09 精肉店

 雑居ビルXXXの六階が肉屋だったことは、何となく知っていた。俺の住んでいるのは四階、それ以外には正直興味がなかったし、とりあえず階段で通過する二階三階と異なり、四階より上には足を運ぶ理由がなかった。自炊を殆どしない俺には肉屋になんて用事がないのだし。

 階段を上りながらチラリと覗き見した五階は、四階と同様に住居が五戸並んでおり、外見上の違いは部屋番号の頭が四か五かというぐらいだ。俺と同様に後ろ暗いところがあるのか、このビルの住民は表札を出さない場合が多い。

 六階の肉屋は、今は営業していないはずだった。そもそも雑居ビルの六階に肉屋を構えて繁盛するとは思えない。案の定開店から数年で潰れてしまったらしい。それも、俺が越してくる前の話だというから、二十年以上前からその肉屋は潰れていることになる。二十年で初めて六階にやって来た俺は、かつての店舗の名残りである錆びの浮いた看板を眺めている。


 PORUKA精肉店


 ガラス張りの店の内部は、外側から打ちつけられた板のせいで見ることができない。ドアは施錠されていたので、俺はコートの内ポケットから道具を取り出した。かちりと音がしてドアが開くまでおよそ三分。この程度の旧式なロック相手に、随分腕が落ちたものだ。


 店内に入り、微かに腐敗臭が漂う淀んだ空気の中にしばらく佇んで、暗闇に目が慣れるのを待った。雑な板張りの隙間から漏れてくる光のお陰で、真っ暗というわけではなかった。かつてはレジが置かれていたであろうカウンターがあり、かつて肉を陳列していたショーケースが残されていた。

 俺はフラッシュライトをポケットから取り出し、あちこち照らしてから、消した。明かりがちらちらしているのを、外から見られたくなかった。明かりを消す前に、うっすら積もった埃の上に、足跡が何種類か見てとれた。俺が期待するほど、この店は無人ではないらしい。カウンターの上には殆ど埃が積もっていない。


 いや、俺の期待はここで何らかの手がかりを見つけることなので、誰かまたは何かとの遭遇は、むしろ歓迎するべきか。


 カウンターの中に入り、ゆっくり奥へと進んだ。外の光が届かないため、闇が深まる。そこは肉の処理をしていたと思しき部屋だった。ステンレスの大きな作業台や、天井のレールからぶら下がるでかいフック。甘い胸の悪くなる匂いが強くなる。


 肉が大嫌いだったガキの頃のことを思い出した。施設や学校の給食で出された安い肉の脂身で吐き気を催したせいだが、俺は「贅沢」だの「我儘」だのと言われ、教師や施設の職員から厳しい叱責を受け、全部食べるまで開放されないという荒療治を受けた。お陰で現在は値段に関係なくありとあらゆる種類の肉が好きではなくなった。だが、対外的に聞こえが悪いので、ほぼベジタリアンであることは隠している。


「それじゃあ、普段何を食べてるの?」

「主にフルーツだな。調理しなくても食べられるのがいい。バナナとか」

「ゴリラみたい」


 そんな会話をユミと交わしたことを思い出した。寝物語にうっかり口走ってしまったわけだが、あいつは健康のためとかいって俺に無理やり肉を食べさせようとはせず、たまに手料理を作ってくれたとしても、野菜たっぷりで申しわけ程度に肉の入った鍋とか、魚がメインだった。


 何か聞こえた気がして、俺は再度点灯させたフラッシュライトを構えた。ライトに照らし出された隅っこを、細長い尻尾が横切って行った。鼠は好きじゃない。正直、犬も猫も動物全般苦手だ。まったく、ベジタリアンなうえに鼠を恐れるような探偵では、ハードボイルドは成立しない。だから浮気専門なわけだが。


 奥にもまだ部屋があった。剥き出しの棚が壁に設置され、その奥にある天井まで届くステンレスの扉は冷凍庫だろう。電源が入っていようがいまいが、絶対に近づきたくない代物だ。俺は閉所恐怖症の気もあるのだ。このビルの狭苦しいエレベーターぐらいなら、乗れないことはない。だが、こんな無人の廃屋で冷凍庫に閉じ込められたら、誰も助けに来ちゃくれないだろうし、長く正気を保てる自信がない。


 なぜこんなところに来たのかと今更ながら思う。なぜだっけ?


