10 血塗られた宴

 部屋の中央に置かれた巨大なステンレスの作業台の周辺に、男達が群がっていた。その台は、大人が一人横になっても余るぐらいの大きさだ。


 ぺちゃくちゃと嫌な音がしている。


 俺は肉の処理室の戸口でしばらく躊躇していたが、意を決して一歩踏み出した。

 水の跳ねる音がした。

 足元を見ると、床に水たまりができていた。コンクリート剥き出しの床は液体が流れて行きやすいように、部屋の隅の排水溝に向かってわずかに傾斜しているようだった。排水溝に流れ込むその赤黒い液体は、作業台の方向から流れ出していた。


「ちょっと、あんた、靴が汚れるよ」

 作業台を囲む男の一人が俺に気付いて、歩み寄って来た。

「ほら、これを靴の上から履いて」と渡されたのは、足首のところがゴムで締まるようになっているシューズカバーだった。事件現場で捜査官や鑑識が履いているあれだ。


 俺は沓摺くつずりを跨いで隣室に戻り、水たまりに浸した靴の底を、乾いた床――こちら側はリノリウムだ――で拭った。黒味を帯びた赤くねっとりとした液体が緑の床の上にいやらしい跡をつけた。

 シューズカバーを装着し食肉処理室に戻ると、ぺちゃりくちゃりと下品な音が継続している。


「あんた、丁度いいところに来たね。さっき届いたばっかり。新鮮だよ。なんでも、やばいことをして逃げてたんだって。全く最近の若いもんはさあ」


 俺は男に促されて作業台に近づいていった。台を囲んでいる男達が少しずれて俺の潜り込む場所を作ってくれた。

 作業台の上には、赤い肉塊が横たわっていた。

 それが何かの動物であることは一目瞭然だったが、「何の」と訊かれると答えに窮する代物だった。裂かれた腹からは臓物があらかた取り除かれていたし、あばら骨も何本か外されていた。台の反対側の男二人は、心臓と思しき臓器を手に、両側からかぶりついて必死に噛み裂こうとしている。勿論レアのままで。


「ああもう、いいところはあらかたとられちゃったね。でも、俺は腿肉をちょいとあぶったやつを醤油とわさびで食べるのが好きなんだ。試してみるかい?」


 男に顎で示された先を見ると、部屋の隅で三人の男が七輪を囲み金網の上で肉を焼いていた。室内は天井に溜まった煙が重たげに垂れ込め目に染みた。

 俺はステンレスの台に向き直り、四方から伸びる手に絶え間なく体の一部を毟り取られ続けている犠牲者の顔を見た。上半分を取り除かれた頭蓋骨の中身は空っぽ、目玉をくりぬかれ舌も抜かれ、頬の肉を削がれてはいたが、ユキではなかった。若い女、という気がしたが、既に性別を判断できる器官は残っておらず、なぜ女と思ったのか自分でもわからなかった。俺は骨格から性別や年齢を判別できるほど骨に詳しくない。


「ほらこれ」

 男が両手を突き出したので思わず受け取ると、茶色い液体の真ん中にワサビの塊が浮いた小皿と箸だった。

「あんたたち、酷い有様だな」

 俺は自分の声が遠くから聞こえるような不思議な感覚にとらわれていた。

「それじゃあ、もう着られないだろう」


 俺は口元から胸までべっとり赤く染めた男に向かって言った。胸から下を覆う透明なエプロンを身に着けているが、そこからはみ出した部分、それに肘までたくし上げたシャツの袖などにべっとり付着している。他の男達も似たようなもので、三歳児に自由にナポリタン・スパゲッティを食べさせたような有様だった。


「馬鹿なこと言ってもらっちゃ困るね。うちはクリーニング店だよ。こういう時のためのスペシャリストなんだ。こんな程度の汚れ、跡形もなく落としてあげるよ」


 男は焼きあがった肉を醤油とわさびのタレにつけて頬張り始めた。じゅうじゅうと音を立てて焼ける肉の臭いには、確かにほぼベジタリアンのような俺でも一瞬食欲をそそられるものがあったが、それは即座に嫌悪感を伴う吐き気に変わった。


「あんた、クリーニング店の人かい」

 俺は平静を装って訊く。

「『ぺけよん』っていうビルに店を出してるよ。あんたもさ、お安くしとくから、後のことは気にせず、遠慮なくいただきなよ」


 俺は七輪の前に座り夢中で肉を頬張り始めたクリーニング店の男から更に詳しい話を聞こうとしたその矢先、非常ベルがけたたましく鳴り響いた。


「だから煙を出し過ぎだって言っただろう」

「急げ、覆え」


 作業台組から非難の声があがり、慌ててビニールシートが台の上に広げられた。間髪入れずに、天井のスプリンクラーから水が降って来た。作業台を保護した男達は特に慌てるでもなく天を仰いで顔をこすって汚れを落としたりしている。無防備なままの七輪は、シューッと白い煙をあげた。


「一体何の騒ぎだ!」と店側の入口から肉屋が現れた。手にはの鎖状に繋がった腸詰が握られている。

「困るんだよ、あんたたち。ただでさえうちは警察に睨まれてるんだからね。おい、アラームを消せ」


 最後の言葉は、処理室の反対側の入り口から顔を出した肉屋の手下に対するものだった。子分が戸口から姿を消して程なく、警報が鳴り止んだ。


「撤収だ! 消防が来る前に。さあ急いで」


 肉屋がぱんぱん両手を打ち鳴らすと、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 処理室の男達は我先に店の出口を目指した。冷凍庫から抜け出してきたと思われる髪の毛やまつげを凍らせた男女も走り出て行く。俺は豚の頭に襲われた少女の事を思い出したが、次々になだれ込んでは通過していく人の波に飲み込まれ、逆方向に押しだされた。

 仕方なく人の流れに合わせて走り出したが、ほどなく、それほど広くはない肉屋の店舗内のどこを走っているのかわからないことに気が付いた。六階のフロアまるまる肉屋だとしても、その広さはせいぜい、俺のワンルームの部屋を五倍した程度のはずである。接客をする店舗とその奥の処理室、更に奥の倉庫と冷凍室だけで占めてそのぐらいになるのではないかと思うのだが、俺達が走っているのは、蛍光灯の明かりが点滅する細長い廊下だった。


「おい、これは一体、どこに繋がってるんだ」

 前を走る、素っ裸に毛布を巻き付けた男――頭髪はまだ凍っている――に声をかけると、

「『クロスフォー』のクリーニング屋だよ。肉屋のPORUKAの姉妹店だからな。あんた新顔だね?」


 男は、俺の返事を待たずにどんどん先に行ってしまった。俺はペースを落として徐々に遅れ、列のしんがりまで来ると、足を止めて振り返ってみた。僅かに左にカーブした細い廊下の先は、闇の中に溶け込んでいた。


 俺は頭を振って、遅れを取り戻すために再び走り始めた。

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