06 ポルカ・ポルカ・ポルカ

 純喫茶歩留果のモーニング・サービスはボリュームがあり、コーヒーも平仮名のぽるかよりうまかった。といっても、ぽるかのコーヒーは泥のようなというより本物の泥の味がしたので比較にならない気がするが、とにかくまともなコーヒーが飲めただけで俺は軽い感動を覚えた。地下一階の店には朝陽が差し込まないのもありがたかった。もう徹夜などしてはいけない年齢になったことを痛感する。店内に静かに流れるクラシック音楽が眠りを誘う。俺は熱いコーヒーをブラックのまま啜った。


「ねえ、食べないの?」


 ガキに言われて、俺は自分の前のプレートを彼女の方に押しやった。サラダ、トースト、ベーコンエッグ、ゆで卵、ソーセージ、フルーツ盛り合わせ、ヨーグルト……朝っぱらからこれだけの量を胃に収められる奴がいるのか、と思いながら周囲を見回すと、ほぼ満席の客たちが、わき目もふらずにプレートと格闘していた。

これだけのボリュームが、ドリンクを頼めばついてくるサービスなのだ。そうまでしないとこの業界で生き残れないのだろうか。まったく、狂った世界だ。

無性に煙草が吸いたかったが、確かめるまでもなく、経験的にこういう店は禁煙だ。


 リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー


 ガキはさっきから口のなかの大量の食糧を咀嚼する合間に、二拍子のおかしなメロディーを口ずさんでいた。聞き覚えはなかったが、あれは数年前に大ヒットしたというポルカ・ポルカ・ポルカであろうと気付いた俺は、ガキの口を封じるために質問をすることにした。


「お前、名前は」

「ンキ」

「そんな『ン』から始まる名前があるか。お前日本人だろう」


 ガキはしばらく口をもぐもぐさせてからオレンジジュースで流しこむと、「ユキ」と言った。続けて年齢を訊いたが、これには答えなかった。上目遣いにこちらを睨みながら、わしわしとサラダを口に詰め込んでいる。リスじゃあるまいし、もう少し少量ずつ口に含めないのか。

「その服装。夜中にそんな恰好でふらふらしてると、女は若ければ若いほどいいっていう変態に襲われるぞ」XXXの大家みたいな男は悲しいことに大勢いるのだ、と俺は心の中で付け加えた。

「これ、昨日の商売用の衣装だよ。普段はセーラー服。やっぱり人気があるんだよね。さすがに体操服で夜の町は歩けないじゃん?」

「商売ってなんだ」

「パパ活」


 眉を吊り上げた俺に、ユキは早口でまくし立てる。


「体の関係はないよ。これは、五十歳の独身のおじさんのために不良の反抗期の娘を演じてる。『うるせークソジジイ』と罵ってお尻に蹴り入れるとすごい喜んで追加料金くれる」

 それはコスプレ・プレイというのではないか、と俺は暗澹たる思いで更に訊く。

「それは、一晩でいくらもらえるんだ」

「四千円。キックすると千円上乗せ」

 価格設定がおかしい、と言いかけて俺は口をつぐんだ。そもそも、未成年がそんなことを商売にしていることがおかしい。


 リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー


 ユキは俺の分の朝飯まできれいに平らげて、満足そうにまた鼻歌を口ずさみ始めた。厚化粧がすっかり崩れているが本人は気にしていない。全くのガキだ。体の発育に精神の成長が追いついていない。

「ちょっと、いやらしい目で見ないでよ」

 ユキはわざとらしくフェイクファーのコートの前をかきあわせ、露出させている胸の谷間を隠した。

「お前みたいな未成年から性的搾取をしようとする変態中年と一緒にするな。なあ、そんなはした金で身売りをするのは、割に合わないと思わないのか。スケベおやじの変態プレイにつきあわなくても、五千円ぐらいの金は一日ハンバーガー屋で働いたら稼げる額だぞ」

