05 手がかり

 ノボルのマンションを出てから、しばらくでたらめに歩きまわった。そして十分安全な距離を稼いだと思えたところで、深夜営業の喫茶店に入った。眠そうに重く垂れ下がった瞼をした老店主に自動的にコーヒーを注文し、水をがぶ飲みしながらコートのポケットを探った。

 まず一つ目の手がかりは、XXXの死体が握りしめていたもの。大家が登場した際、咄嗟に死体の手から抜き取り、コートのポケットにしまい込んだもの。それが一体何なのか、今までじっくり観察する暇もなかった。

 透明なガラスのテーブルの上に置くと、それはかちりと音を立てた。指輪だった。艶消しのプラチナの土台に小さなサファイアがはめ込まれている。至ってシンプルなデザインで、使い込まれた様子はない。サイズからして女物だろう。結婚指輪か。内側に文字が彫ってあった。


 From T to Y, 20XX.03.30


 日付は来月になっていた。これは、これから渡す予定の指輪なのか。道理で真新しいはずだ。しかしこんなものが俺の死体――いや、俺によく似た男の死体かもしれないが――の手に握られているというのはおかしな話だった。少なくとも、俺には結婚指輪を贈る相手などいない。ユミだかルミだかとはそんな仲ではないし、昨日あの女が依頼人となって現れるまでは、ほぼ無一文だった。宝石をあしらったプラチナの指輪なんて、俺を逆さにして振っても出てこない。

 そうすると、この指輪は被害者をナイフで一突きにした者が持っていたと考えるのが自然だろう。指輪の日付が来月であるからには、正式な結婚はまだなのだろう。来月式を挙げる予定の男による犯行か。いや、今時は大袈裟な式を挙げないカップルも多いときくが、ともかくこの指輪を贈る側か、送られる側、いずれかの可能性が高い。

 だが、と俺は目の前に置かれたカップの中の泥のようなコーヒーを見て顔をしかめながら思う。一体、どこの呑気な男、あるいは女が来月の結婚用の指輪をわざわざ持参して殺人現場に残していくというのか。全く筋が通らない。


 ひとまず指輪は置いておくことにして、二つ目の手がかりをコートのポケットから取り出した。

 それはコピー用紙よりは若干厚みのある名刺大の紙切れだった。アパートの玄関の三和土に落ちていたことから、ドアの隙間から差し込まれたものではないかと俺は推測した。靴跡がついているのは、俺自身が入室した際に、それに気付かず踏んだ可能性が大だ。だから、靴底の特徴的模様や傷から犯人を特定するという古き良き時代の探偵メソッドはこの際役に立ちそうにない。あくまでもここから何か手がかりを得ようとするならば、虫メガネではなく最新の科学技術を備えたラボの出番だろう。浮気調査専門の俺にはそのようなつてはない。

 カードを裏返してみると、鉛筆で書き殴られた、お世辞にも上手いとは言えない文字。


 わたしに会いたいなら

 ポルカって店で


 これを書いたのが誰であれ、筆圧がやたら強いことがわかる。鉛筆の跡が厚めの紙にへこみを作っている。しかも文が途中で途切れているのは、「で」の字を書いた時に芯が折れたからのようだ。二つ目の濁点は先に書かれたテンより短く、切れ端が他の部位より深く紙にめり込み、周辺に飛散した鉛筆の粉が付着していた。

 文面は女のようだが、どう考えても罠だ。しかし、すかんぴんの俺をはめて得をする人間などいるだろうか、と俺はしばらく考えてみた。まあ、いないことはない。離婚の証拠を突き止めた俺を逆恨みしていそうな輩なら二、三心当たりがあった。だからペッパー液の入った護身用具なんぞを持ち歩いているのだ。

 しかし、こんな面倒くさい手を使わなくとも、荒くれ者に金を握らせて事務所を襲撃させる方がよっぽど手軽だ。どう考えても、理屈に合わない。


 俺は溜息をついて泥のようなコーヒーを啜った。

 煙草が吸いたくなり、ジャケットのポケットを探った。テーブルの上に灰皿が置いてあるからには喫煙可なのだろう。ライターが見つからなかったので、煙草を一本咥え、眠そうな店主に火を貸してくれるように頼むと、マッチの小箱をくれた。火をつけてテーブルの上に置いたマッチ箱を見ると、懐かしい昭和風のレタリングで、『ぽるか』と印字されていた。

