第70話  勇気


「……勇香」


「……勇香……勇香」


 後の光景を、陽咲乃は力いっぱい瞼を閉ざし、視認を拒んだ。


 光の消えた世界には、歪んだ漆黒の世界が無限に広がる。まるで、“アタシ”を描出した一枚絵を間近で見物してるよう。目を背けることはできない、これが現実なのだ。


 無意識にも、そこに昔の記憶を投影してしまう。陽咲乃は舌を噛んだ。

 口内が鉄の匂いに包まれたところで思考を振り切ると、彼女の名を呼び続ける。


「勇香、勇香、勇香」


 これは逃げに等しい。自分の愚かさに、変われなかった自分の無力さに背中を向けるために、陽咲乃はひたすら名前を叫んだ。いつか、陽咲乃の呼びかけに彼女が返事してくれるまで。


 初めてだったのだ。友人を目の前で亡くすのは。

 

「……陽……咲乃……」


 声かどうかも判別つかない、荒い息遣いに言葉を混ぜたその音に、昂揚した陽咲乃はくっきりと黄金色の瞳を咲かせた。黒に包まれた世界は一瞬にして真っ白に染まり、徐々に色彩が描かれていく。


 完成した現実は、一片たりとも変化なかった。まるで結界の中のこの空間だけ、時間が緩やかに進んでいるのかと疑ってしまうほど。もしくは、瞼を閉じたその瞬間から世界が止まっている、そんな感覚。


 己の首筋に氷柱を突き立て、切っ先を肌にちょんと接触させ、ヒュッと引き離す。その一連の動作が絶え間なく続く。肌から血が滴る様子は微塵もない。それとは別に、地響きのように腕が激しく揺れ動いている。変化したのはこれぐらいだ。


「……っ」


 勇香は涙でしわくちゃになった顔を、陽咲乃に少しだけ傾けた。


「陽咲乃、手伝っ……」


 陽咲乃に巻きついていた蔦が粉々に砕ける。自由になった身体を慣らすこともせず、陽咲乃はまっすぐと勇香へ進む。


 一歩一歩、その歩みは重かった。


 勇香の前で停止した陽咲乃は──氷柱をスパッと払った。


「……っハァ!」


 勇香は衝撃のあまり声が上擦る。地面に叩き落とされた氷柱のカランという音が、静かな結界内に響いた。


「それを受け入れたとして、あんたは素直に待っていられるの?」


 唖然としている勇香に、陽咲乃は緩急のない声で告げた。


「無意識に身構えてるようじゃね」


「……っ」

 

「見切り発車で死のうとして、でも結局死ぬこともできなくて……情けない」


 勇香はぽっかりと口が開いた。


「勇者のくせに、勇気の欠片もないなんて」


 陽咲乃は、中腰になって勇香と目を合わせる。


「アンタ、本当に英雄目指す気ある?」


 その目つきは氷刃のように、もしくは罪人を罰する執行人のように冷えていた。


 *


 陽咲乃に敗北した時から、いやもっと前から、勇香の価値は損失していた。

 あとはタイミングを待てばいい、然るべき時に終ればいい。それなのに、いざその時がやってくると、自然と受け身を取っていた。みすぼらしく抗う自分がいた。


「それだけは絶対!!それに、陽咲乃との約束だって、忘れたことなんて一度もない!!!」


 陽咲乃の詰問には、目の色を変えて断言した。しかし、陽咲乃の目に耐え兼ね、委縮してしまう。


「その結果が……これ?アンタ、いつもどんな風にアイツらと遊んでるのさ」


「どんなって……私……」


 話すことは簡単ではない。できれば話したくない。相手が友達なら、尚更。

 けれど勇香は陽咲乃の眼光に屈し、胸に押し当てた手に目線を下げて、おどおどしながら話し始めた。


「私、真似事が得意だから、先生たちを見ていれば自ずと強くなれる。そう思ってた」


 陽咲乃は怪訝そうに首をかしげている。勇香はつづけた。


「だけど演習が始まったら、先生たちはパフォーマンスすら見せてくれなくて、自分でなんとかしろって言うの。私、試行錯誤とか、臨機応変とか、その、苦手で……」


 言い終わりざまにビクビクしながら陽咲乃を一瞥すると、険悪な顔のままピクッと瞼を動かした。続けろとの合図だろう。


「先生は、私のこと察してくれなくて、演習では毎回頭が真っ白になるし、まともに思考できなくなって、その、今まで通り、惨めを晒しちゃう……けどね、アリスさんだけはいくつかの魔法、お手本を見せてくれて、あと死んじゃった先生も……さっきの魔法、その先生の真似をした、の」


 性格上、これまでの経験を誇らしげに語ることはできない。だからこそ、取り上げるべき事実の断片をありのままに、簡潔に語ったつもりだった。それ以上に吐き出したいことは山ほどあったが、あえて口にしなかった。陽咲乃には関係ないからだ。


