神様は天の原へ帰りたい

ヒロヤ

空也、ひったくりに遭うこと

 八嶋空也やしまくうやは、前を走る自転車を全速力で追いかけた。

 使い慣れたグレーのバッグと徐々に引き離されていく。


 ――ふざけるなっ。あの中には、オレの全財産と。


 片手に残されたコンビニ袋を振り回しながら、雑居ビルの間を駆け抜ける。

 

 ――クリア間近のゲームが入ってるっていうのにっ!


 角を曲がったところで、空也は恰幅の良いサラリーマンと激突し、予想以上の反動に細身の身体が後ろに吹っ飛んだ。サラリーマンは苦々しく笑いながら、大丈夫かと空也に尋ねてきたが、そのまま足早に去っていった。起き上がると、ひったくり犯人の自転車はどこにもなく、人気の少ない通りで老人が黙々と打ち水をしていた。

 九月の半ば。温い風が額をなでる。


 ――は、何これ。


 おそらく人生で初めて途方に暮れた。


「マジで何なんだよ。オレ何かしたか?」

 いや、こうなることは運命だったのかもしれない。そう思わずにいられないほど、最近の空也は運に見放されていた。

 地方から上京し、大学生となって半年経つ。空也が通う大学は華やかさで有名なキャンパスで、学生は男女ともに流行のファッションで堂々と街を歩き、幼少の頃から培われたであろう才能と自信に満ち溢れていた。田舎出身で安いアパートに住む空也が、とても馴染める世界ではなく、新しい友人も出来ないまま、十代最後の夏は過ぎていった。

 それでも、そんな惨めな生活と決別しようと、この秋から気持ちを新たにした矢先――。

 昨日は学食の券売機で割り込まれた上に、なぜか舌打ちされた。

 今朝は電車に乗り込むや、いきなり痴漢に間違われそうになった。

 そして極めつけが、たった今被害に遭ったひったくりである。最も狙われにくいと思われる大学生の男が、白昼堂々、都心のど真ん中でバッグを奪われたのだ。


 空也は走ってきた道をノロノロと引き返し始めた。


 腹が鳴った。


 大通りの脇道はちょうど日陰になっており、涼しいビル風が吹きぬける。空也は近くにあった花壇のブロックに座り込むと、コンビニの袋から緑茶を取り出し一口飲んだ。

 バッグの中身を思い返して、再び空也は頭を抱えた。

「レポートのメモリも入ってたんだ……ちくしょう……」

 これもまた運悪く、印刷途中で自宅のプリンタが壊れたため、大学で続きの作業をしようと持ち歩いていたものだった。データそのものはパソコンにも入っているが、今一度メモリを買う出費が痛い。そもそも、買うための金もキャッシュカードもない。幸い、定期券とスマートホンだけはポケットに入れていたので、空也は銀行に電話をして、口座から金を引き出せないように依頼した。

 ビルの間からのぞく青空を見上げる。

「神さまがいたら、きっとオレを見て笑い転げてんだろうな」

 最近、何かと神さまという存在を考えしてしまう。その理由は、理系の空也が興味本位で履修している古事記と神道の講義だ。出席チェックも厳しければレポートも難しい。真面目に取り組まざるを得ないわけだが、意外と内容は面白かった。

 古事記――国の成り立ちや伝承、神話をまとめた我が国最古の書物らしい。さらに、講義は日本人の信仰や文化にも触れている。この国では八百万の神々が信じられているというが、もちろん八百万というのは正確な数ではなく、膨大な量ということを表している。海にも山にも、台所にもトイレにも、そこら中に神さまが――。

「本当にいるのかよ。そんなにいるんだったら、一人くらいオレを助けてくれたって良いじゃんかよ」

 空也は袋からおにぎりを取り出して口に入れた。


 八百万の神々――。


「最初の神さまなんか、名前が出たら出番終了なんだからヒマだろ?仕事しろよな」

 その印象が強すぎて、最初に現れたとされる神の名前はハッキリと覚えていた。古事記の最初の一行は、そのやたらと長い名前だけを紹介しただけなのだ。一体、何のためにわざわざ現れたのか、不思議でしょうがない。

