09 ミニシアター

 果てしなく続くかに思われた、暗く長く重い道程にようやく終わりが見えた。

 それは最初、幻の如くはるか彼方に薄い光で四角く縁取りされた枠組みとして現れた。近づくにつれ、はっきりくっきりと光の筋がドアの形を浮かび上がらせてきた。

 前方に伸ばした手が――久しぶりに自分の手が実在していることを目視確認できて俺の心は弾んだ――硬い物質に触れた。片手を離したために背中からずり落ちそうになったユキの体を押し上げながら、俺はドアノブを捻り肩で押し開けた。


 幕が上がるのを待つ客のさんざめきが一瞬俺を包んで通り過ぎて行った。


 そこはミニシアターの二つあるスクリーンの一つで、一列十席が七列並んでいる。黄色味を帯びた照明が灯っているが、俺たち以外に客の姿はなく、小ぶりなスクリーンには年代物の幕が下りたままだ。

 俺達がすり抜けた扉はスクリーンのすぐ脇にあり、閉じるとぴったりと壁にはまり込んだ。客はそこにドアがあるなんてまず気付かないだろう。こちら側にはドアノブや取っ手の類もない。どうやって開けるのか。

 しかしそんなことを悠長に考えている暇はなかった。ユキの足を抱えている腕がもう限界だったし、膝も震えている。俺はよろけるように最前列に歩み寄ると、座席の一つにユキを落っことした。俺の肩をよだれで濡らして平和に眠っていたユキが衝撃で飛び起きたが、途端に左足の痛みに呻いて再び座席に倒れ込んだ。


「もう少し優しくできないの?」

 涙目で文句を言われたが、俺は腕の痺れが治まらず、両手をプラプラさせながら周辺を観察していた。


「どこなの、ここ」

「XXXの三階にあるミニシアターだろう。名前は知らない。俺は映画ファンじゃないから、四階の自分の部屋に行く際に階段で傍らを通り過ぎるだけで気にしたことがなかった。だが、どうせポルカとかポノレカとかいうんだろう。ポノレノクかもしれない。漢字か平仮名、片仮名、ローマ字、ポーランド語アルファベット……書き方で少々変化を持たせたとして、南の島の住民じゃあるまいし、似たような名前の店ばかりで混乱しないのかな」

「名前はどれでもいいんだよ。どれかでありさえすれば」

 慎重な手つきで左足のブーツを脱ぎながらユキが言った。

「ポルカ、ポノレカ、ポノレノク、とにかく『それ』だってわかりさえすれば、なんでもいい」

「どういうことだ」

「仕事のこと知りたかったんじゃなかったの」


 ブーツを脱いだユキの左の足首は腫れ上がっていたが、折れてはいないようだ。湿布でも貼って固定しておけば二、三日でどうにかなる。


「俺の部屋に行こう。何もないが、救急箱ぐらいはある」

 俺はユキに手を貸して立たせ、床に放り出してあったブーツの片方を拾い上げた。

「同じ部屋で息をするのも、本当ならお金取るんだけどな」

 と顔をしかめながらユキが言う。片手で俺の腕に縋り、もう片方で眠っている間もずっと離さなかった鞄を胸に抱いている。

「別にここに置いていってもいいんだぞ」

「やめてよ、映画なんて好きじゃない」


 その時、スクリーンの対面にあるドアから、客が一斉になだれ込んできた。座席数よりはるかに多いのではないかと思われる数だった。俺達は客の流れに押し戻され、最前列の座席に座った。正確には、客の流入する勢いに押されて尻もちをついたところに座席があったと言うべきか。

 上演開始のブザーが鳴った。照明が落ち、スクリーンを覆っていた幕が上がった。まだ最後尾の辺りでは客が着席し終わっていないというのに。

 近日公開予定の映画の宣伝も上映中の注意もないまま、いきなり本編らしきものが始まった。古い白黒フィルムだ。タイトルは『ハタケヤマノボルの生涯』。

 背広姿の二人の男がどこかの住宅地を歩いている。痩せ型長身とずんぐりした小柄な男。痩せ型の方は若く、ずんぐりは壮年。二人ともこちらに背中を向けており顔が見えないが、一目で刑事だとわかる。

「ねえ、出よう」

 ユキが小声で囁いた。俺は頷いて、立ち上がった。映写機の光をまともに浴びた俺達二人の影がスクリーン上に大きく映し出され、あちこちから舌打ちが聞こえた。俺はユキの腕を支え、可能な限り急いで通路に出た。

