空也、拍手喝采を浴びること
明け方、窓を叩く音がした。
そっとカーテンを開けるとベランダにウマが座り込んでいた。
「おはようございます……」
「やい、空也。さっそく頼まれごとをしておくれ」
時計を見れば午前六時。空は明るいものの、休日に起きる時間としては早過ぎる。
「別に構わないッスけど、こんな時間じゃなきゃダメなんスか?」
「ダメなのだ。色々と準備もある。その前に連れて行って欲しいところもあるのだ」
空也は仕方なく支度を済ませ、アパートを出た。ウマがベランダから軽やかに降り立つ。
「それで、どこに行きたいんです?」
「パンケーキが食べたいのだ」
「ほえ?」
「朝早く街中を歩くと時々見かけるぞ。朝しか食べられないパンケーキが食べたいのだ」
ファーストフード店の朝メニューのことを言っているようだ。そのパンケーキが食べられる店は、空也が利用する駅の近くに一店舗だけある。その店の話をすると、ウマは嬉しそうに空也の手を引っ張った。見れば見るほど、小学生にしか思えない。いや、仕草や動作はもはや幼稚園児に近いかもしれない。それはともかく、朝メニューのパンケーキがウマの心を縛るものであれば、あっさりと浮き橋が現れてしまうことも考えられるのだ。空也は眠気を振り払いながら、自分の役目を果たすことにした。
早朝の駅前は静かだったが、意外にも車の量は多かった。天気も良く、行楽に出かけるには絶好なのだろう。いつもと違う雰囲気の街並みに、空也はわずかに心が躍った。空気が澄んでいるせいだろうか。
目当ての店に到着すると、空也はウマのためにパンケーキのセットを注文してやった。どう見ても、タカギの店のホットケーキの方が美味そうに思える。コーヒーを飲みながらウマにそう言ってやると、
「タカギ殿にケーキを焼いてもらうなど、恐れ多い。ただでさえお忙しいのだぞ」
真顔でそう答えたので、空也は言葉に窮した。おそらくタカギは気にしないだろうと言いたかったが、ウマの気持ちがわからないわけではない。それに、ウマがこのパンケーキで満足なら問題ないのだ。
食べ終えたウマが、さっさと席を立った。何やら慌しい。
「今日は公演なんスか?」
「うむ。我が一人で行なうなら問題ないが、今日は空也も披露してもらう故、事前に練習するのだ」
空也は、充分に間を置いて聞き返した。
「えーと、何ですって?」
「そなたも練習するのだ。綱渡りなら出来るだろうから」
「出来るかっ!」
声を荒らげた空也に、店員たちが冷ややかな視線を送ってきた。傍からすれば子供を怒鳴りつけるいかれた大学生にしか見えないだろう。
空也はゆっくり呼吸を繰り返し、小さい声でウマに言った。
「いくらお願い事でもそれは無理です。ウマさんはご存じないかもしれませんけど、一般的な人間は平らな地面しか歩けないんです。崖の上から綱渡りする人間もいますけど、それは物好きと呼ばれる類のものです」
「心配することはない。ただ、我が本当に困っているのは事実なのだ。もしかしたら、これこそ浮き橋が現れぬ原因かもしれぬ」
ウマが珍しく深刻な顔つきになった。何かあったのは間違いないようだ。さすがに心配になって事情を聞くと、
「最近は、我の芸よりもこの姿に関心が高くなってしまったのだ。おかげで人間の童にも出来るのではないかと真似をする者が増えてしまったようなのだ。そうしたら、生みの親からおかげで子が怪我をしたと言われてしまった。故に、危険と思われる芸は大人にさせることにしたのだ」
そう答えた。
何とも悩ましいことが起きたものだ。確かに協力したい気持ちはあるが、さすがに今から練習しても上手くやれるわけがない。
空也の顔色を見たのか、ウマが小さな胸をトンと叩いた。
「案ずるなと言ったではないか。空也は何もしなくて良いのだ。ただ、不自然にならないように演じて欲しいのだ」
「よくわからないッスけど」