 空也は緑茶でおにぎりを腹に流し込むと、東京の青空に向かって手を打った。

「確か」


 天之御中主神あめのみなかぬしのかみだっけ。


「アメノミナカヌシノカミ様っ!助けて欲しいッス!マジでっ!」

 その声は、乱暴運転で走りぬけるタクシーのエンジン音にかき消された。どうやら、この道は渋滞を避ける近道のようだ。

 空也が最後のおにぎりを手にした時だった。


 人の気配がする。

 しかも、すぐ隣で。


「う、ぉ」

 あまりの至近距離につい声が出てしまった。横で座っているのは茶色い髪をした若い男だ。


 ――都会の人は縄張りがあるのか。


 空也は、さも何もなかったように取り繕い、そっと立ち上がった。

「どうした。何用じゃ」

 男が空也を見上げた。人懐っこい笑みを浮かべている。美容院の客引きか何かだと思ったが、こんな狭い路地裏だ。場所的にあり得ない。

「な、何でもないッス」

 まさか話しかけられるとは思わなかった。急いで立ち去ろうとすると、男は空也の手を掴んで立ち上がった。

「何でもないことはなかろうに。おぬし、ワシの名を呼んだではないか」


 ――。


 空也は身体中に嫌な汗をかき始めた。相変わらず男は笑みを浮かべている。

 関わってはまずい。この夏の異常気象のせいで、おかしくなる人間もいるのだろう。

「えっと、呼んでないッス。すみません。オレ帰るッス」

「わはは。照れておるのか。なかなか心に響く叫びであったぞ。そうでなきゃいかん」

 男は持っていた布袋から何やら取り出した。

「こんなもので願いが届くわけなかろうに。温いわ。実に温い」

 手にしているのは絵馬だった。普通なら神社でしかお目にかからないものだ。

「宝くじが当たりますように?ヒロポンと結婚できますようにじゃと?だいたい、ヒロポンとはどこの誰じゃ。宝くじとは何じゃ」

 男はため息をつきながら絵馬を布袋に戻した。空也は男の独り言を無視し、背中を向けようとしたが、今度は肩を捕まれた。

「されど、おぬしは別じゃ。気に入ったぞ。助けてやろう」

 男はおにぎりに指をさして、ニコニコ笑っている。

「その前にそれは何じゃ。食い物か?美味そうじゃの」


 ――ああ、新手のカツアゲなのか。


 幸か不幸か奪われるべく財布もない。おにぎりだけでこの場から逃げられるなら、何を厭う必要があるだろう。

 空也はおにぎりを差し出した。

「どうぞ。高菜ですけど」

 男はしばらく珍しそうにおにぎりを眺め回し、口に入れた。

「えっ!ビニール剥がさないとっ」

「それならそうと早う言え。このヒラヒラは食えぬのか」

 しかし、男はおにぎりを取り出すのに四苦八苦していた。ふざけている様子でもないので、仕方なく空也は代わりにビニールを剥いでやった。

 男は笑みを浮かべながら、かぶりつく。

「んまいっ」

 目を輝かせ、男はおにぎりを見つめた。

「これは米か?実に見事なり。人間はいつまで経っても米が好きよのう。ワシも好きじゃ」

 終始、笑顔で食事を済ませると男は空也の額に手を触れた。

「わっ」

「おぬしからは供え物をいただいたからの。ふむふむ。その袋を探しておるのじゃな」

 唖然とする空也をよそに、男は自分の額にも指を当て、さらにそれを天に向けてゆっくりと回した。


「タカギーッ」

 とんでもない大声がビルの谷間に響き渡る。

「ムスヒーッ!ウマーッ!トコタチーッ!探してたあもぉれぇえっ!」


 静寂。


 人通りが少ない道で良かったと心から思った。いよいよ逃げ出さなくてはならない。

 空也はコンビニの袋を丸め、隙をついて男から逃げた。しかし、恐ろしい速さで男が空也の腕を掴んだ。しかも予想以上の強い力だった。

 空也は抵抗しながら声を荒らげた。

「もう!さっきから本当に、な、何スか!」

「ところで、おぬしはこの界隈に詳しいかの?社に遊びに行った帰りなのじゃが、どうも道に迷ったようじゃ。タカギの茶屋に行きたいが、細かい場所がわからぬ」

 空也はにわかに合点した。


 ――もしかしたら、こう……精神疾患とか、障害がある人なのかな。


 それなら、急ぎ帰り道を探し、しかるべき場所に送り届ける必要がある。