 しばらく考えてから、思い出した。思い出せたことに我ながら驚いたが、こういうことだ。俺は、俺の事務所から連れ去られた依頼人ルミ(あるいはユミ)の行方を追うと同時に、彼女を連れ去った雑居ビルXXXXの六階クリーニング店で見かけた目つきの悪い男や、奴が交換条件だと言ったキヨコことユキの行方も追っている。さて、一体どこから手を付けたものか。


 そこで一つひらめいた。


 正式名称不明の雑居ビルXXXX(通称ハヌキの)四〇四号室がこちらの雑居ビルXXX(トリプルエックス、通称バッサン)の四〇四号と繋がっているのであれば、XXX六階の肉屋がXXXX六階のクリーニング店と繋がっていてもおかしくないのではないか、俺はそう思ったのだ。

 いや、そう思ったというよりそう願ったというべきか。俺はXXXXの正確な場所を知らない。酔っぱらって連れていかれたノボルのマンションからでたらめに歩いて入った喫茶店ぽるかからユキに案内されて純喫茶歩留果へ行き、その後XXXX通称ハヌキへと案内された。探偵という職業柄、自分のシマならどんな細い路地だって覚えているが、これらはその外側にある。

 無論、XXXXを探し出すための、もっと確実かつ現実的な方法はある。ただ、XXXの方も、男の死体が発見されたり怪しい人物が目撃されたり、本件に無関係とは思えなかった。何より、キヨコことユキを探し出そうにも、彼女がどこにいるのか、俺には皆目見当がつかない。

 だからとりあえず、物理的に俺の事務所から一番距離が近く、所在もわかっている、ここXXXの六階に来てみたのだ。来てはみたのだが。


 やはり、あの冷凍庫の扉を開けなければいけないのだろうか。せっかく不法侵入の罪を犯してここまで来たのに確認を怠るようでは、プロの仕事ではない。いや俺は浮気調査のプロだから、本来こんなやばい仕事には縁がないのだが。


 細波のように微かな音に俺は気付いた。先ほどの鼠とは違う、誰かの話し声。嬌声。グラスのぶつかる音。肉屋にはおよそふさわしくない音が、遠方から微かに聞こえてくる。

 俺は冷凍庫の扉を見つめた。やはり、開けないわけにはいかないようだ。


 ゆっくりと扉に近づいていった。でかい扉だ。頑丈そうだし。冷凍の肉を貯蔵しておくための部屋だったはずだ。さざめきは扉に近づくごとに大きくなる。俺はフラッシュライトを構え、扉のハンドルに手をかけようとした。


「――ですか」


 背後からの声に弾かれたように振り向きライトの光を向けたが、それよりもはるかに強力な、まばゆい光に包まれ目が眩んだ。

「どのような子がお好みですか」

 目を開けると、そこは壁際の棚にびっしりと備品が詰め込まれた倉庫のような部屋だった。デスクが一つ。その上に帳簿が開いたまま置かれている。

 男はまっ白い上下のユニフォームに、汚れた前掛けを締め、白いゴム長靴を履いていた。

「若い子から老人まで、お好きな性別で取り揃えますよ。うちは肉屋ですから」

「なんだって?」

 俺は肉屋のおやじを見つめ返した。

「おや」

 肉屋はきょとんとした顔で俺を見つめると、親しげに笑いかけた。

「あれまあ、あなたでしたか。これは失礼。しばらく見ないうちに――髪がふさふさになって随分体重が減った上に、髭がないからわからなかった。まるで別人じゃないですか。人が悪いなあ、気付くまで黙っているなんて」


 それは完全に別人だろうと思いつつ、俺は話を合わせることにして共犯者めいた笑みを返した。


「あなたのお好みの子は、生憎今取り込み中で……代わりに、新入りの子を紹介しますよ。正真正銘、今日が初お披露目てっていう。でもねえ、今時の子だから、本当に初めてってわけじゃないみたいなんですけどね。まあそれには目を瞑っていただくとして」


 肉屋は同じように白い服とゴム長に身を包んだ男に目配せをした。すると男は倉庫から姿を消し、ほどなくして若い女を一人連れてきた。

 ユキではないかと一瞬期待したが、小柄で豊満な肉付きをしているものの、別人だった。

「おい、随分若いな。一体いくつだ」

「十三」と少女はつまらなさそうに言う。

「おい、黙ってろ」と肉屋は素早く少女を制した。

「お客さん、そういうヤボな質問はしない約束でしょう。何も知らない方が、あんたのためだ」


 肉屋は馴れ馴れしく俺の肩に手を置くと、有無を言わさぬ力で俺を冷凍室のドアの前まで連れて行った。ドアに触れる前から、内側の冷気が伝わって来た。


「ご承知の通り、三十分が限度です。女の子だっていくら皮下脂肪が厚くても、それ以上は無理だからね。では、お楽しみを」


 男は俺の口にグラスをあてがい、中の透明な液体を口の中に流し込んだ。無抵抗に飲み下したそれは、俺の喉を焼いた。強い酒だ。男はグラスを床に叩きつけて割ると、俺の肩を毛布で覆って、ステンレス製のレバーを引き、重い扉を引き開けた。


「おい、ちょっと――」


 抵抗する間もなく俺は冷凍室の中に突き飛ばされた。扉の閉まる音を背後に聞いて、引き返そうとしても無駄だと思い、俺は白く煙った室内を見渡した。想像したよりも広い。ここにも壁際に棚があり、部位のわからない巨大な肉の塊がむき出しのまま置かれている。更に、牛なのか豚なのかもわからないが、内臓を抜き出され、あばら骨を数えやすいように加工された巨大なボディが天井からいくつも吊るされていた。

 かつて体験したことのない冷気に襲われ、強力な酒で一旦俺の体内に灯った炎は、早くも下火になり始めていた。肉屋のいう「三十分」も持ちこたえられるとはとても思えなかった。

