空也、難病の少年と会うこと

 朝、ベランダの窓を叩く音で目が覚めた。カーテンを開けると、そこには膝をついたウマが座っていた。

「おはよう、ございます……」

「迎えに来たのだ。空也、支度をするのだ」

 時計を見れば午前八時半を過ぎたところだ。

「何です?また曲芸の練習ッスか?」

「先日、そなたとトコタチが一悶着を起こした件、進展があったのだ」

 それを聞いて眠気が一気に吹き飛ぶ。空也は窓からウマの肩を掴んで揺すった。

「み、美穂子さんに何かあったんですか?また、アイツに襲われたとか」

「早朝から声が大きいのだ。近隣住民のことも考えよ」

 娘は無事だ、ウマは笑みを浮かべて言った。


 あの晩――。


 空也は負傷した美穂子とストーカー男のために救急車を呼ぶと、トコタチが起こした風に乗って襲撃現場から立ち去った。かれこれ三、四日は経つが、その後のことは何も知らされていない。空也は急いで支度を整えると部屋を出た。それに合わせるようにウマがベランダから飛び降りる。

「そなたに聞いて欲しいのだ。もはや、無関係ではないのだ」

 おもむろにウマが切り出した。

「実は、我にはかねてから見守っていた者がいるのだ。当人も成長した故、付きっきりで見ているわけではないのだが」

 トコタチが美穂子を見守るのと同じだろうか。空也はウマの憂いた顔を見つめた。

「その者、幼き頃は我の曲芸も見に来ていた人間なのだ。よく笑う童だった。ところが最近になって不穏な空気を感じた。心配になった我は演芸の合間などに、その者の様子を見に行っていたのだ。そして三日前、ちょうどその者はテレビを見ていた。今までと変わらなかったのだ。そこまでは」

 小さな神は薄曇りの空を見上げた。数羽の鳥が滑らかに横切る。

「突然、その者は窓から飛び降りようとした。たまたま居合わせた人間に止められたが」

「え?」

 ウマの顔が苦しそうに歪む。得体の知れない不安が空也を包み込んだ。

「その者、名前は野崎隆春という。そなたが救った娘――野崎美穂子の弟なのだ。隆春はニュースで姉が暴漢に襲われたことを知った」

 空也の脳裏に美穂子の笑顔と傷ついた身体が鮮明によみがえる。次第に声が震え始めた。

「弟って、それ本当ですか?」

 無言でウマはうなずいた。

「まさか、事件に遭うたのが空也たちも知る娘とは思わなかったのだ。あれから隆春は周囲とも距離を置くようになり、部屋に閉じこもっているのだ。あのような暗い心を抱く隆春は初めて見たのだ」

 立ち止まった小さい神は、いつにも増して真剣な眼差しを空也に向けた。

「空也、人間であるそなたに聞きたい。なぜ、隆春は自ら命を絶とうとしたのだ」

「え?」

「ここしばらく、葦原の中つ国でそういう者が増えたように思う。我らが与えた力を投げ捨てようとする、それが理解できぬのだ」

 空也は返答に窮した。確かに、ウマが言うこともわかる。しかし、今の時代がある種の人間を生きにくくさせているのは事実なのだ。先日のストーカーも、きっとそうだ。

「あの、そういう風になってしまう病気が流行ってるんですよ。当人らも本当は生きていたいんだと思います」

「病気が悪いのか?それなら治療すれば良いのだ」

「それはそうなんスけど……なかなか難しいというか」

「昔はこうではなかった。今のように長く生きることが叶わぬ故、生きることに必死だったのだ。今は人間の努力が身を結び、寿命が伸びたのは喜ばしいが、その一方でそれを断ち切ろうとする者をあぶり出す結果になったように思う。楽しみがないから生きる意味がない、そういう声を聞いたこともある。ゆえに、我はそんな人間を楽しませる方法を色々と考えてみたのだ」