 しかし――。

 差し出されたのは、右上に〝大八島〟と書かれている日本地図だった。

 どう見ても地形が微妙におかしいし、タカギの茶屋とやらに導いてくれる要素はなかった。

「他に、もっとこう何か手がかりはないんですかね。あいにく、そこまでオレも土地勘があるわけじゃないんで」

 無難に対応すると、男はたいそう困り果てた顔をした。

「周辺の地祇らに聞けば良いのかもしれぬが、ワシらが人界におるのは極秘じゃからの。知れ渡ったらえらいことになる」

 やたら難解の言葉を使われ、空也は考えを改めた。


 ――これ、視聴者を騙すアレか?


 テレビ番組の企画ではないかと思い、周囲を見渡してカメラを探した。

「どうしたのじゃ?」

「ちょっと、オレは騙されないッスよ。もしかして、ひったくりのところから全部ヤラセだったとか?こういう番組ばかり作るから、真似するバカが増えるんスよ?」

 空也が強引に男の腕を振り払った時、ふいに足の感覚がなくなった。

「え?」


 目の前の男が腕組みをしたまま宙に浮いている。

 花壇のブロックも。

 電柱も。

 昼寝中の猫も。

 駐車場の車も。

 そして、空也も。


「なるほど、ワシを疑っておったのか。タカギの言うとおり人間は繊細なのじゃな」

 男はブツブツと独り言をもらすと、空也の前に降り立った。

「天之御中主神。ワシの名じゃ。しばらく前からこの人界におる。で、おぬしの名は何という?」

「ひ、ひぃいいいっ」

「怖がらずとも平気じゃ。それとも、そういう名なのか?」

 空也は地面に這いつくばりながら、おかしくなった呼吸と心音を無理矢理整えて切れ切れに答えた。

「や、八嶋空也ですぅ。アメノミナカヌシノカミ様……」


 神さまだ。

 神さまだ。

 神さまだ。


 疑っても仕方がない。呼んでしまった。

 今、自分は間違いなく宙に浮いたのだ。

 科学では考えられないことが起きてしまった。

「空也か。良き名ぞ」

「あ、ありがとうございます。アメノミナカヌシノカミ様」

「長いわ」

「へ」

「ワシもおぬしのように、短い呼び名が欲しい。ほれ、呼んでみせい」

 空也はしばらく考え、ミナカさん、と呼んでみると、男は満足そうな笑みを浮かべて空也の腕を引っ張った。

「素直な奴じゃ。ますます気に入った。それで、タカギの店はどうしたら見つかるかの」

 ミナカは再び古い日本地図を見せてきた。どうやら本当に知人の店だけが目的らしい。

 もはや自分の常識も思考力も頼りにならない。とにかく、この神さまを目的地に送り届ければ良いだけなのだ。空也は熱病にかかったような頭を叩きながらスマートホンを取り出した。

「ちょっとネットで検索してみます。タカギさんという人がやっている茶屋……喫茶店とかですかね」

 ミナカが珍しそうにスマートホンの画面をのぞきこんだ。

「ほほう。ここしばらく人間が何やら下を向いて歩いていると思えば、これのせいじゃな?何か物を落としたわけじゃないのか。ワシとは違うのう」

「何か落し物したんスか」

「こちらの話じゃ」

 言葉使いは古めかしいが、あくまで眼前にいるのは若い人間の男だ。しかし、次第に空也の中から警戒心が薄れてきていることに気づいた。それはそれで戸惑ってしまうのだが。

 インターネットの検索画面には、東京都内の喫茶店一覧が並んだ。その数に目が眩む。

「ここから一軒だけ探すのは厳しいッスね。やっぱり詳しい情報が欲しいッス」

 その時、上空から妙な鳴き声が聞こえた。トンビか何かだろうか、一羽の大きな鳥が旋回している。

「こんな都心に珍しいな。それとも巨大なカラスかな」

「まさに烏じゃ」

 ミナカの目が嬉しそうに細められた。

「さすがはタカギ。ワシの居所に気づきおったわ」

 烏はゆっくりと方向を変え、ビルの谷間に消えていった。

「行くぞ、空也。あやつを追うのじゃ」

「え、追う?」

 ミナカは空也の腕を引っ張り、大通りに向かった。すでに烏の姿は見当たらなかったが、その足取りは迷子になっていたとは思えないほどしっかりとしたものだった。空也は歩きながら再びスマートホンの検索画面を開くと、現在地の近くに喫茶店が一軒あることがわかった。