「早くしないと、凍えるよ」

 俺は隣に少女がいることに気付き、驚いた。

「お前まで入る必要はないだろう」

 俺の言葉に、少女はバカじゃないのという侮蔑の表情も露わに

「おじさん、何しに来たの?」と先に立ってすたすた歩きだした。


 天井から吊るされた牛だか豚だかをよけながら進む彼女のあとを慌てて追うと、白く霞む視界の端々に、何か蠢くものがあった。衣擦れの音、押し殺した声。二人ないし、時には三人の人間がひと固まりになって毛布にくるまっているのだが、おしくらまんじゅうに興じているわけではなさそうだった。

「こんなクソ寒いところでよくおっ立つな」

 俺は半ば本気で感心して呟いた。吐く息が真っ白だ。視界がところどころ白いのは、まつ毛が凍ったからだろう。

「おじさんだって、おんなじ趣味でしょ?」

 少女は、俺よりも薄着で毛布も被っていないのに案外平気そうだった。やはり皮下脂肪というのは大事なんだなとこちらにも感心しながら返答した。

「俺は変態じゃない。マイナス何十度の世界で死んだ動物に囲まれてちゃ、気分が出ないだろ」

「じゃ、一体何しに来たの?」

 豚の頭部がむき出しでごろごろ置かれた棚の陰に俺を誘導した少女は、呆れ果てた様子で振り返って言った。

「寒いんだから、早く済まそうよ」と俺のズボンのベルトに手をかけてくるのを制し

「実はひとを捜してる。君と同じぐらいの若い女の子で、ユキという名前なんだが、あるいはキヨコか、別の名前を名乗っているかもしれない。仏像みたいなのっぺりした顔で、化粧で別人のように印象が変わる」

「それって、ここにいる子の半分以上に当てはまるよ。写真とかないの?」

 少女は苛立っていた。さすがに寒くなってきたらしく震えているので、俺は自分の毛布を彼女の頭に被せ、顔だけ出して体をくるんでやった。

「悪いが、写真はないんだ」

 俺はあちこちから聞こえる規則的な、しかも段々早くなるリズムに顔をしかめながら言う。

「ちょっと待って、キヨコって言った? 白塗りの気持ち悪いメイクをするメイドのバイトと掛け持ちしてる子かな」

「それだ。今どこにいる?」

「あの子は――もう手遅れだと思う」

「どういうことだ」俺は歯の根が合わず震えを制御するのに苦心しながら訊く。

「手遅れっていうのは」

「あの子、見るからにおいしそうじゃない? だからお客が、食欲をそそられるって」

 少女は鼻に皺を寄せて言う。

「ここに来る前に見なかった? 食肉処理室」


 俺はがちがち歯を鳴らしながら、言葉にならない言葉で少女に礼を言うと、猛然と出口を目指した、つもりであったが、震えが全身に及んで歩行もままならない。関節の油の切れたロボットみたいにぎこちない動きで、かくかくしながらあちこちで毛布の塊や天井から吊るされた肉塊にぶつかっては、歯の隙間から詫びの言葉を絞り出しながら進んだ。


 ドアの前に立ちレバーに手をかけた時、けたたましい悲鳴があがった。

 振り向くと、先程の少女が、豚の頭部を両手に抱え、突っ立っていた。毛布は床に落ちてしまっている。いや、白く濁った視界を振り払うために目をしばたたかせると、複数の凍った豚の頭部が、少女の肩や頬に咬みついていることがわかった。少女はそれを両手で振り払おうとするのだが、豚の歯はがっちり少女の皮膚にくい込んでいる。噴き出した血が湯気を発しながらたちまち凍り付いていく。別の豚の頭部が彼女の足元から這い上がり、豊満な内腿に咬みついた。少女は悲鳴を上げて床に倒れた。その体に更に別の豚の頭部が覆いかぶさっていく。


 俺は夢中でドアのレバーを掴んで引っ張ったが、開かない。狂ったように、時々肩越しに後ろを振り返りながら、レバーを騒々しく揺さぶり、扉を両の拳でガンガン叩いた。あちらこちらに見える毛布の塊は、少女の凄まじい悲鳴にも無反応で自分たちの行為に没頭していた。

 ドアが外側から開き、俺は暖かい倉庫の中へ転がり出た。


「おやまあ、随分お早い。あの子が余程お気に召した様ですねえ」と肉屋が呑気に言う。

 俺はガチガチと音を立ててぶつかり合う歯で自ら舌を噛み切らないように苦労しながら、女の子が豚の頭部に襲われたことを伝えた。少女の悲鳴は分厚い扉に遮られて聞こえなくなっていたが、再び扉を閉める前に肉屋の耳にも届いたはずだった。しかし彼はニヤニヤ笑いながら言った。


「よくあることです。何しろ彼女たちは、おいしそうだから」


 その含みのある言い方に、俺ははっと我に返って、肉屋を突き飛ばすと、隣の肉の処理室へ、まだ震えが止まらない体で突進した。

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