「足を舐めさせるのは体を売ったうちに入らないよね?」

「すぐにそれ以上の行為を要求されるようになる」

「ああ、大丈夫。いざってときのために、ちゃんと持ってるから」


 ユキはポケットの中から避妊具の包みをひとつかみ取り出してテーブルの上にぶちまけた。


「あたしだっておっさんの子なんて妊娠したくないからね。ママみたいにはなりたくないし。最悪の場合は『せめてこれをつけて』って頼めばいいんでしょ?」

 挑むような目で睨みつけてくるユキを、俺は落ち着きはらった態度で冷たく見返してやった。ゴム製品如きで動じると思うなよ。

 隣のテーブルで文庫本を読んでいた客がぎょっとしてテーブルの上にばらまかれたブツを凝視していることには気付かないふりをした。

「あのなあ、そういうときに男がちゃんとお願いを聞いてくれると思うのか。つけてくれるかもしれんが、つけてくれないかもしれん。そんな危険な賭けみたいなことは、俺ならしないな」

「男は身勝手だってママが言ってた」


 ユキは溜息をついてテーブルの上の包みをかき集めると、ポケットにしまった。一つ二つ、よく磨き上げられた床に落ちたが、俺は無視した。


「親の言う通りだったと、大抵あとになって気付くんだ。そのときにはもう手遅れだがな」

「それ、おじさんの体験談?」

「俺に親はいない」

「一人も?」

「いたとしてもせいぜい二人ぐらいだろうが、一人もいない。孤児だったからな」


 不幸な境遇というのは、案外役に立つことがある。まあ、常に一目置かれるわけではなく蔑まれる方がむしろ多いわけだが。それでも、ユキのように自身もあまり恵まれていなさそうな未熟な子供には一応効果があったようだ。神妙な顔をして椅子に座り直したユキに俺は言葉を続ける。


「そんな商売からは足を洗って学校に戻るんだな。勉強はしておいて損ってことはない。今みたいな生活を続けて二十五かそこらで結核で死ぬようなことになりたくなかったらな」

「なに結核って。いつの時代の話?」


 ユキは口を尖らせて言ったが、次の店、片仮名のポルカに行く前に崩れ放題の厚化粧を落とすことにさほど抵抗なく同意した。

しばらくしてトイレから戻って来たユキは、別人になっていた。


「ちょっと、じろじろ見ないでよ。この一重の地味な顔、好きじゃないんだから」

 顔もそうだが、服装もチェンジしていた。小さな肩掛け鞄のなかに入れていたらしい上下赤のジャージに着替えた姿は殆ど変装と言っていい。小柄なこともあり、体形を隠すだぼだぼの服装だと、中学生より更に若く、小学生にも見えた。

「これ、昼間の顔。パパ達、すれ違っても誰も気付かない」

「セーラー服の時は?」

「二重にして、カラコンとまつ毛のエクステしてる。今時、小学生だってノーメイクでは町を歩かないよ」


 会計を済ませて店を出る時、俺はもう一度ユキと座っていたテーブルの周辺に素早く視線を走らせた。彼女がトイレに行っている間に床に落ちた避妊具は全て回収したはずだったが、念のためだ。

 隣のテーブルの客が怖い顔で俺を睨んでいた。恐らく俺のことを、児童買春する変態だと思っているのだ。

 通報されなくてよかった、と胸を撫で下ろしつつ、それをユキに悟られないよう地上に出た。まだ七時半を少し過ぎたところだが、朝陽が目に染みて頭がくらくらした。

「お前、学校はいいのか?」とユキに訊くと

「今日は土曜日だよ。おじさん、大丈夫?」とバカにしたような返事が返ってきた。

 言われてみれば、道行く人々にスーツ姿はほぼいなかった。

「その片仮名のポルカは何の店だ?」

 気を取り直して訊いた俺に、ユキは呆れた顔で言う。

「ねえ、探偵って町のこと知り尽くしてるものじゃないの?」

 ここは俺のシマじゃないんでね、と心の中で呟きながら、煙草を咥え、ライターを探した。ポケットから出てきたのは青いマッチの箱。平仮名のぽるかで貰ったやつだ。俺はマッチを擦って煙草に火をつけると、携帯灰皿に放り込んだ。

「おじさんて、探偵の割に意外と真面目だよねえ?」

 探偵をなんだと思っているのか。俺の無言の抗議を後頭部で跳ね返しながら、小ばかにしたようにステップを踏み踏みユキは先を歩いていく。


 リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー


 またあのフレーズを口ずさんでいる。俺は溜息をついた。


「おい、二度とそれを口にしないなら千円上乗せだ」

ってなんのこと?」


 ユキは怪訝そうな顔をして振り向いたが、俺の答えを待たずに肩をすくめるとまた歩き出した。んんんーふふふんんんんーと、さっきと同じメロディーをハミングしながら。

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