空也、会社社長と出会うこと
ウマを見送った午後、空也はバイト先でタカギに明け方の話をした。
「それはそれは。空也殿、お疲れ様でございました」
タカギはいつものように一礼をしながら労ってくれる。その態度にも段々慣れてきた。嫌味を感じないごく自然の振る舞いは、こんなにも人の心を癒してくれる。
そんなタカギの笑みを見て、空也はウマの言葉を思い出し、恐る恐る、尋ねてみた。
「タカギさん、ウマさんからも聞いたんですけど、少し悩んでいらっしゃるとか何とか」
一瞬、目を丸くしたタカギは、すぐに困ったように微笑んだ。
「ウマはおしゃべりですね。しかし、お耳に入ってしまったのなら仕方ありません。ムスヒのことです」
「やっぱり、その異変というか――元気がないんですかね?」
「ええ。私が気にかけても問題ないと答えるばかりですから、本当に私の思い違いかもしれません」
ちょうどそこで、客が一人帰り支度を始めた。タカギはレジカウンターで応対を済ませると、誰もいなくなった店内を見つめて、小さく息をついた。やはり思い悩んでいるのは間違いないようだ。空也はテーブルを拭きながら、謎多き三番目の神の風貌を思い出した。浮かんでくるのは長いまつ毛と黒い瞳、細い指。
「あの神さまは、いつもノートパソコン使ってますけど、何をしているんでしょうかね」
「ムスヒはフリーライターなのですよ」
「うえっ?」
空也は棒立ちになった。
「そんなことしているんですか?」
「ええ、でも生活費を稼ぐというよりは、気ままに人間観察をしているようです。それが評判みたいで、書き下ろしのような記事も書いているとか。詳しくはあまり教えてくれないのです。照れ屋なんでしょうね」
確かに人間観察なら神さまの右に出るものはいないと言って良い。しかも、何千年と見つめ続けてきているのだ。キャリアが違う。
それならば、ムスヒの調子が悪い理由も、アイデアに行き詰ったとか、出版先と仲が悪いとか、そういうことが原因かもしれない。空也は持論を展開すると、タカギが大きくうなずいた。
「私もそんな予感はしておりました。人間たちと関わることが多いムスヒには、我らと違った心理的負担があるように思えるのです。ムスヒは主殿のようにおおっぴらではないので、内にためこんでいるかもしれません。せめて仕事先の様子がわかれば良いのですが」
そこまで言うと、タカギは何か思いついたような顔をした。しかし、すぐに首を横に振り、たいそう苦しそうに空也を見つめた。
直感が働く。
「あの、様子を見に行きますよ。オレで良ければ」
「誠ですか、それは」
タカギの態度自体は謙虚であるのに、やはり神さま特有の強い押しが感じられた。それでも願いを聞いてやりたいと素直に思える魅力がタカギにはある。それに、タカギの心を縛るのは、案外ミナカやムスヒだったりするのかもしれない。高天の原のトップである高皇産霊神に対して同等な物言いをするのはあの二柱だけなのだ。近い存在だからこその悩みもあるのではないか。
――けど、それだったら天界にいた時から悩むだろうし、別に人界は関係ないのか。
空也の心の自問自答をよそに、タカギは壁の時計を見上げた。
「今日は五時から、ここからも近いビアガーデンで取材と言っていました。ふふ、ムスヒはお酒が大好きなんですよ。最近はビールが気に入ってるようで、夜になればこの店にも飲みに来るほどです」
それはまた意外性に富んだ情報だった。あのポーカーフェイスが酔っ払って崩れる時があるのだろうか。もしかしたら、顔を赤らめた女の子のようになってくれるかもしれない。空也は新鮮な気持ちと淡い期待を抱きつつ、バイトの業務に戻った。そして、日が暮れ始めた頃、教えられたビアガーデンに向かうことにした。
西日に照らされた駅前は人でごった返し、観光客のような姿もちらほら見える。この様子では、ビアガーデンも混雑しているだろう。
「あ、オレ未成年だった」
