第74-1話 逃走劇(1)

「アタシたちを理解してくれる人の下、だよ」


 陽咲乃の言い放ったことを、勇香はすぐに嚥下できなかった。いくら反芻しても、結論はただ一つ。理解してくれる人は向う側に封じられてしまったのだ。


「でも……」


 もうあの地獄を拠り所にはしたくない。しかしたったひとりの拠り所にこのまま縋り続けても、いつか解放されるという眉唾な夢を見ているだけ。地獄はまだ続くのだ。


「大丈夫、絶対に逃げ切るから。それにアタシ、魔王軍の諜報員スパイなんだって?」


 冗談でも話すかのようにあっけらかんと陽咲乃は口にする。これが冗談でないのは承知の上だろう。

 陽咲乃を魔王軍と認識した時点で、向う側は彼女を学園の生徒とは扱わないはずだ。

 生徒という肩書縛りがなければどんなことでもできる。あの女性講師のように、学園を追放されるだけでは済まされない罰を受けるのは明白だ。


「陽咲乃は魔王軍じゃない」


 かといって、どんな策を練ろうが夢から醒めることはない。夢は夢のまま、目覚めた時には再び地獄に堕ち、死ぬまで地獄を味わい続ける運命しか想像できない。

 そんな自分が情けない。今すぐ舌を噛み切って死んでしまいたい。陽咲乃が解放されるのなら、そんな一縷の望みに賭けて。

 実際は恐怖が打ち勝ってそれもできないのだ。勇香にできるのは、陽咲乃を肯定することだけ。


「ありがとっ」


 陽咲乃は俯く勇香の頭を撫でた後、ポーチをまさぐり球状の魔法具を取り出した。


「なら、アタシに任せなさい」

「陽咲乃は盗賊だよね?便利な道具でも持ってるの?透明化とか」

「光を操るタイプの魔法具もあるっちゃあるけど、これ学園都市街の魔法具店でも滅多に入荷しない貴重品なんだよなぁ~。しかも、姿は隠せても魔力までは覆い隠せないしね」

「そ、そうなんだ」

他人ひとの魔力を覗けるヤツなんて魔獣以外には滅多にいないけど、一応相手が相手だから。それ系の魔法具とか隠し持ってるかも知らんし」

「へっ、へぇー……」


 こんな状況でも呑気に考察できる陽咲乃を、呆れながらも尊敬してしまう。

 陽咲乃はポーチをごそごそまさぐり、薄墨色の球体を取り出す。


「というわけでコイツを使います」

「なにそれ?」

「簡単に言えば、を覆い隠す魔法具。透明化ができない代わりに魔力、足音、声音、足跡、影等々……自分の痕跡を五感で他者に伝える要素を完全に遮断できる」

「便利な道具だね」

「噂によればオーラも消せるらしいぞ?」

「オーラなんて非現実的な」

「勇香のオーラは残尿レベルだもんなー」

「煽ってくるなぁ……」


 陽咲乃は球体を空中に軽く放ると、それはバブルのように膨れ上がり、やがてふたつに割れた。片割れは廊下の方にふわりと飛んでいく。

 残ったバブルには、廊下の映像が映りこんでいた。


「すごっ……」


「まっ、哨戒機みたいなもんよ。気配ナシ……透明化してる可能性もあるけど、もう後には引けない。行くよ」

「うっ、うん」


 陽咲乃は爪を立ててバブルを割ると、勇香に告げた。人の気配を確認してから廊下に出る。今度はポーチから取り出した別の魔法具を片耳に装着する。


「ワイヤレスイヤホン?」

「違いますー!魔力探知よりはいろいろと劣るけど、付近の物音を集音して人間を認識できる魔法具ですぅー!!」

「ていうか会話してて平気なの?」

「あんたが言う?さっきの魔法具の効果でアタシら以外には聞こえない仕様になってるから、全然問題ないの!」

「そっか」

「なにその思ったのと違う~って顔?」

「そうじゃなくて」


 呑気な会話をしながらも、陽咲乃はバブルを先行させながら廊下を駆ける。交差路に差し掛かるといったん足を止め、魔法具で発生させた大量のバブルをそれぞれの道に飛ばして人の気配を確認する。しばらくはそれの繰り返しだ。

 陽咲乃の制服のポケットには、移動中に詰め込んだありったけの透明化の魔法具が。いざとなればこれで存在も消失できる。


「って」

「……」


 陽咲乃と勇香は数分でエントランスに到着した。


「アイツらいないんかい」


 談笑しながら廊下を歩く生徒の姿は見られたが、委員会らしきスーツ姿の人間はひとりも見られなかった。

 ギリシャの神殿を思わせる此処にも、スーツ姿の女だけではなく、生徒の姿も見られない。


(完ッ全に舐めてやがるな)


