空也、ウマの縛りを解くこと

 タカギの店を出るや、ウマはいつもの子供神の姿に戻った。

「空也、いろいろと手を煩わせたのだ。参るぞ」

「ウマさん、隆春くんは」

 一呼吸おいて小さな神が静かに答えた。

「もう隆春は助からぬ。いかなる治療を施しても、今宵中に命は消える」

「ど、どうして、そうなっちゃうんですか」

「人間は、死ぬのだ。理由はない」

 絶望的な言葉が脳内を満たしていく。


 美穂子の痛みが無駄になってしまう。せっかく姉と弟が歩み寄り始めたのに――。


「そんなこと、誰が認めるかよっ!」

「もちろん、この我が食い止める」

 空也は思わず立ち止まった。ウマが悲しそうな笑みを浮かべている。

「いつも見ているだけだったのだ。触れることも話すことも出来ぬ」

 小さな神の小さな手が空也の小石を握りしめた。


 その瞬間、あたりの音がすべて消えた。

 目の前には薄い霞が広がる。

 遠くから子供の泣く声。

 霞が晴れると、そこには飴玉やミニカーが並べられていた。

 

 ――神さま、神さまぁ。


 子供はこれでもかとミニカーを並べる。


 ――全部、差し上げます。僕の大切なものを全部差し上げます。だから、お願いします。


 とめどなく溢れる涙。濡れていく頬と両手。


 ――お父さんとお母さんを、仲直りさせて下さい――。


 顔を上げた子供の顔が、ウマと重なった。


 次第に雑音が耳に戻ってくる。

 空也の両目から涙がこぼれていた。

「子供は、笑っていなくてはならぬのだ。太古の昔から、ずっとそう思ってきた」

 ウマが再び駆け出した。

「隆春は両親の不和でさえ自分のせいだと思って生きてきたのだ。結局、親の愛も知らず、自分が死の間際にいることも知られず、今まさに消えようとしているのだ。もちろん、そのような者は数多くいる。しかし、我は隆春と関わってしまったのだ。それが、禁忌であろうと、見捨てるわけにいかぬ。あの娘もまだ諦めておらぬからな」

 ウマが右腕を突き上げると、おびただしい数の鳥が降下してきた。そのまま、空也とウマを包み込み、身体を浮かび上がらせる。すべての建造物がプラモデルのように見えたかと思えば、薄雲に遮られ、空也は自分の位置を完全に見失った。

 ようやく地面の感触を取り戻したとき、小高い丘の裾に広がる町並みが見えた。

「病院の屋上、か」

 ちょうどタクシーが何台かやってきた。次々と隆春の部活仲間が車から降りてくる。顧問の教師らしき姿もあった。その後に、美穂子を乗せたタクシーも続いている。隆春を死なせたくない者たちがまるで導かれるように集まってきた。

