空也、神々と出会うこと
カーテンの隙間から差し込む残暑の陽光が顔を照り付ける。
「あづぃ!」
空也はたまらずベッドから跳ね起きた。そして、あるべき場所にバッグがないことを確認すると、昨日の出来事が夢ではなかったことに落胆した。
ひったくりに奪われたものについては、念のため警察に届けた。あとは、もう自分ではどうすることもできないのだから仕方がない。空也はタカギにもらったバイト代を大事に使うことに決めた。
今日は土曜日で大学の講義もなく、昼過ぎからタカギの店を手伝う約束になっている。神さまの元でアルバイトをするのも不思議な話だが、あの二柱(柱は神を数える単位らしい)が普通の人間にしか思えないせいか、むしろ、あがり症の自分に接客バイトが勤まるのか心配だった。しかも田舎学生の憧れ、カフェ店員である。それでも、友達もおらず休日は家でインターネットやゲームばかりしていた自分が、誰かに力を必要とされたことが素直に嬉しかった。
「ああ、ゲームも売られちまったかなあ」
またバイト代が貯まったら買い直せばいい、そう己を励まして空也は店に向かった。
店内には遅めの昼食を取っている客が二人いるだけで、タカギはテーブルを拭いていた。
「お、お疲れ様ッス」
挨拶する空也に気づいたタカギは、会釈をして微笑んだ。
「何か良いですね。お疲れ様、言ってもらえる日が来るとは思いませんでした」
「そんな、大げさな」
空也も笑いながらバックルームにエプロンを取りに行く。ドアを開けると、ミナカがおにぎりを食べていた。
「ビックリした。こんちはッス。ミナカさん」
もごもごと何か音を発しながら、ミナカが皿に盛られたおにぎりを指差した。さっそくタカギが高菜おにぎりを作ったようだ。不思議な関係をもつキッカケとなったおにぎりではあるが、ミナカが気に入ったのなら良かった。空也は不思議な高揚感を覚えつつ、エプロンを身につけるとフロアに出た。
昼食を終えた客が次々と帰っていく。空也は皿を下げてはひたすら洗い物に取り組んだ。水道や電気、ガスなどはどのように供給しているのか、そんなことが急に気になり出すと、再び神々の存在を考えざるをえなくなった。ここに店を構える以上、タカギも近隣住民たちに存在を知られ、正体がバレる危険だってあったはずだ。とはいえ、一五〇年近く人界にいれば、その辺の人間よりも経験値は上なわけで、空也が思う以上に世渡り術は身につけているのかもしれない。結局、そういう結論を出して、深く考えないように努めた。いずれにしても神さまを理解することなど不可能なのだから。
皿洗いを終えてフロアに戻ると、カウンター席でノートパソコンを広げる客がいた。
――。
黒く綺麗な髪の毛をしていた。同じ色の長いまつ毛が印象的だ。細い指がキーを軽快に叩いている。
空也は客の横顔を見つめながら、ある疑念が湧いた。
どっち、だ?
ショートカットのボーイッシュな女性だろうか。色白で、まつ毛の長い男だろうか。
男にしたら小柄だし、女にしたら少し肩幅が広い気がする。服装もシャツとスラックスで、なおさら判断しづらい。空也の視線に気づいたのか、その人物がこちらを向く。正面から見ても、どちらかわからないが、少しだけ年上のような気がする。
困惑している空也に、タカギが声をかけた。
「空也殿、こちらで砂糖を補充してもらえますか」
タカギが空になったシュガーポットをカウンターに並べた。空也は一番隅のカウンター席に座って、言われたとおりのことを始める。
チラチラと横目で性別不詳の人物を見ていると、スッと息を吸う音がした。
「タカギ」
凛とした声色だった。
「さっきから見つめられて居心地が悪い」
低い女性の声――いや、か細い男の声。
空也は混乱した。
にわかにタカギが吹き出して笑った。
「ああ、そうでした。空也殿、こちらは
「あ、え?カミムスヒノカミ……様?」
確か神産巣日神は古事記で三番目に現れた神だ。生産や生成を司ると考えられている。ミナカとタカギと合わせて『造化三神』と呼ばれ、共にすべての基礎を作った神だ。
神産巣日神――ムスヒが少しだけ眉を持ち上げた。
「驚いたな。ボクたちのこと全部知っているのか?」
ボクと言う以上、男だったか。いや、あの瞳が男のものとは考えにくい。
バックルームからミナカがやって来て、後ろのテーブル席に座った。
「ムスヒ、息災か」
「主殿も元気そうだね。ところで」