 憤慨半分物足りなさ半分で歯をギリギリとさせる陽咲乃に、勇香はため息をつく。 


「おっかしいなぁ。海外ドラマみたいな逃避行アクションできると期待したのに」

「ここ現実だよ陽咲乃」

「うるさい」

「……っ」

「わかってるよ。捕まったら一巻の終わり。だからこんな貴重な魔道具モン大量消費してんだから」


 陽咲乃は二本の指で球状の魔法具をコロコロと転がしながら辟易を吐いた。


「そろそろ、下校する生徒の数が増えていく頃かな。ここから先は難易度下がりそ」

「そんな一筋縄でいかないよ」

「結界対策の魔道具も常備してる。懸念はあるけどよっぽどがない限りへっちゃらだよ」

「そのよっぽどを平気で仕掛けてくるのが委員会なんだけど……」

「いったんあそこに隠れるよ」


 陽咲乃はエントランスを見渡し、最も隠伏できると判断した階段裏に身を潜める。


「静かだね」


「授業中の教室もあるからね。とはいえそろそろ下校する生徒をちらほら見かけてもいい頃だけど……」


 しばらく身を潜めてエントランスの様子を伺うふたり。

 此処に来るまでに一度たりとも邂逅しなかった委員会の動向を探るつもりでいたが、残念ながらエントランスを通り抜けるスーツ姿の女は誰ひとりとしていなかった。


 時刻は夕方の五時を回った頃。通常ならもう少しで、ぽつぽつと下校する生徒らが現れる時間帯だ。その生徒らに紛れて移動する計画だったが、今のところエントランスに降りてくる生徒の姿もない。

 

「アタシら捕まえるために、どっかへ誘導してんのか?」

「あり得なくはないね。学園長も手中に収めているんだし、実質的に学園の主導権は委員会にある」

「くそー!そうなると、ルートはかなり絞られてくるな~」

「陽咲乃、改めてだけどほんとに緊張感ないね」

「ぷくっ!だよね~。アタシたち指名手配されてるんだよ。ほんっと夢みたい」


「……」


『こうやって平然と話せてるのだって、あんたみたいに目先の恐怖から逃げてるだけなんだから』


 勇香にも理解できなくはない。逃げなければ、この状況を冷静に対処することはできないのだから。


 陽咲乃はおもむろに自分の左手に目を凝らした。


「まだ付け焼き刃だけど、潜伏術を学んできてよかった」

「ねぇ、あのさ」

「いきなり大ベテラン相手に使おうとは思わなかったけどねぇ〜、ほんとしんどいわぁ~早く終わらせてカラオケ行きたい」

「待って、この話だけ聞いて欲しいの!!!」


 楽し気に語る陽咲乃の制服の裾を、険しい顔をした勇香が引っ張る。


「どしたん?」

「ごめん……陽咲乃は本当にいいの?霧谷先生のことは話したよね。さっきも言った通り、向こう側は何をしてくるかわからない。もし捕まれば、陽咲乃は学園を追放され……」

「もう、後の祭りだよ」

「じゃあ猶更!今私を向う側に引き渡せば、私の説得次第では、陽咲乃の罪をもみ消すことだってできるんだよ!!」


「絶対嫌だ」


 途端に、陽咲乃のキリッとした黄金色の瞳が勇香を射抜く。勇香は息を呑んだ。

 同時に紡がれた、強く引き締まった声と言葉。


「権力には屈しない。最後は正義が勝つ」


 陽咲乃は今、委員会という脅威から目を逸らし、夢を見ているはずだ。真っ暗な未来を進むことを拒み、迷子になっているはず。勇香と同じ、惨めなはず。


 だけど、これだけははっきりと言える。


 逃げているだけなら、こんな声は出せない。



「正義って……今はそんなこと言ってる場合じゃ」


 冷静なのに、大人びているのに、子供じみた陽咲乃の決意。

 その決意は、勇香に安堵すら芽生えさせた。


(なんで陽咲乃は、陽咲乃のままでいられるの……)


「答えは簡単!逃げきっちゃえばいいの!盗賊のアタシ逃走のスペシャリストがいれば絶対に逃げ切れるから!」

「そんな簡単に行くわけないよ。だいいちどこに逃げ切るのさ!生徒会だって委員会相手に頼りになれるのか未知数だし」

「そんなの知らん!」


 さっきまでの甲斐甲斐しかった陽咲乃は嘘だったのか。勇者はきっぱりと告げた陽咲乃に脱力してしまった。


「いい加減緊張感持とうよ!」

「まっ、無策で挑んだわけじゃないし、最終手段もきちんと考えてある。アタシに全部委ねればいいんだよ」

「いや、最終手段って……」


「さぁ、行こう」

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