 ウマが屋上の手すりを飛び越えた。そのまま浮遊した状態で手を組んだ。

「あの、そのままの姿で平気なんですか?」

「外にいる間はまだ何とかなるのだ。ただ、、それなりの力を出す必要はある。やってみるしかない」

 そう答えたウマは、少し苦しそうに笑った。その両手に淡い光が灯ると、ウマは何やら唱えだした。


 その時――。


「何をしているの」

 聞き覚えのある涼やかな声。

 振り返ると、屋上に備え付けられた供給管の上に無性の神が立っていた。

「ムスヒ、殿」

 ウマの光が次第に弱まり、完全に消えた。

「ここ人界で、そんな力を使ったらどうなるかわかっていると思うけど。理由はどうあれ、感心しないね」

 何の感情も顔に乗せない神に、空也はいつも以上に畏れを抱いた。ムスヒはゆっくりと空也に視線を送った。

「今日になって、ボクに対する祈りが急に増えた。どうせ、タカギが何か吹き込んだんだろう?」

 何もかもお見通しなのか。

 空也が答えられずにいると、ウマがムスヒの前に駆け寄った。

「ムスヒ殿、お願いです。あの者を、隆春を救いたいのです。どうかお力をっ」

 ウマの必死の叫びに、空也もムスヒの前で膝をついた。

「ムスヒさん、オレたち人間のわがままだってわかってますっ!でも、あのまま彼が死んでしまったら――」

 しかし、ムスヒは首をかしげるだけだった。

「救う、というのは?」

「え?」

「あの少年が望んでいることなのかな。命を救いたいと願うのは、ここにいる君たちと、彼を取り巻く人間だけのようだけど」

 ムスヒは視線を落として、まるで病室内の人数を数えるような仕草をした。

「君たちの願いは、君たちだけが満足するものでしかない。それに、死にゆく命を簡単に救っては後々の問題になる。これくらい、ウマだってわかっているよね」

 小さな神はうつむいたまま何も答えない。

 空也がその肩に触れると、強い眼差しでウマはムスヒを見上げた。

「我は、万物を力強く成長させるために生じたのです。それが恒久であれと願うのは、いけないことでございますか」

「ウマ、君は命がつながる様をずっと見てきたはずだよ。花びらが落ちて、枯れて、種が出来て、また芽を出すことと同じ。人間の臨終だけ見つめるからいけない。今日も多くの産声が聞こえたでしょう?」

「ムスヒ殿っ!」

 ウマは地面に伏して、泣きながら言った。

「すべての物に命を与えた貴方にこそわかっていただきたいのです。あの者、自然死であるならまだ我も諦めがつきましたでしょう。しかし、隆春は自ら死を望んで、一切の成長を拒んでおります。それならば」

 ウマが空也の手を握りしめた。


「我らは何のために命を、力を与えたのですか」


 冷たい風が三者の間をすり抜ける。

「俺からも頼む。ムスヒ」

 西日にオレンジ色の髪の毛を輝かせた美少女が、手すりに腰をかけていた。

「道理に合わぬのは承知の上だ。しかし、もっと裏に事情があるとしたらどうだ。例えば、本来なら助かった命だとしたら?」

 ムスヒは地面に手を向けると無言で目を伏せた。そのまま小さく息を吐く。

 やがて、ゆっくりとこちらに歩きながら、その黒い瞳をウマに向けた。

「死んだら楽になるとか、生きていても仕方ないとか最近の人間はよくのたまうけど、心の安らぎは燃え尽きるまで生きようとした者にしか得られないものだ。あの少年はそこを勘違いしているようだけど、ウマは彼を生へ導ける?」

 今度は空也に向かってムスヒが言った。 

「さっきから、強い呼びかけがある。荒々しくて、少し痛い。彼女に何があったのか知らないけど、あの想いはボクじゃなくて、に伝えるべきだね」

 ウマの顔に喜びの色が浮かぶ。

「ムスヒ殿、許して下さいますか」

「今回はトコタチが言うように裏事情があるから特別だ」

 ムスヒは視線を落とした。

「少し、濁った心が見える。少年の病気を密かに研究材料にしてデータを取っていた医者がいるね。不要な薬を与えたこともあるようだ。研究熱心な彼に褒美をあげよう。自らがサンプルとなれるように」

 その声の寒々しさに空也は硬直した。かけらの慈悲もない。

 やはり、神は畏れる存在なのだと再認識した。

 ムスヒは両手を組んで印を切ると、西日が差す日溜まりの中に消えてしまった。



 その晩、空也は病室の前で美穂子や同級生たちと合流した。隆春の意識が戻り、峠は越えたという医師の見解に、安堵の声が次々と沸き起こる。騒ぎ立てないことを条件に短時間の面会が許され、逸る気持ちを抑えながら空也たちは隆春を見舞った。

