空也、神の怒りを知ること
暗い路地に入り込んだところで、トコタチはミナカの顔をのぞき込んだ。何度か頬を叩いたものの、酔った至高神はただただ眠りこけている。
「どうやら起きる気配はないようだな。今宵はもう無理だ。主殿を帰す」
トコタチは空也の背中からミナカを引き剥がし、両手で抱え直した。軽く地面を蹴ると、小さなつむじ風が現れ、ミナカの身体が静かに宙に浮く。そして、そのまま舞い上がって消えてしまった。
見届け終わると、美麗な神は再び大通りに向かって歩き出した。
「え?まだ他の店に行くのか?」
「それも良いが、人間のお前に聞きたいことがある」
トコタチは振り返ることなくつぶやいた。
「あの女、どう思う?」
女というのは、空也を接客した風俗嬢のことだろう。
「え、さあ……何というか、掴めないというか」
闇の中でトコタチが自嘲気味に笑った。
「人間が俺と同じ感想を抱くとはな」
「へ?」
空也はトコタチの顔をのぞき込んだ。美麗な男はそれに気づいていないのか、暗闇の一点を見つめたままだ。
「トコタチは、あの店の常連なのか?さっきの風俗嬢と馴染みだとか」
「今日は偶然だ。が、あの女は知っている。他の店でも見かけた。店を転々としながら生活をしているのだ。確かに掴めぬ。理解できぬ。あの女、自分の親や先祖、境遇を呪いながらも同じ道に身を投じているのだ。もちろん金を稼ぐためなのだろうが」
――。
聞こうか聞くまいか、迷ったが空也は意を決した。
胸元の小石が音を立てる。
「親とか、先祖とか言ってるけどさ、もしかして、ずっと昔からあの女の人の一族を見てきたとか?」
トコタチは眉をわずかに持ち上げると、鼻で笑った。
「なかなか聡いではないか。俺のこの姿、あの女の先祖を模したものだ」
「うえっ?」
予想を上回る答えに空也は甲高い声を上げてしまった。
「双子の兄妹だった。神をも恐れぬ可愛げのない人間たちだったな」
そう言いながらも、トコタチの瞳は懐かしさに揺れているようだった。この神が美麗な男女の姿に入れ替わる理由も妙に納得した。
――神も恐れぬ可愛げのない人間。
「トコタチを縛るもの……わかったかも」
「なに?」
「いや、具体的に何が気になるのかはわからないけど、少なくとも彼女に執着しているのは確かだと思うんだ」
にわかにトコタチは美しい少女の姿になって空也を見つめ返した。
「執着?無性の俺が女に懸想しているとでも言いたいのか?」
「そうじゃなくって。彼女も、そのご先祖も含めて、どうでも良いと思いながら、心のどこかで引っかかるというか。それの理由自体がトコタチはわかってないのかなって。ダメだ、上手く言えない」
怒られることを覚悟したが、意外にもトコタチは神妙な顔でうつむいた。当たりなのだろうか。
その時、空也は前から歩いてきた人間とぶつかりそうになった。謝ろうとすると、
「見つけた」
目の前にあの風俗嬢が立っていた。髪もおろして、普通の衣服を着ているせいで、誰だか一瞬わからなかったが。
「あ、えっと」
「逃げることないのに。助けてくれてありがとう。本当は支払い請求したいけど、私もクビになっちゃったから別にいいや」
女は背後にいたトコタチに気づいた。
「あれ?トッコちゃんだ」
呆気にとられる空也をよそに、トコタチが前に進み出た。
「美穂子、またクビになったのか」
「今日は店を守ろうとしたんだよ?でも、やりすぎだって怒られちゃった。それにしても、トッコちゃんが同伴なんて珍しいねえ。売り上げ厳しいの?」
美麗な神は小さく微笑んで、肩をすくめた。
「これは昔の知り合いで、たまたまそこで会った。それより、こいつは美穂子の店で何かしたのか?」
「うん。あと男の人が二人いたんだけど、私をかばってくれたんだ。そうしたら、店のスプリンクラーが壊れて水浸しになったの。お詫びとお礼を言いたかったのに、帰っちゃったからさ」
そうか、トコタチはうなずくだけだった。
事情を飲み込めない空也に、風俗嬢の女――美穂子が声をかけてきた。