 俺は居住まいを正すと、周囲を見回した。今まで気づかなかったが、店の奥の暗闇に殆ど溶け込んだテーブルに、一人の客の姿があった。顔は暗くて見えないが、胸元のあいた派手なシャツの上に、フェイクファーのついたショートコートを羽織っていた。その客は俺の視線に気付いたのか、立ち上がってこちらにやって来た。この季節に短パンにサンダル履きで素足をむき出しにして、見ているこっちが寒くなる格好だ。


「やっと来てくれたのね」と女は言った。いや、どぎつい化粧をしているが、よく見れば顔立ちはまだあどけなく、せいぜい高校生、いや中学生ぐらいだった。

「別に君に会いに来たわけじゃない。ただ、飲みすぎたんで酔い覚ましにコーヒーを、と思ってね」

そう言って俺はカップの底に残っていたコーヒーを啜った。泥の味がした。

 少女は露骨に顔をしかめ「よくそんなマズいものが飲めるね」と言いながら俺の前の席に座った。

「お前、いくつだ。今何時だと思ってるんだ」

「六時半。あたし、早起きなんだ」


 気が付けば、窓の外では夜が白々と明けて、空がオレンジ色に染まっていた。


「喫茶店にモーニングを食べにくる格好じゃないな。俺に何の用だ」

 俺は両手でもてあそんでいたカードを少女の前に置いた。

「これは、お前が書いたのか」

 少女は手の中でカードを縦にしたり裏返したりして、テーブルの上に置いた。

「こんな下手な字は書かないよ。だいたい、『ポルカって店で』って片仮名で書いてあるじゃん。ここは平仮名の『ぽるか』だよ」


 俺は唸った。


「ぽるかなんて名前の店がこの界隈に二つもあるのか?」

「二つじゃない。ええと……五つ、かな。おじさん、昨日引っ越して来たばっかり? 平仮名の『ぽるか』に片仮名の『ポルカ』、漢字の『歩留果』にローマ字の『PORUKA』、英語の『POLKA』。おじさんの捜してるのは片仮名の『ポルカ』なんでしょ?」


 俺は絶望的な気持になった。このカードを書いた奴が、どの店を想定して書いたのかがわからない。片仮名の『ポルカ』で正解なのか、本当は漢字の『歩留果』なのに面倒くさくて片仮名で書いた可能性だってある。


「どうしてそんなおかしな名前をこぞって店につけたがるんだ」

「おじさん知らないの? 何年か前に『ポルカ・ポルカ・ポルカ』っていう歌が大ヒットしたんだよ。『ポルカ・ポルカ・ポルカ』っていうのはね」

「もういい!」

 俺は慌てて遮った。ポルカに悪酔いしてゲロを吐きたい気分だった。

「忘れてくれ。ポルカの線は諦める。しかお前、トリプルエックスまたはバッサンと呼ばれているバツが三つの雑居ビルを知ってるだろう? そこでお前の姿が目撃されているんだ」

「そんなの知らない」

 少女はそっぽを向いたが、すぐに好奇心に満ちた目で俺を見つめ、身を乗り出してきた。

「おじさん、探偵か何か? だったらさあ、同じ名前の店が五つ出てきたぐらいで音を上げるってどうなの? よかったら、他の四つを案内してあげるよ。その代わり、協力料をもらうけど」


 俺はぽるか巡りなど全く気が進まなかった。しかし、この少女は何か隠しているという気がしていた。雑居ビルXXXの大家が俺の部屋の前で見た女というのは、こいつだろうと踏んでいた。一緒に行動していれば、口を滑らせるかもしれない。


「お礼って、いくらほしいんだ?」

「そうねえ。お安くしとくわよ」

 少女は上目遣いに俺を見つめ、指を三本突き立てた。

「三千円でどう? 朝ごはんもおごってよね」

 随分安いな、と俺は内心胸を撫で下ろしながら思った。正直、三万円ふっかけられたら、このガキをたっぷり説教してから事務所に帰ってひと眠りするつもりだったのだが。

「わかったよ。じゃあまず、どのぽるかから始める?」

「漢字の『歩留果』にしよう。そこは純喫茶で、ここよりおいしいコーヒーが飲めるし、モーニングも豪華だよ」

 俺は溜息をついて吸いかけの煙草を灰皿に押し潰すと、上着のポケットから剥き出しで皺くちゃの札を取り出した。

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