 チューブにつながれてはいたが、うっすらと目を開ける少年に、真っ先に美穂子がすがりついて泣いた。

「タカ、ごめんね。私とあの親父のせいで、アンタのお母さんがおかしくなっちゃったんだ。それなのに置き去りにして本当にごめん」

 突然のことに隆春は目を見開いたが、すぐにため息まじりの声を発した。

「バーカ。そんなことより、もう普通に働けよ。おれも長くないんだから」

 今度は同級生たちがベッドを囲んだ。

「何、カッコつけてんだよ。ジジイかよ」

「お前の校内記録はオレが破るんだからな。早く出てきて勝負しろよ」

「僕はとにかく一緒にゲームがしたい。新作出たぞ。待ってるからな」

 少年たちが群がる間から、空也は隆春と目が合った。何と声をかけるべきなのか、迷ったあげく空也は口を開いた。

「えっと、復活おめでとう」

「何だよそれ」

 一同が笑った。隆春はその様子を見つめ、美穂子に小さくつぶやいた。

「夢の中で父さんを見たよ」

「私の親父を?」

「違う。たぶん、おれの本当の父親だ」

 静まりかえる室内。空也はとっさに声をかけた。

「たぶんって、どういうこと?」

「おれは父親の顔を知らないんだよ。でも、夢の中じゃ、父親だって認識してた。白い服を着て、髭を生やしてたなあ。声をかけようとしたら目が覚めた。あれって不思議だな」

 空也は思わず襟下のウマに目をやった。夢の内容がどうしても気になったのだ。しかし、ウマが反応する気配はなかった。

「寝てる時に見るのは単なるイメトレだろ。タカ、それより現実の世界で夢を見ようぜ?」

「あ、ケンケンが良いこと言った」

 再び明るさを取り戻す仲間たちに、隆春も笑った。

「そうだよな。みんなが生きて欲しいって願ってくれるのに一人で死にたがってたら、ただの自己中心的なヤツだもんな」

 隆春は順々に馴染み深い顔を見つめていく。そして、両目から大粒の涙を溢れさせた。

「死にたくないよ。今は、まだ生きていたい」


 その時だった。

 空也の右肩からまばゆい光が発せられた。


「わっ!」

「何だ?手品か?」

「ちょっと!患者さんを驚かせるようなら出て行ってくださいっ!」

 怖い顔の看護師に空也は必死に弁解した。


 それでも、襟の下で白いカエルの足がほのかに光を帯びているのを空也は見逃さなかった。


 夜明け近く、空也とウマは並んで帰路についた。その途中で街路樹の上にいた赤茶色の猫が澄まし顔で後からついてきた。ゆるやかな風が木々の葉を揺らす。

 突然、ウマが急にかしこまったように姿勢を正した。猫に変じていたトコタチも美しい少女の姿に戻る。


「ムスヒか」


 わずかに明るくなった坂道の上に無性の神がいる。その表情は逆行で見えないが、おそらく何の変化もないのだろう。

「ムスヒ殿、すべてこちらは終わりました。少年は、生きたい、と申しておりましたゆえ」

「そう」

 短く答えると、ムスヒはわずかに目を見開いた。

「ウマの中で引っかかっていたものが取れたようだね」

 途端にウマは深々と頭を垂れた。

「ムスヒ殿と、トコタチと、そして空也のおかげであります」

「そんな、ウマさん。オレは何も大したことしてないッスから」

「そうだ。こいつのことは気にするな、ウマ」

「え?トコタチからはお礼があっても良いと思うんだけど」

「何か言ったか」

 空也とトコタチが張り合うそばで、ムスヒはウマの額に触れた。

「命を助けた少年の顔を覚えておこう」

「はい。かの者は野崎隆春という名です」

「何を心に秘めていたのかな」

「かつては、ごく普通の家族のつながりを熱望しておりましたが、今は血縁のない周囲の支えによって生きることを選びました。それと夢の中で父親と会ったなどと言っておりましたが、面識もないのにおかしな話でございます」

 ムスヒはウマの額から手を引っ込めた。そして指先を眺めて、何かを思案しているようだった。

「あの、ムスヒ殿」

「彼の母親はどうしたの?」

 黒い瞳がウマと空也を交互に見つめる。隆春の生い立ちを話すと、ムスヒは目を伏せて静かに言った。

「必死に生きてきたのか。なるほど。確かに清い心を持っているね」

 相変わらず感情はうかがえないが、声は少し柔らかいものを感じた。

 トコタチが天を仰いだ。

「……現れそうにないな」

 もちろん、天の浮き橋のことを言いたいのだろう。つまり、残り三柱も何かに囚われているのだ。 


 しかし、いつの間にかムスヒの姿はなく、ウマもトコタチも天を見つめるだけだった。

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