第71話 呪い
冷たい。
冷たい。
身体が冷たい。
堕ちていく。
堕ちていく。
深い深いどこかへと。
感覚は潰えた。苦痛が奔ったのも意識がはっきりしていた一時だけ。
目に見えるのは深紅の海。すべて自分から吐き出されたものだ。
死の恐怖はあった。斬られた直後、爆滝のような恐怖が心臓に垂れ幕を下ろした。
それも意識も朦朧とする今では、走馬灯に成り代わっている。
「ははっ……やっぱ、こうなる、よね」
十分呪われた。その見立ては間違いだった。
自分自身がまだ、解呪を許さなかった。
「バカだよ……ほんと……」
誰かを失い、自分だけがのうのうと生きている。それが嫌だった。
贖罪は死をもって償うしかない。
そうでもしないと、報われない。
「バカ……バカ……」
深紅の海に、ひときわ目立つ群青色の何かが浮いている。
「ネック……レス」
半分に割れた首飾り。勇香から半ば強制でもらったもの。
「なんも変わってないじゃんかよ」
薄れゆく意識の中、陽咲乃は首飾りに手を伸ばした。
*
「うぇ……?」
陽咲乃が動かない。
地面にべったりと前面をくっつけたまま、びくともしない。
まるで海にぽっかりと浮かぶ孤島。その海は真紅に染まり、刻々と辺りを浸食している。かすかな鉄の臭いが鼻腔を通り過ぎる。
「うそ、うそ、だよね……」
身体の熱が急速に冷めていく感覚がした。
ブルブルと震え、息が苦しくなる。
胸がドクドクする。勇香は胸元をガシッと握った。
自決を目論んだ氷刃は、すでに手放していた。
「うそだよね、うそ、うそ……」
現実逃避。
あれは死んだふりしているだけ。
現実逃避。
空腹で倒れただけ。
現実逃避。
陽咲乃は約束したから。
現実逃避。
陽咲乃は絶対に生徒会に入ると宣言したから。
現実逃避。
陽咲乃が死ぬわけない。
現実逃避。
現実逃避。
現実逃避。
陽咲乃は〇※□×▲……
「陽咲乃……起きて、ねぇ……」
逃げられなかった。いくら都合よく解釈しようと、視覚が、嗅覚が、触覚が、
五感が現実を叩きつける。
これが現実。逃げることのできない、運命。
勇香は歩いた。陽咲乃に。もう陽咲乃じゃないかもしれない。それが怖くて、触ってもピクリとも動かない陽咲乃だったものを想像すると、涙があふれそうで。でも歩みを止められなくて。
手も足も震え、視界も涙で霞み、足取りはおぼつかない。一押しで倒れてしまいそう。目印になるのは深紅の海だけ。それを頼りによろよろとフリーハンドに道を描く。
「っ!!!」
突然、誰かに左腕を掴まれた。振り返ると、ピンクブラウンの髪の女が血相を変えて勇香を引き留めていた。
「お怪我はありませんか!?」
女は勇香を自身の懐に招き入れると、両腕でぎゅっと抱き寄せる。
「大変だったでしょう。もう怖くありませんよ」
さすさすと勇香の頭を撫でる女。優しくされているはずなのに、涙はぼたぼたと落ちてくる。
「みんな、いなくなっちゃうのに」
勇香は女の腕を強引に引き剥がし、よろよろの足を陽咲乃に向けた。
「私だけが……」
「行ってはなりません!!」
勇香の腕を、女が握る。
「この生徒はあなた様を殺害するために結界を展開した!まだ意識が残っている可能性があります!お離れください!!!」
「離して!!!!!!!」
勇香は女の手をスパッと跳ねのけた。
「あなた様!!!」
負けじと肩を掴んできた女に、勇香は鷹の目を向けて威嚇する。
「っ!?」
女が狼狽えた隙に、勇香は陽咲乃に走った。たどり着くと、深紅が制服にかかることを諸ともせず、陽咲乃の前にしゃがみ込む。怖くて身体を触ることはできなかった。代わりに左手を陽咲乃の背中、血塗れの制服に添える。
「っ!!!」
よく見ると、海は陽咲乃の微細な振動に呼応し、波を立てている。まるで、自身の生存を知らせる心電図のように。
