08 脱出
背中で衝撃を受け止めながら、俺はロッカーの中から転げ出た死体を思い出していた。首に食い込むようにしっかりと巻き付いていたスカーフのような布。あれが絞殺だとすると、小柄なユキが犯人とは考えにくい。相手は大の男だ。それに、殺した男を自分のロッカーに隠すバカはいない。捜査陣の裏の裏をかくなんて面倒なことは、正気の一般人はしないものだ。
死体がまたしても俺自身のように見えたことは、この際おいておくことにした。考えるだけ無駄だ。
がんがんと背中に受ける衝撃が一人分から二人分になったようだった。ドアが軋んで、一撃食らうたびに生じる隙間をどうにか押し戻すのだが、そろそろ限界と思われた。タイミングを見計らって、俺はドアから素早く身を避けた。
ばあんと勢いよくドアが突き破られ、XXXの大家と店長が勢いよく飛び出してきて床に転がった。その隙に俺はチルドレンが積み上げた石を蹴散らしながらドアを目指したが、河原の石(という体でそこいら中にまき散らされている物体)でバランスを崩し、こけた。その時、つんのめり、スローモーションで迫りくる地面に鼻先から突っ込みながら、重厚なベース音をぬって、恨みがましいボーカルの声が
リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー
と血を吐くように絞り出されるのを聴いた。それでは、これが数年前の大ヒット曲ポルカ・ポルカ・ポルカなのかと呑気な考えが頭をよぎったのも束の間、顔面から着地した痛みに身を委ねる暇もなく、すぐさま体勢を立て直し、出口を目指した。
ノブを引っ掴んで体当たり気味にドアを押し広げると、外の明るさに目が眩んだが、立ち止まっている暇はなかった。俺が転倒している間に追いついた店長か大家のどちらかにコートの裾を引っ張られた。それを強引に振りほどきながら、目の前に出現した階段を、俺は躊躇いなく上り始めた。
一段飛ばしで一気に階段の最上階まで上ると、そこは六階のはずだった。XXXの大家が電話で口にしたクリーニング店――ガラス張りの店内のカウンターに座っている目つきの悪い男が俺を睨んだ――の前を素通りし、反対側の非常階段へ抜ける非常ドアを肩で押し開け二階分の階段を下り、また非常ドアを抜けてフロアに戻った。
そこはレジデンス階で、俺は既視感に戸惑った。俺の自宅のあるXXXの四階とそっくりだったからだ。非常階段側の一番端、四〇五の次が四〇四。縁起など意に介さないドアナンバー。しかし、アパートやマンションの外観などというものはどこも似たようなものだ。あるいは、このビルXXXX(ハヌキ)も実はあのすだれ頭のXXX(トリプルエックス)大家の所有物で、同じデザインが採用されているのかもしれなかった。
そんなことを考えていると、非常ドアの外が騒々しくなった。大家達に追いつかれてしまう。
俺は咄嗟に四〇四号室のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。俺はできるだけ静かに、かつ素早くドアの中に滑り込んだ。
弾む息をおし殺し、内側から施錠した。非常ドアが開く音に続いて、騒々しい足音が通過していった。室内は、薄暗かった。まだ午前中だというのに、カーテンが引かれているらしい。狭いキッチンの向こうは、衝立のせいで見ることができない。不安になるほどXXXの俺の部屋に似ていた。俺は三和土で靴を脱いで奥へと進んだ。
ワンルームの寝室兼リビングには死体はなかったが、体が横たわっていた形にテープでヒト型が作られており、胸の辺りに赤黒い染みが残っていた。粗末なベッド、パイプハンガーに無造作にかけられた衣類、床に積み上げられた段ボール箱……ここは、俺の死体が運び出された後の俺の部屋だ。
ふり出しに戻ったわけだ、と俺はひとりごちた。
しばらく玄関のドアに耳をつけて表が静かになっているのを確認したうえで、俺はロックを解除し外に出た。ドアに貼られていた黄色い立ち入り禁止のテープの片端が破れて床に垂れていた。俺は周囲を気にしながら雑居ビルXXXを後にした。
事務所に戻った俺は、来客用の長椅子に倒れ込んだ。
既に昼近い時刻になっていたが、空腹より眠気が勝った。夕べは一睡もしていないのだ。その上、いい歳をして追いかけっこまで。
喉の渇きを感じ、俺は奥の給湯室にある冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを取り出すと、直に口をつけて飲んだ。酒を混ぜなくてもおいしく感じることに少々驚きつつ長椅子に戻ると、重力に押し潰されるように体が重くなり、目を開けていられなくなった。俺はのろのろと脱いだコートを体にかけて、目を瞑った。
しばらくは暗闇が見えていた。そこに奇妙な形の光の筋が現れみるみる広がっていったかと思うと、俺の事務所の中の風景が現れた。しかし、俺は目を閉じたままだ。これは、眠りに落ちる前の半覚醒状態なのだろうか、と考える余裕もあった。
ドアノブが音もなく回り、ドアが少しずつ開いていく。姿を見るまでもなく、来客が誰かわかった。あの安物の香水の匂いが鼻についた。
――ユミ
そう呼びかけようとしたが声が出なかった。いや、ユミではなく、ルミだっけか。
厚化粧でも隠し切れないくたびれた肌、と思うのは、少し前まで若いユキと行動を共にしていたからだろうか。ユミだかルミだかはドアの隙間から体を半分だけ事務所内に差し入れ、きょろきょろと様子を窺ってから、明らかにほっとした表情で、残り半分の体もドアの内側に押し込むと、後ろ手にドアを閉めた。
――三日後に来るって言ったくせに、まだ一日しか経ってないぜ。
俺はそう言ってからかってやりたかったが、やはり声が出なかった。
ユミだかルミだかは、かつかつとハイヒールの音を響かせながら、こちらへやってくると、俺の寝ている向かい側、一人用の肘掛椅子に腰かけ、両手に顔を埋めた。
「どうしたらいいのかしら」
そう言って、ユミだかルミだかはさめざめと泣いた。俺は体を動かそうともがいたが、指一本自由にならなかった。
「愛しているのに、どうしてこんなことに。私は――」
突然ドアが勢いよく開いて、人相の悪い男達がなだれ込んできた。
ユミだかルミだかは悲鳴を上げようとしたが、若い方の男の一人に口を塞がれ、抱き抱えられた。
「大人しくしないと、そのきれいな顔に傷がつくぜ。それじゃあ、商売あがったりだろう?」
親玉らしい年嵩の男が、恐怖に目を見開いた女の顔を覗き込みながら言った。
「連れていけ」という親玉の指示により、ユミだかルミだかは、男に抱き抱えられ連れ去られた。
それを見送った男は、にやけた顔で部屋の中をあちこちうろつき回り、机の上のファイルを放り出したり、デスクの引き出しを逆さにして中身をぶちまけたりした後、長椅子の前に仁王立ちした。
「女を返してほしければ、キヨコを連れて来い。場所は、キヨコが知っている。物々交換といこうじゃないか」
無抵抗な俺の顔を、男の靴がぐいぐいと踏みつけた。
事務所を出て行く時に、男はドアの前で振り返った。見覚えのある顔だった。XXXXのクリーニング店にいた目つきの悪いチンピラだ。
俺は視界が端っこから段々暗く閉じていくのを感じた。目の前が完全に真っ暗になると同時に、深い闇の底に落ちた。
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