第74-2話 逃走劇(2)

 夕刻、オレンジの斜陽が差し込み始めた経営企画室に、ふたりの老婆の姿。

 ひとりは此処の主が使用するデスクの前で背を伸ばした、藍色のカーディガンを羽織った濃紺髪の女。

 もうひとりはデスクの奥。チェアに腰かけながら雄大な外の景色に恍惚とした表情を浮かべる、白髪を交えた黒髪の女。


「ひとつだけ、腑に落ちないことがあります」


 濃紺髪の女は、黒髪の女がエスプレッソを一口啜ったのを見て、ふと切り出した。


「言ってみなさい」

「貴方がなぜ、『魔王の討伐』に執着するのか」

「……ほぅ」


 黒髪の女は、問いを投じた濃紺髪の女に鋭い眼刺しを突きつける。


「失敬、休憩のお時間でしたね。ご満足でしたら退室いたします」


「話し相手がいるのも一興……ですか」

「?」


 黒髪の女はチェアから立ち上がり、濃紺髪の女をデスクの手前にある応接スペースに誘導した。


「まず、あなたの理由ワケを聞きましょうか」


「この学園の為来りを破ってまで、彼女を英雄に仕立て上げ魔王の討伐を謀る。勇者として、使命を果たすための蛮勇と評せば真っ当なのでしょうが、私には貴方が生き急いでいるようにしか思えません」

「生き急いでいる……ですか」 


「勇者道に叛いてまで、あなたは本当に『魔王を討伐』したいのでしょうか?」


 黒髪の女はふと視線をデスクに移した。いや、デスク越しの窓に映る景色に目を輝かせている。


「あれをずっと見ていられるから、それでは蹴り落しますか?」

「なるほど」


 黒髪の女の言葉には、これ以上の詮索はするなとの意味合いが含まれている。少なくとも濃紺髪の女はそう悟った。

 とは言えど、おいそれと引き下がれるほど、興味が希薄なわけではない。


「僭越ながら、私の目からすれば、貴方は『悪人』にはふさわしくない」

「悪人、あなたにもそのような認識が」

「ふっ、私も善悪の尺度くらい判別できますわ」


「失敬」


 黒髪の女は濃紺髪の女の発言を制止し、右の耳珠に人差し指を添える。


「……ほぅ」


 黒髪の女はなにやら空に向けて独り言を呟いている。がっ、その文言は濃紺髪の女ではない誰かと会話をするような口ぶり。


「えぇ、了解しました。土牢に収監後、アリスに隔離結界の要請を。見張りは十ほどで構いません。あの女は未だ私たちの希望です。殺生は控えるように」


 濃紺髪の女も勇者時代から多用してきた、魔力を介して遠くにいる他者とコミュニケーションを取る魔法だ。送信者は囁く程度の声音で詠唱をしてから信号を発信。受信者は魔法の信号を静電気のような刺激で受取り、耳珠で耳孔を閉ざし環境音を拒絶することで会話する。


「通達は以上です。あなた方はやるべきことを」


 話は終わったのか。答えを聞けていないと、濃紺髪の女は押し黙って黒髪の女に目をやった。


「難しいことではありません。勇者にも使命があるように、私はの教理に准えて、教育者としての使命を果たしているだけのこと」

「教理……」

「魂という非科学的な存在を信用してはいませんが、例えるならそれは、我一族の魂に代々刻まれた呪い……とでも形容しましょうか」


 黒髪の女は観念したのか。それとも、相手が濃紺髪の女だからか。


「少し、自分語りを」


 黒髪の女は膝に手を置き、追想に更けた。


 *


「覚醒という言葉がありますが、本質を辿ればただの生存本能です。火事場の馬鹿力──人間は死に瀕した時、理性や常識などという皮を破り捨て、真なる人間に進化を遂げる。すべては、生への執着のために」

「なるほど」

「すなわち“死”を再演すれば、自ずと人間は成長する」


 魔王討伐とは、人間が死と向き合うこと。“死”の再演は黒髪の女が率いる現在の学園統括委員会の教育方針でもある。調和を重んじるオフィーリアの思想とは対極に位置するが、黒髪の女は常日頃からそれを是としている。


「教育に知恵、協調、自主性など必要ない。必要なのはたった一握りの絶望だけ。それが我らに代々伝わりし教理です。我が一族は“死”の再演に手段を厭わなかった。ある者には数か月の鞭打ちを、またある者には一年未満の磔を。体罰、拷問、ハラスメント、現代の向こうならスパルタだの尊厳破壊だのと排斥されるものを、平気でやった。人間として、生命として自然な本質を呼び覚ますために」