 空也はウマが曲芸を披露するのは、その一環だったと理解した。その効果はともかく、別天神が直々に人間に関わろうとすることに心が熱くなる。

「そんな大きな志があるなんて知らなかったです。何だかんだ、オレもそれの手伝いができたのは嬉しいですよ」

「空也の想いは誠にありがたいが、そういう取り残された者たちが抱える闇は深い」


 ウマの声は聞こえるが、いつの間にか姿が見当たらない。柔らかい風が空也の前髪を揺らすと、肩に微かな重みを感じた。

 そこにいたのは真っ白な蛙だった。


「う、ウマさんですか?」

「うむ」

 確かに聞こえるのはウマの声だが、蛙が発している様子はない。空気が振動して空也の耳に囁きかけるようだった。

「急にどうしたんですか。びっくりしますよ」

「隆春がいる場所は、獣の姿を借りねば近寄れぬ。未だに我らは漂う穢れに完全に慣れておらぬのだ」

 蛙に変じたウマは身を震わせた。

「空也、頼む。我の代わりに隆春の話を聞いておくれ。あの闇の正体が知りたいのだ」

 空也は確信した。ウマの心を縛っているのは、命を捨てようとする者、隆春だ。これを解決すれば、トコタチの美穂子への執着の理由もわかるかもしれない。

「……あの、これからどこに行けば」

 胸元にぶら下げていた小石が軽い音を立てると、白い蛙は上着の襟の下に身を隠した。

「隣の町にある病院なのだ。隆春は重い病を患っておる。治療費は姉が負担しているのだ」


 水森総合病院は隣の県下の小高い丘の上にあった。最寄りのバス停に降り立った時、雲間からは青空がのぞいていたが、秋の到来を感じさせるように風だけは少し冷たい。交通の便が良くないせいで、すでに昼近い時間だ。

 空也は見舞い客を装い、病院へ向かうことにした。途中の店で小さな焼き菓子を買ったのも、美穂子の弟が少しでも心を開くようにと考えたからだった。

「けど、事前に教えてくれていたらタカギさんの店のケーキを分けてもらったのになあ。あれ、本当に美味そうなんですよね」

 空也が何気なくウマに言うと、小さな白い手で顔を叩かれた。

「恐れ多い。タカギ殿のお手を煩わせてどうするのだ」

「でも、食べてみたくないッスか」

「控えよっ!立場をわきまえるのだ」

 蛙の姿ではあったが、その眼力は鋭いものがあった。あのタカギなら喜んでケーキを分けてくれると確信していただけに、ウマの反応に空也はひるんでしまった。パンケーキを食べさせた時も感じたが、タカギに対するウマの想いには特別な何かがあるのだろう。これ以上は話題にしないよう決めた。

 病院のロビーは広々としていたが、休日のせいか外来に訪れる人はまばらだった。点滴のチューブをぶら下げた老人や、車椅子に乗る子供などとすれ違うたびに、健康な自分がなぜか申し訳ない気分になる。自然と足音はおろか、呼吸すらも押さえつけるように院内を進んだ。

 入院病棟で患者を訪問するには、台帳に名前を記入し、見舞い客であることを示す名札をつける必要があった。その順番を待っていると、向こうから数人の少年たちが歩いてくるのが見えた。名札をぶら下げているところ、すでに見舞いを済ませたようだ。

「空也」

 空気を震わせ、ウマの声が聞こえた。目を横にやると、上着の襟の下に白い前足が覗いている。

「あの者たち、隆春の友人ぞ」

 確かに少年たちは揃いのジャージを着ている。部活動へ向かう途中なのかもしれない。そのうちの一人が大げさなため息を吐いた。

「マジ、何なのアイツ」

「まあまあ、仕方ないって。ずっと入院してりゃイライラもするよ」

「でも、いきなりだぞ?二度と会いたくないとか、普通言うか?」

 一同は黙って、それぞれの胸の中で何かを思い出すような表情を浮かべた。どうやら、隆春との間で衝突があったらしい。

「けどさ、来週は大会だし、終われば試験前だし、次に来れるのは再来月だよな」

「それまでに、タカも落ち着いてると思うよ」

 後ろを通り過ぎていく少年たちの会話に、空也は何ともいえない重い気分になる。仲の良かった友人たちでさえ遠ざけるほど、隆春は精神的に追いつめられているようだ。初対面の人間ならなおさら――。

「そういや、オレは何て自己紹介すりゃ良いんだ」

 名札を受け取って病室に向かうも、根本的な準備がなされていないことにようやく気づいた。ウマに言われるまま足を運んだが、単なる不審者ではないか。

 病室のドアが半開きになっている。二人用の部屋だが、片方のベッドは綺麗に整えられ新たな患者を待っているようだった。もう一方は、すぐに乱れたシーツが目に飛び込んだ。ドア付近でうろついても怪しまれるだけなので、ゆっくりと足を踏み入れた。


 ベッドには色白の少年が横になっており、すぐに目が合った。


「あ、えっと」

 その挙動に思いっきり眉を寄せられた時、空也の肩から勢いよく白い身体が飛び出した。そのままサイドテーブルに着地する。

「お前」

 隆春がウマに気を取られていると、空也の腕に二匹の黒いアリが這い回るのが目に入った。声を出す間もなく、アリは空也の袖口の糸を引き抜いてサイドテーブルの脚に結びつけた。蛙になったウマはそのまま糸の上を器用に歩くと、空也の手のひらに乗っかった。