「なんで……なんで……」
脳内の図書館で魔法を粗探し。経験、知識、すべてを動員する。
けれど、どの記憶の書架を開こうが、その知識は記述されていなかった。もともとそんなものなかったかのように。
「なんで治癒魔法使えないの!!!」
嘆きながらにか細い拳を深紅の海に放り込む。血飛沫がピシャリと顔に付着した。
方法はまだある。委員会の女たちは勇香の傷を治すために治癒魔法を使用していた。その詠唱文はうる覚えながら記憶の奥底に保管されている。
一か八か、勇香の手から薄ピンクの光が漂う。
「っ!!」
魔法の手が止まる。発光も消えた。
魔術師が使用できる治癒魔法でも、それは治癒魔法という“魔法”の行使に変わりない。簡略化された詠唱を唱えるだけで身体を癒すことが出来ようとも、一文字の間違いで治癒という範疇を超え、人間の身体の構造そのものを変えてしまう恐れもある荒業。それが治癒魔法。
故に治癒を専門とする職業が存在し、またうる覚えで使用してはならない。昔、アリスに釘を刺された。
でも、そんなこと考えてる暇はない。
「待って、やめて……お願い……」
陽咲乃の腰辺りに黒いベルトが巻き付いているのが見えた。
陽咲乃が魔法具を収納しているポーチだ。
「陽咲乃のポーチの中に、魔法具が……」
勇香は一目散にポーチに手を伸ばす。伸ばした手に熱が籠った。誰かが手を握った。
握られた手は、眼下の陽咲乃から伸びている。その手はわずかにあったかい。
まぎれもない陽咲乃の手だ。
「陽咲乃……」
「言ったでしょ……アタシの執念は……まだ……終わって……ない……」
二人の繋いだ手には、角張った何かが包み込まれている。
それを確認する余裕もなく、やってきた女が手刀で振り解いた。
コトンと群青色の何かが散る。
「ハッ……!!」
陽咲乃に渡したはずの群青色の首飾り。
それが、深紅の海に消えていく。
ガシッ!
女は勇香を自身の背後に隠すと、右足のハイヒールで陽咲乃の後頭部を踏みつけた
「クッ……!!」
「嫉妬のあまり殺人に手を染めた愚人。もしくは生徒に扮した魔王軍の諜報員。あなたはどちらですか?」
「やめて!!!!!」
トップリフトをグリグリと擦り付け、詰問する女。勇香はすかさず止めに入るが、まるで狼魔獣と対峙しているような女の一瞥で委縮してしまう。
しばらくして、声にもならない掠れた声で、少女が言った。
「どっち……でもない……全部……アタシが始めたことだ」
「そうですか」
女は少女から足を降ろすと、目を瞑って静まり返る。
「……はい。了解しました」
そう呟いてパッと目を開けると、女は陽咲乃を背にしつつ宣告した。
「学園中枢部に報告しました。あなたはそこで蝉のように野垂れてなさい。後ほど役員が現れ、然るべき処置を行います」
「待って」
「その際口が利けるなら、ですが」
立ち尽くす勇香は、女がこちらを向きかけた瞬間に懐をすり抜け、陽咲乃に駆け出した。しかし、その肩は女の手の中に。
「……ひぎっ!」
「行きましょう。こんなところで道草している暇はありません」
助けたいのに。救いたいのに。今すぐ陽咲乃の側へ駆け寄りたいのに。
身体に力が入らない。
女の眼圧に屈してしまったからだろうか。自分のちっぽけな魂が、凶暴な獣のような女の魂に震えてしまったからか。
そのくせ女が手を引っ張ると、言う通りに足は動き出す。
意識とは正反対に、陽咲乃とは真逆に、女の望み通りに。
まるで、首から下がすっぽりと抜け落ちたような。体中の全神経が、自分のものじゃなくなったこの感覚。操り人形と化したような、この錯覚。
「いや……」
一歩一歩、その歩みは陽咲乃から遠ざかる。
「……っ」
これが現実だ。
惨めな惨めな、現実だ。
ふと、女の足が止まる。
眼には見えない。けれど、縄のような何かが女の足を縛っている。