普通の店とどう違うのだろうか、入場規制や身分証確認などはあるのだろうかなどと考えているうちに、目的の場所に着いてしまった。厳しい残暑(元気になった天照のせい)のために営業期間を延長したビアガーデンは、ビルの屋上に構えられていた。オープンテラスのテーブルはすでに多くの客で賑わい、時折、乾杯の歓声も聞こえてくる。この雰囲気、仕事で使うには騒がし過ぎると空也は感じた。入り口の前で適当にスマートホンに触りながら様子を伺っていた時、背後から人の気配がした。
そこには、長身のビジネスマンが立っていた。誰かと待ち合わせらしく、腕時計を気にしている。仕立ての良いスーツを着ており、見るからに仕事が出来そうな印象だった。四十前後の年齢だろうか、将来の空也自身を想像してもこうはならなかった。
空也が相変わらず入り口の前を行ったり来たりとしていると、背後にいたビジネスマンが、やあ、と声を上げた。
「こんにちは」
その声に、思わず振り返った。
薄手のシャツとスラックスという姿で、ムスヒが店の前に現れた。シャツから浮き出る線は細く、相変わらず性別不詳だ。空也は隠れることも出来ず、結局、真正面からムスヒを迎えることになった。
長いまつ毛の瞳が空也を捉えた。
「――」
「こ、こんにちはッス」
自分でもあり得ないと思いながら、普通に挨拶をする。しかし、ムスヒは何の感情も浮かべない顔で応えた。
「どうしたの?誰かと待ち合わせ?」
「あ、はい。そうなんスけど、考えてみればオレ未成年なんで……さっき断ったんスけど、やっぱりどうしようかなって」
適当な嘘でごまかしたものの、ムスヒ相手にどこまで押し通せるだろうか。空也は背中に大量の汗をかき始めた。
その様子を見ていたビジネスマンが吹き出して笑った。
「
「ええ、まあ。そう、かな」
ムスヒの歯切れが悪くなるのも仕方がない。たいして親しいわけではないのだから。
「そういや、君の顔はどこかで見た気がするなあ。宮前公園で大道芸している人?」
男の言葉に空也は驚きを隠せなかった。
「え、見に来てくれたんですか?」
「うん、牟翠さんと一緒に。たまたま通りかかったんだけど、知り合いだったとはね」
さらに空也は狼狽した。まさか、ムスヒが見に来ていたとは知らなかった。ウマが聞いたら歓喜するのだろうか。しかし、当の無性の神は小さくうなずくだけで、パフォーマンスに対して特に感想を持ったようには見えなかった。
ビジネスマンが笑顔で空也に名刺を差し出した。
「初めまして。寺戸です」
アルファベットの会社名が記載されている。住所は日本橋の近くだ。そして代表表取締役という文字に空也は釘付けになった。
「社長さんなんスか?」
「小さいコンサルタント会社だよ。営業も総務も掃除も一人でやっている」
こんな立派な人物相手に必要かどうかわからなかったが、念のため空也も自己紹介をすることにした。
「え?後輩じゃないか」
寺戸以上に空也が驚いた。まさか同じ大学の出身者だとは思わなかった。嬉しそうな寺戸の隣で、いつもは無表情なムスヒも意外そうな顔をした(それだけ衝撃だったらしい)。
妙に居心地が悪い。
「空也くんは初々しいね。まだ大学に入ったばかりかな」
「はあ。まだ一年なので入ったばかりッスね」
怪しい受け答えにも、寺戸は気にすることなくうなずいてくれた。何から何まで、手の届かない人に思えた。
「変わったアクセサリーを身につけてるけど、最近はそういうのが流行なの?」
寺戸が小石を指さした。
「いや、これは、お守りッス」
「若いのに信心深いなあ。おれも昔からお守りは持ってるよ。しかも来年は厄年だからね」
この手の話をムスヒの前で続けるのが妙に気が引けた。気まず過ぎて、無性の神の顔すら見ることが出来ない。
「よければ、君も社会勉強のつもりで一緒にどう?」
「へ?」
「え?」
空也とムスヒがほぼ同時に声を上げた。
