空也、トコタチの縛りを解くこと

 空也は大学の講義を受けながらノートの隅に家系図を書いていた。


 美穂子の家族と、隆春の家族。


 それぞれが合わさって出来た血縁のない関係。家族というもっとも強固な結びつきのはずが、隆春にとっては一番もろく、手にしがたいものだった。その一方で、差し伸べられる手を拒み、自ら望むように孤立していく少年。ウマも色々と考えているようだったが、結論に至ることがないまま日が過ぎていった。


 なぜなら、あれ以来、隆春は面会謝絶となってしまったのだ。

 このままでは、ウマとトコタチが抱えるものも解決できない。結局、自分は何一つ力になれていないのだ。


 窓の外に目をやると、向かいの講堂の脇を猫が歩いていた。最近、近所で飼われているものが紛れ込むという話を聞くが、どうやらそれらしい。毛並みは美しく、珍しい赤茶色の猫だ。数人の女子学生が楽しそうに後を追う。それから逃れるように猫がこちらの校舎の近くに寄ってきた。

「行くぞ、バカ人間」

 空気が振動し、耳をくすぐる。その感触に空也は思わず立ち上がった。周りの学生が怪訝な顔をする。

 窓の外で猫が空也を睨みつけていた。

「ト、コタチか?」

 猫は答えず、そのまま踵を返した。一陣の風が吹き、砂埃が舞い上がると、猫の姿は見えなくなっていた。空也は慌てて教室を飛び出し後を追った。

 正門の横で、トコタチが座っていた。髪の毛を後ろに束ね、ロングニットを着込んだ美麗な男の姿に、女子学生がチラチラと目線を送る。空也が一生体験しそうにない光景だ。

「あの女とストーカーだが」

 トコタチの切り出した言葉に、空也は緊張する。

「今朝、二人そろって退院した」

「え、早くないか?」

「存外、軽傷だったようだ。ただ、ストーカーの方は精神的な傷が深い。まあ、自業自得だな」

 確かに、ストーカー男は自分の腹を刺してしまうほど錯乱していた。とはいえ、その原因はトコタチなのだが。

 ため息をついてトコタチがゆっくりと立ち上がる。長い髪が一房、肩から滑り落ちた。

「行くぞ。女に会う」

「え、どうやって追跡するんだ?住んでいる場所もわからないのに」

 空也の言葉に、トコタチは小馬鹿にしたように目を細めた。

「何のためにお前を迎えに来たと思っているのだ。あの女の連絡先を受け取っただろう」


 ――親しみ感じちゃう。

 ――メル友にしたいくらい。


 空也は風俗店で美穂子からスマートホン番号を渡されたことを思い出した。手帳に挟んだメモ書きを取り出すと、可愛らしい文字で番号が綴られている。一瞬、あの薄暗い店内が脳裏をかすめた。

「えっと、オレが連絡するのかな」

「何を躊躇う」

「女の子に電話したことないんだけど」

「お前の経験値などどうでも良い。こうしている間にも、またストーカー男が乱心しているかもしれぬぞ」

 空也は意を決して番号を呼び出した。数回のコール音が続く。このまま留守番電話になって欲しいと願った矢先、相手の息づかいが耳に届いた。

「はい、もしもし」

 少し鼻にかかった声。紛れもなく美穂子のものだ。

「あ、う、えーと」

 もしかしたら、覚えていないかも知れない。あんな惨事に見舞われたのだから。

「オレです。あの、一週間くらい前に店で……仲間が騒ぎを起こして水浸しになって」

 しばらく沈黙が続いた後、相手の反応が明らかに変わった。

「あの時のお兄さん?えっと、確か八嶋さん?」

「はい、そうです」

「もしかして、ニュース見た?それで電話くれたの?」

 返答に困っていると、小さく笑う声がした。それが少し自嘲気味だったせいか、空也は必死になって言葉を続けた。

「まさかと思って連絡しました。店から近い場所だったし。でも、無事で良かったッス」

「ありがとう。でも、身体に傷が付いちゃったから、しばらく働けないんだ」

 それが何を意味するかは、今の空也には痛いほど伝わった。

「あの、お話したいことが」

「うん?」

「実は――オレ、弟さんと会ってるんです。水森総合病院で偶然なんですけど」

 息を吸う音だけが聞こえる。そのまま電話が切られるのではないかと不安になるほどの沈黙があった。

「弟、隆春と会って何を話したの?」

 声に険があった。怯えているようにも感じる。空也はなるべく刺激しないように言葉を選ぼうとすると、

「お兄さん、今から会えない?」

 意外な申し出が右耳に届いた。

「へ?」

「隆春に会ったことが本当なら、色々と聞きたいの」

 戸惑いつつも、トコタチの指示を仰ごうとするとすでに美麗な神の姿はなかった。

 イヤな予感がする。


 ――全部オレに押しつけやがった。


 電話の向こうでは美穂子が返答を待っている。ここで逃げたら、何もわからないまま一人で悩むに決まっているのだ。空也は心を決めた。

「わかりました」

 何が起きてもいいように、待ち合わせ場所をタカギの店に指定して、電話を切った。あらかじめタカギには知らせた方が良いだろう。もしかしたらトコタチも再び姿を見せるかもしれない。