「トッコちゃんは時々この辺の店でアルバイトしているんだよ。すごく綺麗で雰囲気も独特でしょう?だから人気はあるんだけど、短期バイトだから滅多に会えないんだ」
「なるほど、だから知ってるんですね」
トコタチはすでに歩き出していた。慌てて呼び止めようとすると、美穂子は空也の腕を引いた。
「お礼がしたいんだ。お兄さん、この後は時間ある?」
それがどういう意味を表すのか、脳内でシミュレーションをしていると、美穂子のバッグからスマートホンの着信音が聞こえてきた。電話に出た美穂子の顔が次第に曇り始め、ため息とともに何かを了承したようだった。ゆっくりと電話を切ると、美穂子は空也に向かって手を合わせた。
「やっぱりゴメンね。用事が入っちゃった」
「いや、全然。オレは平気ッス」
「お兄さんの名前を教えて。今度ちゃんとお礼したいから」
戸惑いながらも空也は自己紹介をし、さらには連絡先も教えることとなった。
再び着信音が鳴る。美穂子が電話にでる気配がないので、空也が促すと、
「大丈夫。ありがとう」
苦しそうに笑った。
美穂子と別れた後、すでに姿が見えないトコタチを探しながら夜の街を歩き回る。しかし、次々と黒服の客引きに声をかけられ、一人でネオン街にいることが怖くなり始めた。やはり、まだ自分には早かったらしい。空也は往来の人々の背後に隠れるようにしながら歩き続ける。そして、かの美麗な神がさっきの路地で待っているかもしれないという考えが頭を巡ると、客引きを振り切り、駆け足でその場を離れた。
それにしても、トコタチが美穂子と交流していたとは驚きだ。当然、別天神であることは知られていないとはいえ、あの様子からするに美穂子はかなりトコタチに心を許していると感じた。当の美麗な神は関心がないように振舞ってはいたが、美穂子の先祖とやらの姿を真似ているくらいなのだから、やはり浮き橋が現れない理由はそのあたりにあると空也は確信した。トコタチと美穂子の日々の様子を観察すれば何か発見できるかもしれない。
――毎晩、風俗街に通うのもなあ。
途端に心が折れそうになったとき、ミナカを送り届けた細い通りに戻ってきた。暗い行き止まり部分で、うっすらと何かが動いている気配がある。どうやら予感的中だ。空也がトコタチに声をかけようとしたとき、足元に何かが触れた。
「たす、けて」
そこに転がっていたのは、さっき別れた美穂子だった。
わき腹を押さえたまま身体を震わせている。
「え――?」
空也が立ちすくむと、すぐ近くにもう一つ影が潜んでいることに気づいた。荒い息づかいは野良犬か何かを思わせたが、そいつは二本足で立ち上がり、空也をめがけて腕を振り下ろした。左腕に鋭い痛みを感じながら、空也は慌てて後ろに逃げた。
「美穂子、さっきおれの電話を無視したでしょ。どこに行く気だったの?誰と会うつもりだったの?」
暗闇の中から細身の男が現れた。
「何で逃げるんだよ。おれはこんなに愛してるのに。さあ、一緒に天国に行こうね」
襲撃者は地面に転がる女の足にナイフを突き立てた。
「いああぁっ!」
女の断末魔のような悲鳴が響く。その異様な光景に空也はただただ呆然とするだけだった。こちらに気づいた男は、今度は空也に照準を定めてナイフを突き出しながら近づいてくる。
「お前、おれの美穂子を奪いに来たな?いつもと違う道で帰ろうとするからおかしいと思ったんだ。殺してやるから動くなよ」
目の焦点が合ってない。
空也は戦慄した。
「ト、トコタチ」
空也の呼びかけに、美麗な神の返答は当然ない。襲われた女はすでに動きを止めていた。
「嘘だろ。何だよこれ」
とにかく、この場を逃げなくては――。
襲いかかってきた男に、落ちていた木箱を投げつけた。急な反撃にひるんだストーカー男は、他のゴミくずに足元を取られてそのまま後ろにひっくり返った。空也はふらつきながらも助けを呼びに駆け出す。
胸元の小石がうっすらと光った。
「バカ人間。何をしている」
目の前に美少女が立っていた。
「その女も狂った男も、俺たちから意識が外れている。今のうちに行くぞ」
「ち、ちょっと待てよっ!あの子は刺されて怪我してるんだぞ!それに、それに」
心配じゃないのか?
