第2話 温泉地の昼食~黒川温泉の場合
今年最後の連休ということで、思い立って黒川温泉郷まで至ったのであるが、チェックインの時間を十四時としていたため昼食は当地でとることとした。
正しくは昼から酒を飲みたい一心でそのように定めていたのであるが、そのような小さなことはどうでもよい。
仲冬の阿蘇路を抜けて至れば、あとはどこでいただくかを決めるだけである。
こうした温泉地となるとそれなりに昼食も豪華なものが並ぶことが多い。
特に阿蘇には「あか牛」という銘柄牛もあり、血のたぎるようなあか牛丼なるものが堂々と並んでいる。
思わず舌なめずりしたのだが、同時に宿の夕食を思えばあまり食べすぎるわけにもいかない。
そうなると途端に路頭に迷ってしまい、どうしようもなくスマホに手をかけようかとしていた。
とはいえ、こうした山奥で機械に頼るのはいかがなものかと思い直し、顔を上げる。
ここまで来るのに乗ってきたものは何だと言われてしまいそうであるが、開き直ってしまえば視界も開けるものだ。
ふと土産物屋に並んだ飯屋の看板が目に入った。
何とも安い。
いや、地代を考えればそうでもないのかもしれないが、先程まで目にしていた店を思えば桁が一つ違う。
それに品書きが親子丼にカレーにと肩ひじ張らないのがよい。
ただ、それだけに中が掴めず不安もある。
店構えは悪くないのだが、一人で回る時にはこうした不安が常につきものである。
一度、周りの店を確かめてから意を決する。
か細い声でよろしいでしょうか、と声をかけてから中に入った。
「あ、お履物は脱いでいただけますか」
「失礼いたしました」
注意書きを見ておらず、土足でカウンターに座ったところで指摘され、身を小さくする。
この時点で心細さは頂点に達したのだが、ビールの中瓶をやっているうちに少しずつ調子を取り戻していく。
穏やかなおかあさんがきびきびと動き回り、おそらく奥では旦那さんが調理されているのだろう。
飾り気の少ない店内に、テレビが少々目立つ。
そうした中でくつろぐうちに店の中はいっぱいとなり、やがて頼んでいた高菜飯とだご汁がやってきた。
紅生姜がいじらしい高菜飯はシンプルながら酒に合う。
隣のお兄さん方も、後ろの中国の方もどうやらめんを頼んだようである。
何の勝負かは分からないものの、負けじとこちらもだご汁をいただく。
だごと言いながらきしめんに近いが、だからこそ摘みやすく飲みやすい。
肉がなければ椎茸がある、魚がなければ里芋がある。
大人しかった高菜飯の姿も、だご汁の月光を浴びて浮かび上がる。
「このそばは何割ですか?」
「いえ、何割というのはないんですよ」
野暮はよそう。
食べ終わっての勘定は千円に少し。
満ち足りた気分で歩き出せば、危うく宿のことを忘れるところであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます