空也、ウマと別れること
明け方、窓を叩く音がした。
そっとカーテンを開けると、柔らかい朝日の中、ベランダにウマが座り込んでいた。
「お、おはようございます……」
「空也。一昨日は助かったのだ。礼を言いに来た」
小さい神は手をついて空也に頭を下げた。
「うあっ、やめてください。神さまがそんなことをしたらダメですよ」
「そういうものなのか。しかし、自然と出た所作なのだ」
ウマは空也の顔を見上げたが、すぐさま再び下を向いた。
「空也がタカギ殿に話したのだろう?あれから目が覚めた時、突然タカギ殿がパンケーキを振舞ってくださったのだ。主殿に半分ほど食べられたが」
大変、美味しかったと少し涙声でウマはつぶやいた。
「さらに、隆春のために卵を使わないケーキを作ってくださった。我の縛りを消してくれた礼だと仰せられた」
空也も心が温かくなるのを感じた。
「それは良かったッス。オレも捻挫した甲斐がありました」
「足はもう良いのか?」
「大したことなかったです。もう普通に歩けますし」
ウマは姿勢を正し、真っ直ぐに空也を見つめた。
「空也よ、最後の頼みに来たのだ」
「それは良いッスけど……いつも朝早くなんですね」
「この海が見える場所まで案内しておくれ」
ウマは地図を広げた。それはかなり古く、かつ、かなり広域の日本地図だった。右上に〝大八島〟と書かれている。最近もどこかで見た気がする。
「あなた方は一五〇年もここにいるのに、最新の地図は持ってないんですか……せめてもう少し詳細がわかると助かるッス。海といっても、この国は島国なんスから、どっちに行けばいいのやら」
「だから、そなたに頼みに来たのだ。ここから一番近いところで良い」
急かされながら、空也は着替えを済ませてアパートを出た。ウマは二階のベランダから飛び降り、音もなく着地した。
「そういえば、八咫烏はどうしたんスか?」
「タカギ殿にお返しした。実はタカギ殿の命で我は西国をまわることになったのだ。八咫烏がまた迷子になって怪我でもしたら大変だからな」
「え、地方巡業ですか?」
「そうなのだ」
この神の縛りは消えたのだから、いつまでも大道芸を続ける必要はないように思えたが、やはり何か責任を感じているのだろうか。
それとなくウマに聞いてみると、
「もとより我は人間の笑みが好きなのだ。拍手の音も心地よいな」
と、手を打ってみせた。
最寄り駅から湘南の海岸に向かう電車が走っているのでそれを使うことにした。ホームには人がほとんどいない。考えてみれば今日は日曜日だった。ウマの見た目が子供のせいか、はしゃいで賑やかな道中になると思っていたが、この神は意外にもおとなしく窓の外を眺めているだけだった。しかし、その瞳が楽しそうに景色を追っているのを見て、空也は今回の案内役を引き受けて良かったと感じた。
「美しいな。葦原の中つ国は」
ウマがポツリとつぶやいた。
「でも、ここはビルばかりですよ?自然破壊も進んでいるし」
「それも人間が望んだことだ。国づくりに勤しむ姿は我も太古から見てきた。その時その時の最良を選んでいる姿は美しいと思うのだ」
「そうかもしれないッスけど、神さまがそんなこと言うなんて意外ッス」
「この長い月日でも、社は残ったままではないか。その気持ちが我は嬉しいのだ」
目的の駅に到着した。ホームに降りると潮の香りを風が運んでくる。
「おお、海なのだ」
歩いて数分後、波の音が聞こえてくると、自然と足取りも軽くなる。遊泳禁止の海には、早朝の散歩をする人以外は誰もいない。朝日に輝く静かな砂浜が延々と続く。空也がこの静かな海岸を選んだのは、人目を避けるためでもあったが、しばらくの別れをするためにふさわしいと思ったからだった。
波打ち際までやってくると、ウマはこちらを振り返って言った。
「そうだ、タカギ殿が少し悩んでおられた」
「タカギさんが?」
うなずいたウマが難しい顔をしてみせる。
「最近、ムスヒ殿の元気がないようなことを言っておられたのだ。我にはそうは思えぬのだが、造化三神殿の間には特別な想いや繋がりがあるのやもしれぬ。主殿はあのような御方なので、タカギ殿の心の負担が増えないか心配なのだ。空也、そなたも力になって差し上げるのだぞ」
ムスヒの元気の有無は、おそらく空也でも判断はできないだろう。生死をさまよう隆春の命を救ってくれたのだから、悪い神さまではないはずだ。しかし、やはり他の別天神に比べると、表情が少ないせいか、一番近づきにくい存在ではある。ある意味、トコタチより難しい神さまなのかもしれない。とはいえ、自分が少しでも力になれるなら断る理由はない。
空也が承諾すると、安堵の表情を浮かべた小さな神は、封筒を手渡してきた。
「え?お駄賃ならいらないッスよ」
「駄賃ではない。我からの礼なのだ」
封筒の中から不思議な音がする。よく見ると、わずかに袋が盛り上がっていた。
「……何が入ってるんでしょうか」
「もしもの時に空也を守るよう力を授けておいた。ああ、今は開けぬ方が良いのだ」
「開けたらマズイものが入ってるってことですね……」
早くウマが帰還して、これを返す日が来ることを切に願いつつ、空也は袋の封をさらに折り返してバッグの中へ入れた。
ウマが胸元から小さな亀を取り出した。
「はは、まさかこれに乗って行くとか?オレ、そういう昔話を知ってますよ」
「違うのだ。これは、我の芸を手伝ってくれた仲間ぞ。故郷に帰してやるだけなのだ」
波にさらしてやると亀は元気よく泳いでいった。一体どういう演目に登場したのだろう。
ウマはそれを見送り、今度は右手で印を切った。
しばらくすると、水平線からこちらに向かって何かがやってくるのが見えた。
「しばしの別れってやつですね。元気な弟がいなくなるみたいで何か寂しいッス」
すると、ウマが不思議そうな顔をした。
「空也、我の身体は女のものなのだ。それを言うなら妹だと思うのだ」
「はい?」
ウマが頭巾を外すと、黒く長い髪の毛がサラサラとこぼれ落ちた。
確かに、女の子だった。
唖然とする空也をよそに、ウマが勢いよく海に飛び込む。
「空也、恩に着るぞっ!」
海の向こうからやって来たのは巨大な飛び魚だった。ウマを背中に乗せると、水しぶきを跳ね上げ空中で一回転してみせた。
そして、まるでジェットスキーのように飛び去ると、小さな神の姿はあっという間に見えなくなった。
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