ムスヒは再度空也を見つめた。何の感情もうかがえない顔だ。空也は妙に緊張した。
「タカギ、どうして人間がここに?」
「アルバイトに来てもらっているんですよ」
「でも、ボクたちの素性を明かす必要があったのだろう?」
ミナカが手をポンと打った。
「袋じゃ袋。昨日、おぬしらに頼んでおいたじゃろ?」
ムスヒは何度か瞬きをすると、床に手を伸ばした。そして、たいそう見覚えのあるバッグが目の前に現れた。
「あっ!」
「君の物だったのか。なるほど、そういうことか」
まさか、本当に見つけ出されるとは思わなかった。昨日までは半信半疑だったが、ここにきてミナカたちに対する畏怖の念が生まれた。
ムスヒはバッグを空也に手渡すと、ノートパソコンの画面に向き直った。
「あ、あの。ありがとうございます。助かりました……って、あれ」
軽い。
慌てて中身を確認すると、出てきたのはデータの入ったメモリと、折れ曲がったプリント、返却されたレポートだけだった。
タカギが心配そうな顔をして言った。
「空也殿、そのバッグではないのですか?」
「いえ、バッグは間違いないんですが、中身が足りないというか」
しかし、ここでムスヒを追及するのはどうなのだろう。せっかくの好意を無にしてしまうことになる。けれども、中身の行方を知っているかもしれないではないか。
空也の胸の内を読んだかのように、タカギがムスヒの顔をのぞきこんだ。
「ムスヒ、バッグの中身は知らないのですか?どうも、持ち物の一部が足りないと空也殿は困っておられるようです」
ムスヒは頬杖をついてタカギを見つめ返した。
「それなら、トコタチが持ち去ったかもしれない。ボクはトコタチからバッグを受け取っただけだから」
空也の背後からも大きなため息が聞こえた。ミナカが呆れ果てた顔で空也の隣に座る。
「そうならそうと、ちゃんと願わねばならぬではないか」
「は?オレのせいッスか?」
「おぬしの脳裏には袋の絵柄しかなかったわ。しかし、トコタチは相変わらずじゃ。困った者よのう」
うなだれるミナカを見ると、なぜか申し訳ない気持ちになった。バッグが戻って来た以上、ミナカの力は証明されたのだ。あの時に、財布とゲーム機を思い浮かべていれば、一緒に戻ってきたに違いない。
しかし、神さまともあろう存在が、人間の紛失物を失敬するとは思えない。そう信じたい。トコタチも別天神らしいが、空也はその詳細を思い出せずにいた。
「それでは、ウマにトコタチの居所を聞いてみましょうか。知っているかもしれません」
タカギはカウンターからフロアに出ると、右手を掲げた。次の瞬間、入り口のドアが勢いよく開き、一直線に何かが飛んできた。
それは大きな鳥だった。足に何か引きずっている。
「た、タカギ殿っ!無茶苦茶ですぞッ!」
子供だ。頭巾を巻いており、ヒップホップダンスでも踊るような格好をしている。
鳥は子供を地面に落とすと、タカギの右腕に羽を休めた。
「これは失礼しました。もしかして、取込み中だったのですか?」
尻をさすりながら、子供が立ち上がる。小学生くらいの少年にしか見えない。
「や、そうではござりませんが、一本ジュワキに連絡をくれると助かりまする」
子供はポケットからインコを取り出しながら口を尖らせた。ジュワキと呼ばれたインコはひたすら、もしもしとつぶやいている。
タカギの右腕にとまっていた鳥が一声鳴いた。片足には丁寧に布が巻かれている。その姿に空也は見覚えがあった。
「もしかして、昨日この店まで案内してくれたカラスですか」
事態に戸惑う空也に向かって、老紳士は優しく微笑んだ。
「驚かせて申し訳ありません。この鳥は私が高天の
タカギは青みがかった鳥の身体を撫でつつ、巻かれていた布をゆっくり外す。そこから見事な三本目の足が現れた。空也は息を飲みつつも、もう目の前の事象を疑うのをやめた。
「八咫烏って、確か日本神話で神武天皇とかいう人が天下統一するときに、道案内をした鳥でしたっけ」
「よくご存知ですね。あの時も私が天から遣わしたのですよ。この八咫烏、基本的に私の言うことしか聞きませぬ。ご安心下さい。危害を加えたりはしません」
八咫烏はふわりと身を浮かせるとミナカの肩にとまった。続いてムスヒの左腕にもとまる。そして、まるで挨拶をするように、小さくクエクエと鳴いた。
「それで、そちらの小さい神さまは……」
子供は空也を見つめると、飛び上がった。
「人間かっ?こんなところで何をしているっ」