 隆春が唖然とした顔で見つめてくる。この後のフォローはどうすれば良いのだ。動揺する空也をよそに、ウマは部屋の中を飛び回り、ついには窓から落ちてしまった。

「う、ウマさんっ?」

 あまりに突飛な行動に、空也は慌てて病室の外へ駆け出した。ウマが飛び降りた窓は、ちょうど庭に面しており、そこは入院患者が散歩をしたり日向ぼっこをしたりする憩いの場となっていた。白い蛙の姿を探し回っていると、すぐそばで歓声が聞こえた。

 小さな池の前で、幼い子供が指をさして笑っている。

「ママ、お空から何か降ってきたよ」

 母親は怪訝な顔をして空を見上げ、池をのぞき込み、子供を促してその場を離れた。そこには微動だにしない濁った水面があるだけだった。

 空也はそっと池に近づき、声をかけた。

「ウマさん。そこにいるんですかあ」

「おらぬのだ。空也、あとは頼むぞ」

 左耳に声が届いた。上着の襟の下に白い蛙が寝そべっている。空也が襟をひっくり返そうとしたとき、背後に人が近づく気配を感じた。

「兄さん、そのカエルの飼い主?」

 隆春が立っていた。少し顔色は悪いが、声の感じからして具合が悪そうには思えない。出歩いても問題ないらしい。

 空也は襟元をチラチラと見ながら、隆春と向き合った。

「飼い主じゃないけど……と、友達ともいえるかどうか」

 神さまとの関係性をあらためて考え直していると、隆春がわずかに笑った。

「カエルと友達?今どき、小学生でも言わないぜ?」

 言動はどこか生意気だが、笑ってくれたことに空也は心から安堵した。それに釣られるように笑っていると、

「そのカエル、時々おれの部屋に紛れ込んでくるんだ。不思議な色だし、気になってたんだけど、アンタの物だったんだな。小児科病棟で手品を見せているボランティアか何かなの?それとも見舞い客?」

 そう言って隆春は空也に紙袋を差し出した。途中の店で買った焼き菓子の袋だ。

「どっちにしても、病室を間違えたんだよな。ほら、忘れ物」

「いや、これは、君に」

 年下相手だというのに受け答えが上手くできない。どこか冷めたこの年齢層が実は一番苦手なのだと悟った。

「おれに?何者なの、アンタ」

 対して隆春は相手が誰だろうと自分のペースを崩さない。初対面の空也にも普通に話しかけるあたり、人間の器の違いを感じた。さっきの部活仲間も、そんな隆春を認め信頼していたのだろう。少し胸が痛んだ。

 ペンダントの小石が音を鳴らした。

「えっと、美穂子さんの――件で」

 みるみると隆春の顔が険しくなる。

「姉ちゃんがどうした。何も話すことなんかねえよ」

「ひ、怒らないで聞いてください」

 少年にすごまれた空也は反射的に謝った。その様子に目を丸くした隆春が今度は声を上げて笑い出した。

「兄さん、平気か?おれみたいなガキ相手にそんなんだと、社会で生き残れないんじゃないの?」

 隆春は近くのベンチに腰を下ろすと、隣に座るように空也に視線を向けた。おとなしくそれに従うと、肩からウマが飛び降り、隆春の膝の上に着地した。

「お前、こんなご主人様だと毎日が不安だろ?でも、確かに悪人じゃなさそうだもんな」

 ウマが喉を鳴らすと、隆春は空也の顔を見つめた。

「アンタ、姉ちゃんの知り合い?」

「いや、実は、救急車を呼んだのがオレなんスよね」

 嘘ではない。しかし、現場の目撃者だということをあっさり白状したようなものだ。今後の話の展開をどう持っていくか考えていると、隆春がうつむいて言った。

「そうだったんだ。酷い言い方してゴメン。命の恩人なのに」

 素直に頭を下げる少年に、ますます空也は胸が締め付けられた。ウマが気になって見守る理由がよくわかった。

 性根の綺麗な人間なのだ。

「それにしたって、何でおれのこと知ってるんだ?姉ちゃんに聞いたのか?」

「えーと、うん。お姉さんのこと心配だったから見舞いに行ったんだ。その時に、君のことを聞いてさ。すごく心配してたから代わりに様子を見てくる話になって」

 嘘である。いつからこんな流暢にハッタリを言える人間になってしまったのだろう。自責の念にうなだれると、

「良い人だね、兄さん」

 隆春が半ばあきれたように言ったので、ますます泣きそうになった。

「おれのせいだから。姉ちゃんが襲われたのは」

「いや、そんなことは」

「おれが助けを求めなければ、あの人は自由に生きられたんだ。あんな場所で、売春みてえなことして、ストーカーに刺されて」


 徐々に小さくなる声。

 隆春は地面の一点を見つめ、そのまま黙り込んだ。

 空は青く澄んでいるのに、このベンチの周りだけは暗く窪んでしまったかのような感覚。


 話を聞いてやればそれでいいのか?