「あんた、また逃げるのかい」とスクリーンの若い刑事が振り返って言った。二人は学校を思わせる門の前に立っている。

 俺達は無言のまま後方の出口へと向かう。

「あいつは、そういう奴さ」と年配の刑事が言った。「タフガイを気取っているが、小学校四年生の女の子みたいに繊細なんだ。だから、耐えられなかったんだろう。なあ、サカイ」


 出口に到達し、ドアを押し開けたところだった。振り向くと、スクリーン上のタカギとタニヤマだけでなく、観客全員の頭がこちらを向いて俺を見つめていた。

 ユキが悲鳴をあげた。


「そいつについて行ってもろくなことがないよ、お嬢さん」と年配のタカギ刑事がスクリーンの中から語りかける。

「老人に子供の売春婦を斡旋するような仕事をしていた奴だからね。落ちぶれたもんさ。元刑事の面汚しだ」とタニヤマ刑事。「『男性機能を完全に失った高齢男性と添い寝するだけの簡単なお仕事』。そんなものに騙される小娘も大概だけどねえ」


 二人の刑事は腹を抱えてゲラゲラ笑い出した。しかし、座席から首を捻ってこちらを見ている観客は、相変わらず無表情だ。笑い続けて呼吸困難に陥っても、二人の刑事は涙を流しお互いの背中を叩きあって笑い続けている。その二人の頭上をカメラが通過して、学校を思わせる門を通過、白い壁の建物の中へ入っていく。その建物には見覚えがあった。


 コートの袖を引っ張られて俺はユキの存在を思い出した。

「行こう。こんなグロ映画、見たくない」

 俺は観客が今にも襲いかかって来るのではないかと用心しながら、スクリーン1 と表示されたドアをすり抜け、背中で閉じた。

 そこは無人でさえ狭苦しい感じのするロビーであった。映画のチラシのスタンドや、四角いスツールの間をすり抜け、出口へと向かう。銭湯の番台のような狭いカウンターの上には千円札や百円玉が散乱していたが、そこに座っている男はやる気がなさそうに虚空を見つめている。

 映画館の出口の手前まで来た時、地響きのような低い音と共に、床が振動し始めた。カウンターの中の男はかっと目を剥いて叫んだ。


「重量オーバーだ!」


 みしみしと壁や床が軋む音に次いで、轟音が響き渡った。そして派手に水飛沫の上がる音。ドアの向こう、ついさっき俺達が出て来たスクリーン1の方からだ。

 ロビーのリノリウムの床に亀裂が入って段差が生じていた。閉ざされたドアの下から発生したそれは、不穏な音を立てながら俺達の方に迫って来る。

 俺はユキの肩を抱き寄せ、出口に向かって後ずさりしながら「どういうことだ」とカウンターの男に向かって叫んだ。不穏で耳障りな音に阻まれ、声を張らなければすぐ近くの者にも届かなかった。

「また床が抜けたんだ。だから、『ハタケヤマノボルの生涯』はやめておけって言ったのに」

 男はカウンターから飛び出すと、スクリーン1のドアに突進し、勢いよく引き開けた。

 俺達が立っている位置から見えるはずがないのに、満席のシートがのっかっていたはずの床に開いた大穴と、剥き出しになったコンクリートの断面から覗く鉄骨、更に下の階の青々とした水の中で瓦礫と化した床やシートに押し潰されまいともがく人々の姿が垣間見えた。

 スクリーンでは、相変わらず白黒のフィルムが進行中だ。

「プール?」

「危ない!」

 眉間に皺を寄せてスクリーン1のドアに向かって数歩よろけ出たユキの腕を掴んで引き戻しながら「この下は会計事務所のはずなんだがな」そのまま彼女を引きずるようにしてミニシアターの外に出た。

 階段を上るうちに足の痛みを思い出したらしいユキが泣き声を出す。

「どこに行くの?」

「四階の俺の部屋だ。その足をどうにかしないと、動けないだろう」

「このビル、倒壊しない?」

「さあな。だが、さっきの男は、前にもこんなことがあったような口ぶりだった。重量オーバーだっていうんだから、人が大勢集まりすぎなければ大丈夫だろう」


 片足ケンケンするユキが階段を上るのを助けながら、どうにか四〇四号室まで連れて行った。ドアには鍵がかかっていなかった。

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