「牟翠さんとは最近ここで知り合ってね。色々な観点の話が聞けて楽しい。やはり物書きを仕事にしている人は言葉一つとっても何か違うよね。おれがそう思い込んでいるだけかもしれないけど。だから、君も話を聞くだけで良い勉強になると思うよ。そうだ、専攻は何かな?」
何だかわからないが、とにかくこの誘いに乗るのは危険だと身体中から警報が鳴った。三人でテーブルを囲んでも、結局は空也を置き去りにして熱い討論が展開されるに決まっている。そうなった時の居心地の悪さは、ホテル街の比ではない。逃げ場がないのだから。
「せっかくなんスけど、オレ、大学のレポートが……」
「え?さっきは誰かと待ち合わせとか言ってなかった?その友達も交えていいよ。学生さんの話も聞きたいしね」
「あは、でもマジ未成年なんで、参ったなあ」
「ソフトドリンクもあるから」
窮地に追い込まれそうになった時、ムスヒが空也の肩に触れた。
「君は社会勉強より先にすることがあるだろう。レポート提出は大事だよ」
そう言うと、ムスヒはさっさと店内に入っていってしまった。苦笑した寺戸も片手を上げて後に続く。一応、助け舟だったのだろうか。あの口調、完全に呆れていた。
ムスヒが仕事に行き詰っているわけがなかった。あのグレードの高い会社社長が絶賛していたではないか。タカギからは取材だと聞いていたが、寺戸が空也を誘うあたり、単純に飲みに来たようにも思える。
いずれにしても、問題はなさそうだと空也は判断した。
その日の晩、空也はタカギに調査報告をした。話を一通り聞いてタカギも少し安心したようだ。しかし、未だに天の浮き橋の場所が見つからない以上、空也は残りの造化三神とも心のやりとりをしなくてはならない。何となく順番からして次はムスヒだが、はっきりいって自信はなかった。何かの拍子に大空に橋が架かることはないだろうか、そんなことばかり考えてしまう。
軽やかなドアベルと、鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
「おかえりなさい」
エプロンを外した老紳士がドア口に向かう。同時に店の中にミナカを運び入れるトコタチの姿があった。
「楽しんでこられましたか?今、お茶をいれましょう」
「結局、今宵も主殿は酔いつぶれてしまった」
店の時計は夜の十時を回っていた。タカギはずっと二柱の帰りを待っていたようだ。
「主殿、慣れないものを口にするときは注意するように申しましたでしょうに」
椅子を並べて、女の姿のミナカを横にする。ハーフパンツからのぞく足がだらしなく開かれて、それはそれで空也には刺激的だった。思わず目をそらす。
トコタチがカウンター席で出された茶をすすると、タカギに目をやった。
「タカギ殿、すまぬ。少し羽目をはずし過ぎたようだ」
「貴方が気にすることはありません。しかし、だいぶ飲んだようですね」
「俺が目を離した隙に、主殿は人間の男どもに絡まれたのだ。気づいたときには一人ずつ小指で投げ飛ばしていた」
タカギはさほど気にする様子はなく、コーヒーを沸かし始めた。トコタチが、さらに口を開こうとした時、タカギは片目を細めてそれを制した。
「最近は、ことの情報が一瞬で伝搬する社会となっているようです。目立った行動は控えた方が良いでしょう。主殿には私から言い聞かせます。次は気をつけてあげてくださいね」
美麗な男が口を引き結び、素直に頭を下げたので、空也はその意外な動作に見入ってしまった。トコタチは空也を思いっきり睨んだ後、小さくため息をついてテーブルに突っ伏した。叱られた後の中学生みたいだ。
空也はあらためてタカギの偉大さを思い知った。やはり、天界を治める神は存在感が違うのだ。
その時、入り口のドアがゆっくりと開き、ムスヒが店に入ってきた。
タカギが優しく声をかける。
「ああ、ムスヒ。取材は終えたのですね?お疲れ様です」
「うん……それより主殿はどうしたの?」
ムスヒはミナカの姿を見て、眉をひそめる。その声に、ミナカがうっすらと目を開けた。
「ムスヒがおるのか?助けてたもれ」
「だいぶ酒が入ってるね。しかも女になっているし」