 空也が駅に向かう道へ急いで引き返そうとすると、横断歩道を渡ってきた通行人とぶつかりそうになった。

「あ、すみません」

 謝ったものの、相手の顔を見て血の気が引くのがわかった。


 無言で空也を見つめるのは――あのストーカー男だった。

 ――どうして、こんな所に――。

 瞬時にあの時間の恐怖がよみがえる。空也の口から悲鳴が漏れそうになった時、


「ほれ、その人間もおぬしの本性を知っておるぞ。さあ、どうする。許してもらうのか?」


 のどかな声とともに、男の背後から人懐っこい笑みがのぞいた。

「み、ミナカさん?」

 空也が声を上げると、ストーカー男が突然膝を折り曲げ空也の前に伏した。

「すみませんでした。許してくださいっ」

 泣きながら謝るストーカー男を前に空也は唖然とした。ことの状況についていけない。往来の人々が奇異な目で空也を見つめる。

「あの……ミナカさん、説明を頼みます」

「この下手人はもう人間を傷つけることはせぬ。本能が蘇ったようじゃからな」

「本能?」

「死への恐怖、ぞ」

 ストーカー男は突然立ち上がり、フラフラと歩いていってしまった。

「その代わり、他の記憶や感情があやふやじゃ。トコタチは荒療治をしたのう。下手人はひたすら死に怯える単純な生涯を送ることになった」

 ミナカがあまりに淡々と言葉を並べたせいで、その内容がとんでもないことだと気づくのに時間がかかった。

「……何で、そんなことを。ばちってヤツですか」

「ふむふむ、人間はすぐに罰を当てたがる。結果的に、周囲の人間はあの者に怯えなくて済むのじゃぞ」

「そうだとしても、記憶や感情まで奪うなんて」

 空也はそこまで言うと、うつむいた。ミナカが不思議そうにのぞきこむ。

「どうした、空也。怒っているのか?」

「だってあんなに怯えてるんですよ?もちろん、アイツのやったことは許されることではないです。けど、生まれた瞬間から、人を傷つけることを目的としていたわけじゃないでしょう?仮にそういう攻撃的で反社会的な遺伝子を持っていたとして、それを放置して救わなかった周囲に責任はないんですか?」

「やはり空也はそういう考えになるのじゃな。ならば、おぬしが代わりに刺されてやれば良かったのじゃ。わはは」

 ミナカの言葉は重たかった。空也の考えは美穂子が無事だったからこそ言えたことであり、自分の身内が被害者になれば、怒り狂っていただろう。


 結局は偽善なのか。


「どうせ、オレはガキで考え方が青いですよ。神さまには理解できないでしょうけど」

「案ずるな。少なくとも下手人がを必要とする間は、最後まで面倒を見るわい。時々はタカギにもやらせようとは思うが」


 ――。


 空也はミナカの真意を読み切れずにいた。しかし、その笑みは無条件にあらゆる存在を受け入れるかのように思えた。

「空也は約束があるのじゃろう?トコタチがそんなようなことを言っておった」

「え、いつの間に会ったんですか?」

 ミナカはただ笑うだけで、手をヒラヒラさせながらその場を立ち去ろうとした。

「待って下さいよっ。だいたい、ミナカさんが何でストーカー男を知ってるんですか?あの晩は泥酔して寝てたはずでしょう?しかも先に帰ってるしっ」

「うむ、そうじゃった」

「あの場に残っていたとか?だったら助けてくれたって良いじゃないッスか?」

「うむ、そうじゃな」

 さらに空也が声を上げようとしたとき、突然、眼前にインコが舞い降りてきた。

「こんにちは、空也殿」

 ジュワキは穏やかなタカギの声を発した。

「お客人がいらっしゃっています。まだ、お見えになりませんか?」

 戸惑うような声色に、申し訳ない気分になった。タカギに到着時間を伝え、その場を駆け出す。後ろからミナカが空也の背中を軽く押した。



 快いドアベルの音と共に、テーブル席の美穂子が振り向いた。

 昼間の光の中で見る彼女は少し幼く感じた。まるで、初対面のような緊張感が場を包む。

「待たせてしまってごめんなさい。八嶋空也です」

 どう挨拶したら良いのかわからない。とりあえず、今一度名前を伝えてみた。

「こちらこそ、急にごめんなさい」

 礼儀正しく頭を下げる彼女が、夜の仕事をしているようにはとても想像できなかった。もちろん、それが勝手な先入観だとはわかっていたが。

 空也が席に落ち着くのを見計らって、タカギがコーヒーを持ってきた。今回のことをどこまで知っているのだろう。気になって老紳士に目を向けたが、それに反応することなくカウンターの中へ戻っていってしまった。

