合鍵を使って勝手に入って来て滞納中の家賃を払えと迫り――
俺は念のためドアの鍵とチェーンをかけた。さらに狭い室内に誰も潜んでいないことを確認してから、救急箱を取り出した。電気が止められていたが、街灯の明かりで特に問題はなかった。
ユキはベランダへ続くガラス戸を開け深呼吸すると、俺のベッドに腰かけた。次に鞄の中をかき回しコンビニの袋に入ったメイク落としを取り出し、アングロ劇団員風の白塗りメイクをこそぎ落とし始めた。
俺は彼女の赤く腫れあがった左足首に湿布とテーピングの応急処置を施したうえ、包帯でがっちり固定した。
「これでだいぶマシになっただろう。鎮痛剤要るか」
「クスリは、仕事の時しか呑まない」
俺は溜息をついた。
「お前は、もう家へ帰れ」
「家なんかないってば」
「冥途カフェの店長のところに居候してるんだろう。送ってや」俺は車をXXXXの近くに停めてあることを思い出し、毒づいた。
「タクシーで帰れ。これは諸々の駄賃だ」
と一万円札を渡そうとしたが、ユキは下を向いたまま受け取らない。
「おじさん、警察なの」
「元刑事だ。いつ辞めたのか思い出せないぐらい昔の話だがな。正直、生まれた時からしがない探偵で、ずっと浮気調査をしてきたような気がするよ」
俺は男の死体が転がっていた辺りに腰を下ろして胡坐をかいた。狭い部屋だ。ベッドに腰かけないとなると、座ることができる場所は限られていた。
「ノボルは、あなたのことが自慢だった」
「子供の頃の話だろう。あいつが施設を出て以来、一度も会っていない」
つい最近偶然再会するまでは、と俺は心の中で付け加えた。
「あなたが忘れても、ノボルは覚えていた。だから、警官になったとか、刑事に昇進したとか、全部知ってた」
ならば当然あの事件のことも知っていたのだろうな、と俺は思った。
「お前は、ノボルの、なんだ」
ユキは答えるかわりに立ち上がり「着替えるから、向こう向いててよ」と言うなりメイド服を脱ぎ始めた。俺はユキに背を向けて座り直した。
「ビジネスの話をしていたんだったな」
「あたしみたいな下っ端を引っ張っても何にもならないよ、刑事さん。あたしはただ、お腹いっぱいご飯を食べたかっただけ」
と背中から投げつけられたそんな台詞を、はるか大昔にも聞いたことがあった。
「あたしみたいな下っ端を引っ張っても何にもならないよ、刑事さん。あたしはただ、子供にご飯を食べさせたかっただけ」
俺は、刑事だった。今となっては信じられないようなスリムなズボンを履いていた、そのぐらい大昔の話だ。
「名前は何でもいい、そう言ったな。ポルカでもポノレカでも、それを指していることがわかればいいと。それならば、この界隈にあるそれっぽい名前がついている場所は、皆関連しているってことか」
ユキは無言だったが、背後で衣擦れの音はしている。
「上の肉屋では、怪しげな肉を客に提供している。文字通りの意味と、比喩的な意味で。そして三階のミニシアター。役割はよくわからないが、その下の、会計事務所だとばかり思っていたプールも。そしてこの雑居ビルXXXの合わせ鏡のような雑居ビルXXXX。狂った鏡に映る向こう側の六階のクリーニング屋は、こっち側の肉屋の姉妹店だというし、やばい片付けを請け負う掃除屋だ。三階の冥途カフェの店長の話しでは、ロッカーで死んでいた男は、運び屋だったそうだ。一体何を運んでいたのかな。その下のボクシングジムでは人間をサンドバッグに詰めているし、更に一階のコインランドリー……さて、そろそろ着替え終わったかな」
ユキが黙っているので、俺はゆっくりと振り向いた。上下青色のジャージに着替え、ベッドに腰かけたまま先ほどのコンビニで購入したと思われるスルメを齧っていた。
「食べる?」
差し出しされたそれから立ちのぼる臭いに吐き気を催し首を横に振った。ユキは特に気分を害したようでもなく、無心にくちゃくちゃと噛みしめている。その化粧気のない顔はやはり特徴がなく、地味で子供じみている。脱いだものがどこにも見当たらないので、小ぶりな肩掛け鞄に一体どれだけのものを詰め込めるのか、と俺は感心した。
玄関の方で物音がした。立ち上がって衝立から顔を出して見ると、一層暗い台所を通して、ドアノブが静かに動いているのが見えた。次いで鍵の回る音。俺は舌打ちをした。また大家か。
しかし、開いたドアがチェーンでつっかえたのに毒づいた声は、女のものだった。
「ユミか!」
俺はドアに歩み寄って、チェーンを外した。
「あたしはルミよ! 依頼人の名前を間違えるなんて最低の男ね!」
女は俺を押しのけると、ハイヒールのまま部屋に押し入って来た。
「おい、他人の部屋に土足で」
「何この匂い。女がいるの?」
「女じゃない」まだ子供だ、と付け加える間もなく、ルミは衝立の向こうに乗り込んで行った。俺は咄嗟に三和土に残されていた虎柄のブーツを流し台の下の棚に放り込んでから、彼女の後を追った。
狭い部屋だ、すぐに追いついたが、部屋はもぬけの空で、食べ残しのスルメのパックがベッドの上に残されていた。ベランダに出るガラス戸が半開きのまま、カーテンが僅かに揺れていた。
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