 肝を潰すようなそぶりもなく、聞く耳を立てる濃紺髪の女。黒髪の女はほくそ笑む。


「この学園の土を踏まねば勇者として大成できない。それがこの世界の理。よって我々もそれに倣い、初歩的な教育はこの学園で学ばざるを得なかった。となれば必然でしょう。勇者として地に足がついたばかりの私は、一族の教育を生理的に嫌悪していました。学園に順応するうちに、私はすっかり学園長の色に染まっていたのです」

「貴方にもそんな時代がおありですか」

「そんなある日、私は実践訓練中にある巨人級ギガントクラスに遭遇し、命を落としかけた」


 それは、三年次に行われる対魔獣実践訓練という演習の最中だった。

 護衛のために訪れた村に、三十メートルを優に超える巨大な蛇の魔獣が現れた。黒髪の女を含めた十人の実習生は村人を村のシェルターに避難させ、引率の勇者二人は魔獣に立ち向かった。 


 戦闘を始め、しばらくは安泰だった。ベテランの勇者ふたりが魔獣を寄せつけ暴走を制御し、後方から実習生たちが魔法を放ち遠隔攻撃。こんな一辺倒な戦闘でも、前衛である勇者ふたりの十全な連携により、魔獣に大打撃を与えたのは言うまでもない。