ウマは手の平に一匹のアリを出した。その背を軽く撫でると、アリがテーブルに置いてあったパンケーキの皿を持ち上げた。
「ひぃ!」
「空也を持ち上げながら綱を歩くのはこの者たちなのだ。棒立ちだとおかしいから、必死に歩いているフリをしてくれたら良いのだ」
ウマは数匹のアリを地面に放った。
「ここから会場まで試しに歩いてみるとしよう。空也、この者らの上に足を乗せるのだ」
躊躇した空也の足を、ウマは無理矢理に掴んでアリの上に落とした。すぐに経験したことがない感触が足の裏に伝わってくる。両足を乗せたところで、ウマが手を打った。それと同時に、空也の足が勝手に前に進んだ。
「ひっ」
「この者らと波長を合わせて、自然な歩行に見せるのだぞ。そうそう、その調子」
下手に足元を意識しようとすると、かえってこちらが疲れてしまい、危ないような気がした。アリの集団は空也が足に力を加えるたびに、適切な配置転換をしながら進むらしく、ここは一つ絶対的な信頼を寄せることが重要だと判断した。しかし、この段階から綱渡りを習得する自信が芽生えたわけではなく、もはや流れに任せるしかないと空也は観念した。
そうこうしている間にも、都内の大きな公園に辿り着いた。ここで今日は演目を披露するらしい。さっそくウマがポールを立てると、どこに隠れていたのか、八咫烏がロープをくわえて飛び上がり、ポールにくくりつけた。
「ちょっと待ってください」
空也は自分の舞台を見上げた。
「あの……二メートル近くありますよ」
「後ろの方にも見えるようにするのだ」
「この微妙な高さ、怖いんスけど」
「落ちぬから心配するな」
そういう意味ではないと伝えようとしたとき、足元がザワザワし始めた。アリたちが空也を脚立の方へ運ぼうとしている。慌てて歩調を合わせて脚立に手をかけた。
「ウマさん、問答無用なんスね……」
「時間がないのだ。一度でも成功すればあとはいかに綺麗に見せるか練習すればよいのだから、肩の力を抜くのだぞ」
空也が一歩ずつ脚立を上ると、先へ先へアリが走って足場に待機している。ロープにも何匹か待っていた。ポールの先端で羽を休めていた八咫烏が一鳴きすると、そのまま空に飛び立っていく。見下ろせば、予想通りかなりの高さであることがわかる。公園の敷地の広範囲まで見渡せた。確かにこれは目立つし、客引きにもなるだろう。
意を決してロープに足を乗せると、すぐにアリたちが空也の身体を持ち上げた。不思議な感覚だ。間違いなく一本のロープしかないのだが、地面に描かれた白線に沿って歩いているようだった。
「おお、なかなか様になっているぞっ!空也、もう少し顔を上げて姿勢を正すのだっ!」
ウマに言われたとおり背筋を伸ばすと、身体が左に傾いた。
「わわわっ」
「落ち着けっ!無駄に動くと危険なのだっ」
「そんなこと言っても……っ」
アリの大群が空也の身体を押し戻そうと足元に集まってきた。しかし足を安定させれば良いというものではない。そう思い至った時、ロープに足の裏がへばりついたまま空也の身体は真っ逆さまになった。
「ぎゃあーっ!」
「うむ。そのまま続けてみるのもアリかもしれないのだ。あ、シャレなのだ」
「こんなの不自然過ぎるでしょうっ!無理ですっ!ウマさん、下ろしてっ」
アリたちは逆さになった空也をそのまま足場まで運んだ。必死に脚立にしがみつき、ゆっくり地面に下り立つ。その硬さに心から安堵した。
「もう少しなのだ。空也、練習あるのみぞ」
「ウマさん、もう少し簡単な芸はないんスかね……これはレベル高いッスよ」
「あとは一輪車に乗りながらお手玉する芸がある。どちらでも良いのだ」
「二択なんスか……?」
すると、背後から無人の一輪車が走ってきた。よく見れば、タイヤ部分にアリたちが張り付いている。
「まあ、一輪車なら子供の頃に遊んでいたし、お手玉も三つなら経験済みなんで、綱渡りより楽かもしれないッス」