「ミナカさん、近くにそれっぽいのがありますよっ」

「うむうむ。確かにそれらしい気配を感じるのう。どれだけ押さえつけようと、タカギの力はワシにはお見通しじゃ」

 ついに大学近くの大通りまでやってきた。そこから路地を縫うように歩いていくと、左側には広い公園が現れ、雑貨屋、花屋などが並んでいる。このような場所があったとは。

 ミナカの歩行速度が上がった。その先に古びた店がある。


 看板には『喫茶高木』と書かれていた。


「ご苦労。ここじゃ」

 ミナカは嬉しそうにドアを開けて空也を手招きした。どうしようか迷ったものの、入り口の前をふさぐわけにもいかず、空也は意を決して中に入った。


 アンティーク調のどこか懐かしい雰囲気の店内には、客はおろか店員の姿もない。

 ただ、カウンターの方から音がしている。

「タカギ、ワシじゃ」

 音が止んだ。

 しばらくすると、カウンターの中で座り込んでいた男が立ち上がった。白髪のせいで高齢に見えるが、背は高く姿勢も良いので、老人とするには抵抗がある。何より、紳士的な風貌が魅力的だった。


 もしかして、この男も――。


主殿ぬしどの、その御方は」

 目を丸くした店主はミナカと空也を交互に見つめる。その穏やかな顔立ちと声色に、空也は安堵した。

「この人間は空也という。ワシの名を呼んで助けを求めたから救ってやったのじゃ。その代わり、迷子となったワシをここに連れてきてくれたのじゃ」

 ミナカはカウンター席に座ると、空也を隣に呼び寄せた。

「これはこれは」

 店主は空也に恭しく頭を下げた。

「主殿を助けていただきありがとうございます。それで、あの」

 困惑する店主にミナカが片手を振った。

「心配するな。最初は疑っていたようじゃが、すでにワシの素性は明かしておる」

「やはり、そうでしたか。テーブルや椅子が一斉に宙に浮いたので、主殿の仕業だと思いました。世間的には広範囲の地震となっているようですが」

 店主はため息をつくと、空也に再び頭を下げた。

「ならば、私も自己紹介させていただきましょう。高御産巣日神たかみむすひのかみと申します。高木神とも呼ばれているせいか、身内ではタカギで通っております」

「た、タカミムスヒノカミ……」

 古事記で二番目に出てくる神の名前だ。確か授業でも、この高御産巣日神は最高位に近く、実質的に天界を治めている神だと説明された。そう聞くと、猛々しい神さまを想像してしまうが、目の前にいるのは、優しく微笑む初老の紳士に他ならない。


 もしかして――。


「さっきミナカさんが名前を叫んでいた人たちって……」

 空也の言葉に、ミナカは指を回しながら笑った。

「そうじゃ。五柱の別天神ことあまつかみがこの人界におる」

「えっ?おるって、マジっすか?」

 別天神とは、八百万の神々の中でも特別視されている神々だと講義で習った。ただ、教授の説明はそれだけだったが。

「そんな偉い神さまたちがどうしてここに?」

タカギが笑いながら、空也の前にコーヒーを差し出した。芳香が漂う。

「驚かせて申し訳ありません。我々は末裔らが作り上げた『葦原の中つ国』……すなわちこの人間の世界を偵察しているのです。なかなか興味深い場所ですね」

「どれくらいここにいるんですか?」

「最近です。ちょうど町中で民衆が『ええじゃないか』と歌いながら踊っていましたね」

「あの祭り、今度はいつ頃やるのかのう」

 空也のわずかに残った日本史の知識が確かなら、ええじゃないか乱舞は江戸時代の終わりだったはずだ。かなり昔から人界にいるようだが、彼らの感覚とは隔たりがあるらしい。

 あらためてミナカとタカギを見つめる。どこからどう見ても、普通の人間だ。

「ああ、私たちの風貌が気になりますか。元より、我ら別天神は形を持たなかったものですから、こうして無理矢理に人間の真似をして溶け込んでいるのです。何とかそれらしく振舞いが出来るようになりましたが、主殿はまだ苦手なようですね」