 それは魔獣の活動が鈍り、勇者が最後の一撃を与えんと駆けだした時。

 魔獣の傷口から、流れ落ちる滝のように粘液が噴出した。それは地面に付着するなり霧状になって拡散、瞬く間に村中に充満した。


 勇者のひとりは霧の解析を賢者職の実習生に指示。その他はガスマスク代わりの極小結界を顔部に展開し、勇者ふたりが蛇龍に最後の一撃を放つ。


 シェルターから絶叫が聞こえてきたのは、それと同時だった。


 これは事後調査にやってきた勇者隊のひとりによる、シェルター内で起こった惨劇に対する見解である。


 霧はシェルターにいた者たち全員の歯車を狂わせた。彼らは自らの顔を殴打しながら発狂し、しまいにはシェルターの内部に保管されていた鍬や短剣などの武器を取った。


 次に起きたのは殺し合い。互いが互いを脅威と認識し、本能のままに強襲。最後に残ったひとりの大男も自ら喉を掻き斬り、推定約十分で村人は全滅した。


 すべてが終わり、黒髪の女がシェルターを訪れた時。彼女が見たのは、山積みになった村人たちの死体。


 しかし、これは始まりに過ぎない。


 枷が外れたのは勇者側もまた同じ。


 解析を行っていた賢者職を発端とし、黒髪の女を除く実習生全員が吐血。眼も涙も紅く変貌し、荒れ狂ったように次々と発狂し、自分を除く人間に向けて牙を剥いた。


 勇者のふたりは魔獣のように狂った実習生に頭蓋を潰され、喉を噛み切られ、あっけなく死んだ。

 実習生たちは絶叫しながら互いに剣先を向け、殺し合いを始めた。

 勇者の死に際を眺め、呆然自失とする黒髪の女。それでも、脳内は目の前の状況を勝手に処理してしまう。状況を把握した黒髪の女が次に取った行動、それは発狂だった。


 現実を拒絶するために、脳を黒く塗りつぶすために。耳をつんざくような奇声をあげ、自らも人格破綻者を演出する。皆と同じになれば、少しは安らげると思ったのだ。


 この現実を肯定しないために。


 しかし、時間は絶え間なく動き続ける。

 黒髪の女の発狂に呼応するように、実習生のひとりが襲いかかった。


 瞬間、黒髪の女の胸の奥から湧き出した葛藤。 

 認めたくない、このまま素直に終わりたかった。それなのに黒髪の女からボコボコと湧き上がったそれは、激しい頭痛を催すほどわんわんと存在を主張する。


 ──死にたくない。


「仲間の勇者を殺害され一回、自らの命を脅かされ一回。計二回。私は覚醒した」


 突如、理性という壁を突き破り、黒髪の女の脳内に学園で会得した知識のすべてが循環した。黒髪の女はそれらをひとつひとつ摘み取り、杖に集約させ、放出した。


「命を死守するために魂を燃やし、血眼になりながら延命の策をひとつまみづつ試行した」


 黒髪の女の思考回路はとっくのとうに死んでいた。一連の動作は、すべてが本能が女を制御したと言って差し支えない。

 親しかった彼女。その上半身を吹き飛ばした光景は、今も記憶にこびりついている。


「しかしながら、覚醒したところで巨人級ギガントクラスには敵わなかった。なにもかも、遅かったのです」


 直後には大量の深紅が黒髪の女に振りかかった。皮肉にも、そうして黒髪の女は自我を取り戻す。

 身体に浴びた深紅を指に付着させ、黒髪の女はまじまじと凝視する。


 指に付いた深紅を、舌尖で掬い上げた、


 深紅の意味を五感で断定した、


 阿鼻叫喚が止み、刹那の静寂が訪れた、


 こんな時に蘇ってほしくもない記憶を、走馬灯のように掘り起こしてしまった。


 学園で過ごした、彼女たちとの日常。


「調和を選択した私は、たった二回の覚醒で巨人級ギガントクラスに挑んでしまった。私が選んだ最後の策は死の予見。そして、命乞いです」


 その後のことは黒髪の女ですらよく覚えていない。すべてが終わった時、黒髪の女は当時まだ勇者だった母親に助けられていた。


「結果的に私は命を取り留めた。しかしその一週間後、私は精神を病み、学園長の温情で学園を辞めました。そんな私を待ち受けていたのは、母による教育でした」

「教育ですか」

「母は我らの権威を引き合いに出し、母の教育が終了した時点で私を一端の勇者と認めるよう学園長に詰め寄った。学園長が奥歯を噛みしめながらそれを受諾していた様子を、母は嬉々として私に語っておりました」


 母は「精神療法を中心とした教育」と話したという。生徒を眼前の第一に添える学園長なら、頷いても当然である。


「それからは、毎日が地獄だった。母以外の人間との接触は禁じられ、私は暗渠に収監され、死すら渇望するほどの施しを受けた……それ以降は、割愛させていただきましょう。語られるべきは過去ではない」


 黒髪の女はふと、自らの左肩に右手を添えた。


「なるほど、その傷は」

「どうしました?」

「いえ、名だたる勇者を代々輩出してきた名門が名門たる所以。知識に落とせるなんて、光栄ですわ」

「持論ですが、これが裏日本こちらでの教育やり方……こちらでは、『本能』を放棄すれば待つのは“死”。遊楽に毛が生えた程度の教育で百年河清を埃っていては、魔王によって滅びるのみでしょう」

「……っ」

「遊んでいる暇はない。我々は学園長による遊楽を一刻も早く排斥し、わずかでも真っ当な教育体制を整える。魔王など二の次。今回はその布石。いわば、宣戦布告クーデターです」

「なるほど」

「あなたは否定しますか?」


 黒髪の女は、濃紺髪の女に尋問するように問うた。


「……いつからかしら。人間は弱肉強食を忘れ、協調を是と説くようになったのは」


 濃紺髪の女はすっと目を瞑ると、黒髪の女に反問した。


「いつからかしら、己を甘やかし、他人と共に何かに励むことで形成された一時の至福を、“強くなった”と錯覚するようになったのは」


 学園での日々、女が人生の中で幸福に満ちた瞬間はあの時だけだった。共に鍛錬を受けることで協調し、強さを手に入れたと確信していた。それ以降は、針だらけの道を一歩も踏み外すことなく進んでいるかのよう。今でもそれは変わらない。


「その結果“死”は忌避され、“死”の要因となろう強者は排除され、弱者は弱者の安全圏テリトリーで強者を生み出すようになった。だがそれは偽りの強者──ただの道化だ。弱者は“死”から目を背けている。だから育たない」


 あの時、荒れ狂いながら互いに牙を剥き続けた同級生たち。協調という言葉を忘我し、彼女たちは生存本能のためだけに暴れまわった。皮肉ではあるが、あの一瞬だけ、彼女たちは勇者として大成したのかもしれない。


「やがて強者も弱者の軍団に呑まれ、隷属を余儀なくされた。いつからかしら、強者の存在意義が、弱者の守護となったのは」


 濃紺髪の女はふと目を開け、くっきりと黒髪の女を見つめた。


「あなたの望む世界。その行き着く先は独裁ファシズムですか」

「もとより世界の秩序ですわ。ご不満ですか?」

「えぇっ、不便ですからね」

「そうですか。残念ですわ」


 濃紺髪の女は名残惜しそうに席を離れると、一言告げるわけでもなく、自身の右手にある扉へと動いた。黒髪の女も引き留めることなく、濃紺髪の女の背中を流し目で眺めていた。

 濃紺髪の女がドアノブを握った時、黒髪の女は何かを思い出したかのように口を開いた。


「ですが、教育者として同じ志を抱く者同士。私としては、魔王を倒せばそれで構いません」

「なるほど」


 女は立ち上がり、遠くにいる濃紺髪の女へと言い放った。


「あなたに任の続行を命じます、橘草資」


「……」


「彼女を成長させなさい」

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