「そうか!ならば、こっちにも挑戦するのだ」
ウマは嬉々としながら三本の松明に火をつけた。火が灯るというよりも、花火のような炎が噴出している。
「ウマさん、オレは良い子だったので、そういうお手玉で遊んだことはないんですよ。祖母ちゃんが作った玉は柔らかい布地をですね……」
「これは炎の精なのだ。タカギ殿の店にいる火の神から借りたのだ。よく顔を近づけてみるのだ」
ウマが松明を差し出した。
火花のように飛び跳ねているのは、蜘蛛のような形をした物体だった。空也の視線に気づくと、長い足で鼻先をつついた。
「あづっ!」
「当たり前なのだ。火の精なのだから」
ウマが笑いながら三本の松明を投げ始める。赤くなった鼻を擦りながら、空也は飛び交う炎を目で追った。火の精が乱舞している。松明からこぼれ落ちたかと思えば、ウマの手の上で跳ね上がった。
「こやつらも楽しいことが好きなのだ。演者や観客が楽しければそれが伝わって、さらに盛り上げようと調子に乗ってくるのだ」
ウマは松明を投げながら一輪車に飛び乗った。器用にペダルを操作しながら、空也を見下ろす。
「しかし、これは難しいのだ。空也、どうする?」
徐々に松明の花火が小さくなっていく。その時、空也の靴の上にいたアリが落ちる火の粉に近づき、こちらに向かってまるで万歳をするように前足を上げた。
空也はアリがパンケーキの皿を持ち上げた光景を思い出した。
「何だよ。お前が手伝うから、やってみろって?」
すると、ウマが空也に向かって消えかけた松明を放り投げた。慌ててそれをキャッチすると、にわかに炎が噴出した。
「何だかんだ言って、空也はヤル気があるようなのだ。我は嬉しいぞ」
確かにウマの芸を目の当たりにして心が躍った。自分でもやってみたいと、ささやかながら思っていたのか――。
「ち、ちょっとだけ、チャレンジしてみます」
空也の両腕にアリたちが這い回った。そして、松明の先を掴むと天高く放り投げた。火の精が一斉に火の粉を降らせる中、さらにもう一本の松明が後を追うように空を舞った。 空也はただ両手を前で広げているだけで、三本の松明が勝手に手中に収まり、勝手に跳ね上がる。火の粉の熱さも慣れてしまった。不自然に見えないよう、空也は松明の落下ポイントや手の反動を意識しながら、舞い散る炎を目で追った。
「おお、空也。なかなか様になっているのだ。次は一輪車にも挑戦するか?」
「は、はい」
一輪車のサドルに腰を据えると、勝手にタイヤが動き出した。もはや、ただ座っているだけの状態だ。見た目だけなら完全に大道芸人だろう。
「ウマさん、何かこっちの方が動きが多いだけ、かえって怪しまれないかもしれないッス」
「そうか。なら、こっちにするのだ」
「この花火、夜の方が綺麗かもしれないッスね」
「我もそう思ったのだ。だが、子供の姿ゆえ、夜の公演は問題があると思って断念していたのだ。空也さえよければ、夜公演をしてみたいのだ」
「こんなので良ければ、手伝いますよ。ああ、でもアリたちが夜は活動できないかもしれないッスねえ」
「案ずるな。すでに奴らは空也の手を離れておるのだ」
――。
急に松明の重みが加わったような気がした。いつの間にかペダルにも力を込めている。
その瞬間、火の精が一斉にオレンジからピンクの火花と変化した。
「す、スゲーッ!オレ一人でやってるよぉっ!」
「見事なのだ!火の精も喜んでいるのだ。ここまでやるとは我も思わなかったぞっ」
肘のあたりで二匹のアリが火花と遊んでいるのが見えた。
「やべぇ、感動してきた。ウマさん、ありがとうッス」
「礼を言うのはこちらなのだ。空也、これからもこうして我と演芸をしようぞ」
この日の晩、空也は生まれて初めて拍手喝采を浴びるのだった。
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