「あの、八嶋さん。弟は元気にしていたかしら?」

 美穂子は苦しそうに顔を上げた。何よりそれが一番の心配事だというのがありありと伝わる。

「そうですね。補助とかなくても歩けるみたいだし」

「どこまで話をしたの?私のことは何か言ってた?ニュースは見たのかしら」

 たたみかけるような質問に、空也は閉口する。それに気づいた美穂子は小さく謝ると、下を向いてしまった。

 空也は深呼吸をして美穂子を見つめる。

「弟さんは、あの事件のことを知っていました。その、昔のことも話してくれて……それで、もう入院費は無理させたくないと――美穂子さんには自由に生きて欲しいと」

 そこまで言ったところで美穂子の肩が震えていることに気づいた。次第に重くなる空気にひたすら耐える。

「そっか。私、本当に役立たずだ」

 美穂子は顔を覆った。その両手に力が込められ、柔らかい前髪が乱れていく。

「あの子、私だけが頼りだったのに。私の、私のせいで全部」

「美穂子さん」

「私、本当はあの家族で上手くやっていきたかった。でも、私の両親が元々は風俗嬢と客同士の関係だったことを知って、新しい母さんは徹底的に私を嫌ったんだ。そのせいで、精神的におかしくなって親父とも上手くいかなくなったの。十七歳の時に私は何もかもイヤで家出したんだ。おかしくなった母さんの元で、隆春を一人にしちゃった。血が繋がっている隆春は母さんから一生逃げられないのに。あの子、うちの親父からも殴られて病気になって。逃げた私を怨んで当然だと思っていたのに、電話で私に――姉ちゃん助けてって」

 弱々しい嗚咽が店の中を満たしていく。それと同時に空也は己の無力感に押し潰されそうになった。

「お金のためなら何でもした。何人もの男の人を騙したわ。ごめんね、八嶋さんに番号を渡したのも本当はカモにするつもりだったんだ」

 だから罰が当たった、美穂子はわき腹をさすった。

「罰とか、思わない方が良いですよ」

 空也は連絡先をくれた美穂子の真意を知ってわずかに動揺したが、今は問題ではない。

 これからを考えなくては。

「だって、その痛い思いをしたおかげで、美穂子さんは何かに気づいたわけでしょう?変な話、オレが弟さんと会うキッカケにもなって、彼の本心だって知ることができたんです」

 そうだ。

 姉と弟が再び家族として暮らせるチャンスだ。ただの願望であれ、空也はそう思いこむことに決めた。

「弟さんに会って下さい。彼は、今すごく自分を責めています。治療にも後ろ向きで、下手したら」

 テーブルに置いてあった美穂子のスマートホンが、けたたましい音を鳴らした。その大きさにタカギも顔を上げる。

「病院、だ」

 美穂子は震える声で相手を確認する。

「はい、野崎です」

 秒を追うごとに、美穂子の眉が寄せられ、顔が歪み、息づかいが荒くなる。

「そんな、急にどういうことですかっ!」

 悲痛な叫びに空也は戦慄した。

「容態が悪化って……治る病気だって言ったじゃないですか!」

 隆春が危篤?

「今、行きます」

 最後はもう声になっていなかった。スマートホンを叩きつけ、美穂子はテーブルに突っ伏した。

「美穂子さん」

「タカが死んじゃうよ。入院していれば治るって、あの医者に言われたから頑張ってきたのに。難治性ってどういうこと?最初から助からない病気だったなんて、そんなの信じられる?あんなにお金を渡したのに……。アイツも、どうして薬を飲まないんだよ!」


 空也は口を覆った。

 隆春も医師も美穂子に難病だと伝えていなかったのだ。

 しかも、美穂子は医師に金を回してまで弟を助けようとしていたらしい。

 隆春は姉が医師に裏金を渡していたことを知ったのか?それで、覚悟の上で薬や治療を拒否して――。


「オレも一緒に行きます。美穂子さん、立てますか」

 空也の手を借りて立ち上がった美穂子は、すぐに床にへたり込んでしまった。何かに怯えたような顔つき。それこそ、あのストーカー男と同じだった。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう。あの子、きっとすごく苦しんでいるんだ」