 それが、何の解決になるというのだ。まるで空也の心を読みとったように、ウマが空也の膝の上に飛び移り、見上げてくる。その眼差しが、どこか泣いているようにも思えた。


 この神を縛るもの、それを解いてやらなくては――。


 空也は、慎重に言葉を選んで言った。

「実はね、オレも美穂子さんの店に行ったことあるんだ」

 弾かれたように隆春が顔を上げた。

「それって」

「いや、仲間に無理矢理に連れて行かれただけなんです。ああいう場所が苦手なオレに、美穂子さんはただ話し相手になってくれてさ。正直、助かった。優しい女性だと思ったと同時に、何でこんな店で働いているのか不思議だったんだよ。でも今日になって理由がわかった――です」

 たどたどしい説明にも関わらず、隆春は真剣な顔で空也を見つめた。

「たぶん、美穂子さんは君にこそ自由に楽しく生きて欲しいと思ってるんじゃないかな。早く病気が治るようにって、そのために」

「自由に楽しく生きるって何?どうやるの?」

 隆春は顔をそらし、吐き捨てるようにつぶやいた。空也は肩をすくめ、やはり反射的に謝る。

 しばらく沈黙が続いた後、聞こえたのは鼻をすする音だった。

「血が繋がってないんだ、おれたち。おれの母親が姉ちゃんの親父と出会ったのがいけなかった。母親は姉ちゃんに嫉妬して毎日暴力を振るったんだ。顔が前の女房に似ているからって本気で顔を傷つけようとした。姉ちゃんは家に寄りつかなくなって、新しい親父もそんな母親から逃げるように家を出た。そのうち、母親もよそに男を作っていなくなったけど」

 くぐもった声で紡ぎ出される過去。十五歳の少年が背負ったあまりに重い現実に、空也は押し黙るしかなかった。

「母親が出ていったせいか、おれと血の繋がらない親父が帰ってきた。新しい女を連れていたけど、普通に暮らしていけると思ったんだ。でも違った。今度は偽親父がおれを殴るわけさ。もう、どこにも居場所がない。学校に行っている間だけ、自由に息を吸えるんだって思ったよ。アンタが言っていたのは、そういう意味での自由?」

 もとより、こちらに何の期待も抱いてない口調だった。違うと否定したところで、同じ苦しみを経験したことのない人間が発した言葉など、ただの音でしかないのだ。

 隆春は自嘲気味に笑った。

「その呼吸すら奪われるって、どんな罰ゲームだろうな。おれ、誰もいない夜に発作が起きたんだ」

 隆春は胸のあたりをつかんで、大きく息を吸った。

「さんざん転げ回った。自分がどんな体勢で生活していたか忘れるくらい身体が言うことを聞かないんだ。足は天井を向いて首はねじ曲がって、必死に手を伸ばした先にスマートホンがあった。気づいたら姉ちゃんの声が耳に届いて、おれはガキみてえに泣きながら助けを呼んだんだ」

 隆春が小さくつぶやいた。そのあまりに弱々しい姿に、空也が思わず手を伸ばした時、隆春は苦しそうに笑ってこちらを向いた。

「兄さん、また姉ちゃんに会ったら、もう入院費はいらないって言ってくれよ」

「え?」

 差し出した手が止まる。

「治らないんだよ、おれの病気。難病らしいぜ。毎回毎回、検査や薬ばかりでさ、まるで実験台だよ。何のために生きているかわからなくなる」

 隆春はゆっくりと立ち上がると、さっきまでと同じ少し大人びた表情に戻っていた。

「な?姉ちゃんが身を削って稼いだ金はおれのためになってないんだ。治らないのに金を払うなんてバカげてるだろ?無駄なんだよ、全部」

 隆春は焼き菓子の紙袋を見つめ、そのまま空也に差し出した。

「これも、返す」

 もはや、空也の顔を見てはいない。

「卵アレルギーなんだ。せっかくだけど、おれには食えない」


 うなだれる空也をベンチに置き去りにして、隆春は病室へ戻っていった。

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