「行かせ……ねぇぞ……」
「なるほど」
勢いよく地面を踏むと、それが粉々に砕けたような気がした。
「敬虔な学徒だと評価しておりましたのに、残念です」
「いや……いや……」
ついに教室を出た。操り人形は喚き叫ぶことしかできない。喚き叫んでも、運命は変わらない。
「嫌あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
*
呼吸はすでに、喘ぐようなものがわずかばかり。
(……死ぬの……初めてだわ)
最期の抗いも、女に看破されあえなく散った。
(こんな、なのか……やっと、わかった)
死の瀬戸際にいるこの身体を、不思議と窓から差し込んだ陽光が照らす。
もう輝きは失ったというのに、光は輝きを強制させる。
(でもこれは、アタシらしい、かな)
眼には見えずとも、勇香の断末魔の叫びが頭の中にワンワンと流れて込んでくる。
まるで、助けられなかった自分を戒めるように。呪うように。
「待って」
苦しい。
(くそっ)
「いや……」
苦しい……苦しい……
(くそっ……クソっ)
相手は元勇者、ここで奇跡の復活を遂げたとて、陽咲乃ひとりで太刀打ちできる相手じゃない。
『立ち直れたのはアタシだけだよ』
『……怖いよ……あたし……』
苦しい──
梨花と絵里奈の言葉の重みを、今になって認識した。
認識した時点で、陽咲乃は奴らに歯向かえない。牙ひとつ立てられない。
牙の立て方を知らないから。奴らが剥いた牙の、受け止め方を知らないから。
(これが、アタシの正義)
皆の頂点に立つ。
頂点から皆を見下ろす。
それが正義。
(アタシの目指した、正義……)
見下ろすには、経験が足りなかった。
一歩踏み出すには、足りないものが多すぎた。
命がこの世とあの世を行き交う光景を、これっぽっちも見ていなかった。
それが、奴らとの格の違い。超えられぬ壁。
「嫌あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
(こんなもんだったのかよッッッ!!!!!!)
やるせない心の叫びも、わずかな呼吸音に掻き消されてしまう。
その呼吸も、カウントダウンを刻むように。
ドクッ……ドクッ……ドクッ……ドッ……
視界もぼんやりしてきた。
ドクッ
(っ!?!?!?)
ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ……
消えたはずの本能が、必死に危険信号を唱えている。
それは、心臓をえぐり取られるような不快感。
それは、生命を丸呑みする、真っ黒な怪物。
それは、ひとつの星の終焉。
(あの女、いや、今の今まで感じられなかった)
「ぐっ」
「これ以上は見るに耐えんのでな。なぁに、簡単だよ。私は心底胸糞が嫌いなのだ」
霞んでいた視界が急激に鮮明を取り返す。
外界へ放出された血液が、傷口から体内に吸収されていく。
身体が急速に熱を帯びる。傷が跡形もなく消え去ってゆく。
詠唱もせず、触れもせず、ものの一秒もしない超高速の治癒魔法。いや、もともと何事もなかったように。まるで時間が巻き戻ったように。
魔法を放った張本人は、一目で解った。
勇香を連れていたはずの女の首を、右手で容赦なく締め上げる魔女。
軍服を思わせる黒衣に身を包んだ長身の美女。
名を、オフィーリア・テミス。
「私がこの地位に就いてから200年間、圧に屈して誰のひとりも私を頼ってはくれなかった。そこで最近ふと思いついたのだ。相談が来なければ、自身が迷える子羊の下に赴けばいい。正直、今は少し興奮している」
オフィーリアの翡翠色の瞳が冷徹に煌めく。
「私を怒らせたのは二人目だぞ。紗知無」
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