 美穂子はまるでうなされるように言葉を繰り出す。空也のことなど存在していないかのように視線をさまよわせ、柔らかい髪の毛をかきむしりながら絶叫した。

「どうしたら助かる?私、何をすればいい?何でもするから助けてよ!」

 その両目から涙があふれ出る。

「お願い、神さま……タカだけは……」

 消えそうなつぶやき。空也はかろうじて聞き取った。


 その時だった。


 突然、店中の窓が一斉に開き、風が吹き込んできた。そのあまりの強さに思わず目をつぶる。テーブルやイスが激しく音を立てた。


 現れた美麗な神がゆっくりと美穂子の前にかがんだ。


「誰……トッコちゃん……?」

 美穂子は鼻を垂らしながらトコタチを見上げた。

「どうしよう。弟が死んじゃうよ。私の大事な家族が」

「お前、今なんと言った?」

「え?」

「神に祈ったのか――そんなものはおらぬと、一族のお前が」

 風が舞い上がり、食器棚や窓枠が音を立てる。美穂子はトコタチの言葉を聞き返そうと顔を寄せた時、美少女姿のトコタチはそのまま美穂子を抱きしめた。

「他者の命、それがお前の願いか。人間は己のために願掛けをするのだろうに」

 トコタチの言葉に美穂子は首を横に振った。

「難しいことはわかんないよ。ただ、私はどうなったっていいもの。タカが助かるなら」

「もう助からぬと言われたのか」

「昏睡状態だって。目を開けるかわからないって」

「それで、お前は看取るつもりなのか」

「いやだよ。もう二度と、あんなのはイヤなの」

「そうだ――お前の母親も」

「私のせいで死んじゃったんだ。苦労してきた母さんは、ご先祖様が悪さした罰が当たったんだって毎日言ってたんだもん。絶対に幸せになれない運命なんだって。だから、私の目の前で鳥居に縄をかけて、神さまに謝りながら死んじゃったんだ」

「それは――その詫びの心は届いている」

「私が勇気を出してお参りすればよかったんだ。でも母さんが死んだ日から、ずっとずっと鳥居が怖いんだ……お参りしないから神さまが怒ってタカを病気にしたんだ。神さまは、母さんだけじゃなくて、タカも差し出さなきゃ許してくれないんだ」

「違う。きっと互いに勘違いをしていたのだ。互いに嫌われていると思い込んでいたのだ。お前も――俺も」

 美穂子が濡れた顔を上げた。

「トッコちゃん一緒にいて。一緒に神さまにお参りして」

「何も出来ぬよ、俺は。こればかりは無力だ」

「それでも良いよ。お願い、一緒にいて欲しいの」

 突如トコタチの身体からまばゆい光が発せられた。その光の中で美穂子が崩れるように気を失うと、トコタチは頬を寄せてゆっくりと抱き上げた。一瞬だけタカギを見ると、美しい少女は空也に向き直った。

 心なしか、その顔が赤い。

 そして、花のような唇がそっと開いた。


「解けた」


「え」

「次は、ウマだ」

 空也に美穂子を預けると、トコタチは再び風の中に消えてしまった。

「なるほど、そういうことでしたか」

 タカギがティーポットを持ってフロアに佇んでいた。

「トコタチの縛りが消えました。あの神は、降臨した際に自分の社でボヤ騒ぎがあったことを知ってから、人間に疎まれていると感じていたようです。火をつけた一族の真意が知りたかったのでしょう。ただ、今は純粋に人間から頼りにされてわだかまりも消えたようです。素直じゃないトコタチらしい縛りでしたね」

 いつものように穏やかな笑みを浮かべている。しかし、空也は少しやきもきした。この状況、タカギが何も察していないわけがない。

「タカギさん」

 空也が強めの口調で抗議すると、頭の上に何かが乗っかった。そのまま首から肩の方へ降りてくる。


 白い蛙――ウマだ。


 タカギは一瞬だけ目を丸くしたが、静かにウマを見つめた。

を……説得するつもりですね」

 そう言うと、タカギはゆっくりと美穂子に近づき耳元に口を寄せた。

「人間たち。清き心を神産巣日神かみむすひのかみに示しなさい」

 次の瞬間、美穂子が目を覚まし、飛び起きた。弾みでよろめいたところを慌てて空也が抱き留めた。

「私、病院に行かなきゃ。八嶋さん、ごめんね。いろいろありがとう」

 美穂子は記憶の一部が混乱しているようで、トコタチとのやりとりはまるで覚えていないようだった。そのように、タカギがし向けたのかも知れない。

 店を飛び出した美穂子を見送りつつ、タカギがうなだれた。

「空也殿、今回のことは私がどうこう出来ることではないのです」

 申し訳なさそうに笑う老紳士だったが、すぐに背を向けた。

「あとは、ウマと相談してください。ただ一つ」

 穏やかな声のトーンが落ちる。


「最後はムスヒに直談判するしかありません。おそらく難しいと思いますが」

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