そんな空也を無視して、トコタチはつむじ風で自らの身体を浮かせた。その様に、空也は言いようもない怒りが湧き、ついにその肩を突き飛ばした。
「人が殺されそうなんだぞっ!お前、神さまじゃないのかよっ」
「だから、どうした。その女は俺に命乞いなどしておらぬぞ」
平然と言ってのける神に、空也は絶望した。もはやトコタチは頼りにならない。空也は美穂子のそばに駆け戻り、上着をかけて抱き起こした。
トコタチが舌打ちをする。その反応に空也は声を荒らげた。
「何でもかんでも自分たちのことが一番なんだろう?人の命より、浮き橋の行方が」
「黙れ人間。消されたいのか」
トコタチの美しい顔が歪む。
それは、どこか悲しそうな――。
しかし、それは束の間の変化で、トコタチはいつものように人を小馬鹿にしたような目で闇を見つめた。その先でストーカー男が立ち上がる気配があった。
「そこの人間、天国とやらに行きたいのか?」
トコタチの声が青年のものに変わる。闇から薄気味悪い笑い声がした。
「へへ、おれと美穂子だけで暮らすんだ。誰にも邪魔させないんだ。美穂子を殺したら、おれもあとを追って死ぬんだ」
「先にお前が死なぬのは何故だ?」
「おれが美穂子を殺してあげるんだ。おれの手で」
「お前と同じ意志があるなら女も自ら命を絶つはずだ。それに、もう死んでいるかもしれぬ。お前は何をしている?死なぬのか?死にたがっているわりには呼吸を続けているではないか。それは誰の意志だろうな」
ナイフを突きつけられても動じないトコタチに、ストーカー男は自らを奮い立たせるように大声を上げた。
「うるせえっ!ぶっ殺すぞッ」
「その刃物で死ぬつもりだったのか。人間は道具や他力をあてにしなくては、自らを殺すこともできぬのか」
トコタチはいつものように意地悪い笑みを浮かべた。
「何億とあるお前の細胞は生きたがっている。お前の中に何億もの反乱分子がいるぞ?孤立無援だな」
ついに男は雄叫びを上げながらトコタチをめがけて体当たりをした。逃げ場のない細い路地、空也は思わず顔を覆った。
「ち、ちくしょう。どこにいやがる!」
男は錯乱したようにナイフを振り回し、近くに積んであった木箱を蹴り上げた。
トコタチの姿が見えない。
「目を覚ますだと?美穂子は死んだんだよ!おれと一緒に天国へ行くんだ!出てこいよ!そこに隠れていやがるなっ」
「ひっ」
男が空也に感づいて襲いかかってきた時だった。
一瞬であたりが白い世界となった。
長い耳鳴り、稲光。
咄嗟に空也は抱えていた美穂子を守るように覆い被さった。視線の先には、転がっていた木箱が闇の中で燃えているのが見えた。犯人の男が苦しそうな呼吸を繰り返す。左腕の袖口がボロボロになって、焼け焦げた臭いがする。大通りの方からも人々の騒ぎ声が聞こえてきた時、今度は軽やかな音とともに、無数の氷の固まりが降りそそいだ。徐々にそれが尋常じゃない大きさになっていることに空也は気づいた。人間の頭ほどの氷が木箱を弾き飛ばし、空也たちを囲むようにしながら、地面に巨大な穴を穿ち始めた。砕けた石が空也の頬をかすめて吹き飛んだ。
「お、おい。トコタチ……」
それでも美麗な神の姿は見えない。
「うわあああっ!」
突然、男の悲鳴が闇を切り裂いた。
「何だよ、来るなよっ!」
暗闇の中に、小さな虹が見える。
それはとても美しいはずなのに、言いようもない恐怖が空也の心を支配する。
氷の飛来がまるでスローモーションのようになる。
突然陥没する地面、突然燃え上がるゴミ袋。
幾重にも連なる虹の輪。
もはや男は錯乱状態で、口から涎を垂らしながら声を上げた。
「は、入ってくるなあっ!」
虹を追い払うようにナイフを振り回す。その切っ先が自分の腕や足を傷つけていることに男は気づいていないようだった。そしてついには、自分の腹をナイフで突き刺した。一瞬だけうめき声を上げると、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
「忌々しい」
美麗な男がその背後に立っていた。
「トコタチ……」
「まったく人間は理解できぬ。他者を殺めたいだの、自ら命を絶ちたいなど、自分勝手にも程がある。なぜ花や草木のように謙虚に生きられぬのだ。その命はお前たちだけのものではない。おこがましい生き物め」
トコタチは冷ややかにストーカーを見下ろした。
「お前、こいつに何をしたんだよ」
「俺を畏れさせた。それだけだ」
「……」
トコタチはにわかに美少女の姿に変化した。血を流す美穂子を見つめ、ため息を吐いた。
「さっさと救急車でも何でも呼べ。あとは好きにしろ」
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