そんな子供の頭をタカギは軽く叩いた。
「言葉を慎みなさい。空也殿は私の店を手伝ってくださっているのです。挨拶をなさい」
ミナカがカウンター席からニヤニヤ笑っている。
「ウマ、またタカギに怒られたのう。ワシとて最近は怒られなくなったというに」
「あ、主殿っ。笑うなど酷いですぞ」
しばらくミナカと言い合いをした後、小さな神は空也に向き直った。
「我は
「へ?」
「ウマシアシカビヒコヂノカミ、だ」
「ウマシ……カビ……」
「もう、ウマで良い。この三神殿からも正式に呼ばれることなど滅多にないのだ」
どこをどう見ても、小学生だが、言葉遣いが大人びているせいか違和感がある。生意気そうなのは間違いないが。
「ウマは四番目に現れた神です。生き物に活力を与える力を持ちます。時々、その力で葦原の中つ国を回りながら曲芸を披露しているのですよ。今日は私の八咫烏も随行しておりました。機会があったら空也殿もウマの芸を見に行ってあげてください」
タカギがウマの頭をなでると、照れ臭そうに小さな神は笑った。まるで学校の先生と生徒のようだ。
しかし、神様ともあろう存在が、人間相手に曲芸をしていることに驚いた。それが生活のためではないことも分かっている。
――神様の曲芸相手じゃあ、他の大道芸人は勝てないよな……。
「ウマ」
ムスヒがあの男女曖昧な声色で名前を呼ぶと、ウマは弾かれたようにそちらへ向き直り、深々と礼をした。何となくそれぞれの上下関係が確立されているようだ。
「ご機嫌麗しゅうござりまする。ムスヒ殿、どうされました」
「トコタチを知らない?」
「残念ながら存じ上げませぬ……。ただ、最後に会うた時、芸に使うマッチをもらいました。これが何かの糸口にはなりませぬか」
ウマはポケットからマッチを三個取り出してムスヒに手渡した。そのケースを細い指で回転させて眺める仕草に、空也はムスヒがやはり女性のように思えてきた。
「住所が書いてあるね。この店に出入りしているのかな」
ムスヒはマッチをミナカに渡したが、そのまま、なぜか空也の手に渡ってきた。
「え、ミナカさん?」
「場所探しはおぬしの得意とするところじゃろ。この界隈に行けばトコタチに会えるはずじゃ。会って直接話をしたら良い」
すでにムスヒは興味をなくしたようにノートパソコンに向かい、ウマは厨房からブドウを持ってくると、八咫烏と一緒に食べ始めた。
「まったく、仕方のない方々ですね」
タカギはため息をついた。
「ですが、我らが出向くより空也殿の方がトコタチも話しやすいかもしれません。一つ、お願いできますか?」
「はっ?無理だと思うんスけど」
「いえいえ、そんなことはありません。バッグの中身についてトコタチが何か知っているならば、空也殿の追及にボロが出るはずです。我々だとはぐらかされる恐れがありますからね。トコタチは素直じゃないのです。根は優しいのですが、ちょっと難しい時期というか……無理に言うことを聞かせるのも好きではありません。それは主殿もムスヒも同じでしょう」
神々の中にも思春期や反抗期があるのだろうか。人間でさえ厄介な年頃、神さま相手にどうにかできる自信がない。しかし、自分の不注意で招いたひったくり事件に、これ以上この神々を利用するのも気が引けた。少なくともミナカもムスヒも願いを聞いてくれたことに変わりはないのだから。
「わかりました。行ってみます」
その言葉を待っていたかのように、ミナカが元気良く立ち上がった。
「空也、これを持ってゆけ」
それは小さな石がついたペンダントだった。ただ、どこからどう見ても地面に転がっているようなただの小石だった。
「はあ……ありがとうございます」
とりあえず礼は言っておいた方が良いだろう。その時、一瞬だけ小石が輝いた気がした。
「これがあればトコタチとも話が通じやすいじゃろう。さ、身につけておくのじゃ。お守りお守り」
残念ながらおしゃれには程遠かったが、空也は言われるままペンダントを首からさげた。
客足が落ち着いたところで、タカギはバイトを早めに切り上げてくれた。さっそくマッチの住所をスマートホンで調べることにする。そして、場所と店の概要を知るや、空也は言いようもない不安に襲われた。
そこは、都内でも有数のラブホテルが乱立しているエリアだった。
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