「トコタチに女になる方法を教わって練習したのじゃ。遊びに出かけたら、いつの間にか寝てたのじゃ」
れんしゅう、とつぶやくとムスヒは鞄をカウンターの椅子に置き、ミナカのそばに座った。ミナカの喉から胸にかけてゆっくりと細い指を這わせると、その軌跡がほのかに光る。ムスヒは紙ナプキンを広げ、その上に右手をかざした。手の平から無数の穀物がナプキンの上に落ちていく様子に空也は目を見張った。
「ああ、良い心地じゃ」
しばらくすると、ミナカは伸びをして、起き上がった。
「だ、大丈夫ですか?ミナカさん」
「おお空也、安心せい。このムスヒが全部取り除いてくれたわ」
「すげえ……」
驚嘆する空也をよそに、ムスヒはタカギにビールを頼んだ。にわかにビアガーデンでの張り込みを思い出し、空也はムスヒの顔をうかがった。
「お疲れ様ッス。あの、さっきはお邪魔して申し訳なかったです……」
「いや」
一言だけ答えると、ムスヒは無表情でビールを飲み始めた。さっきまでムスヒも酒を飲んでいたはずなのに、ミナカと違って赤みどころか何の変化もない。相当の酒豪なのか。それにしても、空也があそこにいた理由を聞こうともしないのは、張り込みがばれていたのか、最初から興味がないのかどちらだろう。少し残念な気持ちになった。
「しかし、ムスヒは仕事が好きじゃな。まるで人間のようじゃ」
「そう、かな」
首をかしげたムスヒは、ミナカとトコタチを見つめる。
「どこか出かけたの?」
「色町だ。前回はその人間も女の裸が見たいというから連れて行ってやった」
トコタチの適当な説明に、空也は必死に付け足しをした。
「あれは、ウマさんからもらった舞台のチケットが、ウズメさんとかいう神さまのショーだったんです!ムスヒさん、誤解しないでくださいね」
「そうそう、あの晩は空也は女体を見て泡を吹き、女子たちを抱っこする店では、胸が小さい女子が泣いておるので、ワシが代わりに胸をさらけ出したらトコタチも雨雲を出したのじゃ」
全て事実に違いないが、かいつまみ過ぎである。しかし、ムスヒは理解したのか、ふうんとつぶやくと、タカギにビールのおかわりを頼んだ。
トコタチが空也に向かって意地悪く笑った。
「人間、何だかんだお前も女と触れ合って、結果的には親睦を深めたではないか。まあ俺のおかげだが」
「違うだろっ!オレのおかげでトコタチも美穂子さんに甘えてもらえた……ぎゃあっ!」
足下に小さな雷が落ちた。こんな乱暴な神さま見たことない。タカギが労わるような眼差しを空也に向けてきた。
「あの晩の空也殿はずいぶんと奮闘されたのですね。人間の男性は常に身体を張って大変だと思います」
「タカギさん、ちょっと違うッス……」
笑い声が起きる中、ムスヒだけが無言でビールを飲んでいた。
「そうじゃ、ムスヒも仕事ばかりしとらんで、たまには遊んだら良いぞ。今度は皆で出かけようぞ」
少し沈黙が生まれた後、ムスヒが口を開いた。
「そうだね。考えておく」
空也はムスヒが風俗街にいる状況を想像して、首を振った。
「何か、イヤですね。ムスヒさんはセクキャバより美術館とかプラネタリウムとかに行って欲しいッス。それならオレもお供します」
「人間、お前が決めるな。ムスヒにも人肌の心地よさを知る権利はある」
「ワシももっと知りたいぞ」
ミナカが空也の身体にしがみついてきた。
「どわっ」
「のう、トコタチ、考えてみれば空也の身体を使うのが手っ取り早いのではないのか?」
「主殿がそれで良いなら、俺は止めぬ」
「いけません。空也殿が困っているじゃありませんか」
タカギが仲裁に入るそばで、当のムスヒは澄ました顔でグラスについた雫に触れた。
そして、深くため息をついた。
「――?」
空也は胸の中にわだかまりを覚えた。
酒豪だと思ったムスヒの目が、少しだけ赤いような気がしたのだ。
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