 タカギがオレンジジュースを差し出すと、ミナカは口を尖らせた。

「人間は決まりが多すぎる。色々と楽しいことは多いが、ちと面倒じゃ」

 カラン、と快い音が響く。買い物帰りらしき女性二人が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 タカギが注文を取りにフロアに出た。当然、女性客はタカギが神さまであるなどと疑うことなく、ケーキセットを頼んでいる。空也は店の中をもう一度見渡した。どこをどう見ても、普通の喫茶店だった。元々は誰か他の人間の所有だったのだろうか。いや、神さまともなれば、その力でこんな店の一つ二つ簡単に作り出してしまうに違いない。この人間社会を偵察しながら楽しんでいるようだが、それほど天界は、神さまにとって退屈な場所なのだろうか。


 ――おいおい。


 自己紹介されただけで神さまを容認している自分に思わず苦笑する。今見ているのは、ごくありふれた日常である。あの二人がとんでもないペテン師だということも有り得るのだ。しかし、さっきの空中浮遊はどうにも説明することができない。やはり、空也の目の前にいるのは神さまたちなのか。深く考えようとすると、頭が痛くなってきた。

 タカギが紅茶のポットを用意しつつ、ケーキ(自家製らしい)を取り分けている。それほど広い店内ではないが、一人で全てこなすには大変そうだ。さらに来客は続き、営業か何かのビジネスマン二人が汗を拭きながらテーブルについた。未だに空也は自分の置かれた状況に困惑しているが、目の前でタカギが忙しそうにしているのは放っておけなかった。

「タカギさん、オレで良ければ手伝います。何をすれば良いッスか?」

 紅茶の茶葉を用意していたタカギが眉を跳ね上げながら言った。

「何をおっしゃいます。空也殿はそこにいる主殿の話し相手をして下さるだけで、私は大助かりです」

「そんな、この人も子供じゃないんスから……これを運べば良いッスかね」

 空也は女性客のところへ紅茶とシフォンケーキを持っていった。次いで、二人のビジネスマンにもコーヒーを運ぶ。その片方が軽く会釈をして空也に謝意を表すと、すぐに資料に目を落とした。

考えてみれば、始めての接客体験だった。

自分の意外な積極性に戸惑っていると、さらに来客は続き、結局、そのまま空也はタカギの仕事を手伝うこととなった。

 夕方の六時になった時、店内に静けさが戻り始めた。タカギは一息つくと、空也にコーヒーを淹れた。

「何だか申し訳ありません。本来はお客様なのに、もてなすどころか給仕のようなことをさせてしまって」

 タカギが折り目正しい礼をすると、ミナカが腕を組んで言った。

「これ、タカギ。空也は労働したのだから、人間社会の決まり、お給金が必要じゃろ」

「もちろんです。空也殿、少ないですけどこれをお受け取りください」

 手渡されたのは、白い紙に包まれた一万円札だった。

「い、いらないッスよ。こんなにたくさんもらえませんよ」

「本当に助かったのです。最近になって、どういうわけか人気が出ているようで、お茶の時間から夕方にかけてが一番混雑するんです。できれば、時々でもこうして手伝っていただけると嬉しいのですが」

 タカギは苦しそうに空也を見つめた。仮に本当に神さまなら、どうしてこんなにも人間に対して謙虚なのだろう。

「わかりました。オレも金がないと困るので助かります。ただ、ちょっと高過ぎだと思うんスけど……いくら都内でも四時間働いて一万って……」

「お金は気にしないでください。もちろん、こちらも運営費は必要ですけど、人間ではないので、過度な生活費はいりませんからね」

 この声の安心感は何なのだ。不思議と幸せな気持ちになり、今日のひったくりのことも忘れてしまいそうだ――。

「いやいや!そうだ、バッグだよ!」

 慌てて立ち上がった空也の腕を、ミナカが引っ張った。

「な、何スか?」

「空也、金品を手に入れたな?それなら、飯じゃ。飯を買いに行くぞ」

 ミナカは両手で三角を作った。

「タカギ、この人界にはたいそう美味い飯があるのじゃ。その名も高菜おむすびじゃ」

「高菜ですか?主殿、それならタカギも作れます。この国に昔からあるものですので」

 ミナカが手放しで喜ぶ様は微笑ましかったが、完全にこちらの事情は忘れているようだ。


 ――諦めるか。


 空也はグレーのバッグを思い出してはため息をついた。

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