「わ、私、何か、変なこと言ったかな?」


 顔を上げると、陽咲乃は血の気の抜けた顔で勇香を眺めていた。


「よく分かった」


 顔からそれを感じることはできないが、陽咲乃は理解してくれたみたいだ。これで難なく収まった。


 パチンッ


「ぃっ!?」


 ジンジンと右頬が唸る。勇香は反射的に右手で頬を押さえつけた。 

 痛みを落ち着かせるためではない。強めに押さえ、痛みを増幅させるため。そうでもしないと思考を痛みで覆い隠せないから。この現実は、痛みさえも陰に隠してしまう。


「へっ」

「アンタがクソッたれだってのが」


 頭が真っ白になってしまった。状況整理を脳が拒んだ。この現実を受け止めたくないと。陽咲乃が平手打ちした、その現実を。


「思考回路がチョロすぎるでしょ。アタシ、なんのために今まで命張って約束とやらに向き合ってきたの……馬鹿みたいじゃん」

「私だって考えた、考えた上で、こんな私でもできることは何かって、誰かを真似すれば強くなれるかもって……ひぎぃ!?」


「強くなるの意味を履き違えんなッッッ!!!!!!」


 陽咲乃は勇香の襟袖を掴み、顔面の間近で怒号を飛ばす。


「わ、私は……」

「変わったのなら証拠を提示して!!やる気ないなら最初からそう言えよ!!!今のアンタは数週間前のアンタと何ひとつ変わってない!!!アタシには委員会もアタシも舐めまくってるクソったれにしか見えないんだけど!!!!」

「っ!?」


 “何ひとつ変わってない”


 陽咲乃は胸ぐらを掴み、荒々しく勇香に問いただした。


「違うの!?」

「そ、そんなこと……」


 そんなこと。


 決闘の時も──



 魔獣演習の時も──



 あの村の時も──



 結果は凄惨であれ、どんなに情けなくても、どれだけ失態を犯しても、その想いが後押しとなっていたはずだ。勇香の根底には意志が眠っていたはずだ。


「そんなこと……ない」


 勇香は俯きながらぼそっと零す。こんな虫の息にも等しい声音が陽咲乃に届いたかと懸念しつつ、さりげなく陽咲乃に視線をやる。


「あぁ……そういうことか」


 鬼の形相だった陽咲乃。だがその肩が揺れ動き、ふと呟いた。


「あ、あの……さっき、言ったこと……」


 勇香が言いかけたところで、陽咲乃がパンと顔の前に掌をくっつけ、軽く頭を下げた。


「殴ってごめんね。怪我はどう?」

「なんともない……大丈夫」

「言い訳だけど、アタシこんな感じでちょくちょく癇癪起こすタイプだから。っても、アンタにはいちいち断る必要ないか」


 短い灰髪をわしわしと掻きながら呟く陽咲乃に、勇香はコクっと頷く。陽咲乃の感情の落差に目を見開くも、激情は収まったようなので勇香は胸を撫で下ろした。陽咲乃に胸倉を掴まれた時は死を連想させたが、これでまた元に戻れる。


「アタシも、ようやくわかり合えた気分。ずっと近くで見ておきながら、今、やっと気づいた」


「ど、どうしたの?急に、そんな」


 今更何を言うかと突っ込みたくなるが、解ってくれた、そんなとこだろうか。陽咲乃はぐぅっと腕を真上に伸ばしストレッチすると、ストンと地面に胡坐を掻いた。


「ねぇ、なんでアタシが生徒会に入りたいか、教えてあげよっか?」

「お姉さんお兄さんみたいになりたいから、じゃないの?」

「そうなんだけど。ふたりはある人に憧れて、リーダーを目指したんだ」

「ある人?」

「さて、だれでしょ~?」

「……もったいぶらずに教えてよ」

「ふふっ、せっかちだな~」


 あらゆる喧騒が遮断された世界で、陽咲乃は一息置いて口にした。


「正解は、お父さん」

「お父さん?」

「そっ、家族の誰かに憧れるなんて嗤われる話だけどさ、アタシ含めて、ウチの兄妹はみんなパ……ッお父さんに憧れてたんだ」

「友達の前なんだから普通に呼べばいいのに」

「せっかくの回想なんだから、カッコつけさせてよ」


 首をかしげる勇香に、陽咲乃は苦笑する。


「アタシもね、最初は大変だったよ。憧れのお父さんに近づくために、着々と夢に向かって突き進むお兄ちゃんとお姉ちゃん。周りからのプレッシャーは半端じゃなかった。それに今振り返れば、アタシはリーダーになっちゃいけないタイプの人間だしね」

「そんな、いけないなんて……」

「当時はそんなことにも気づかなかったけど、気づかないなりに志に従って、リーダーを目指すために頑張った。キツイときもあったし、自信持てなくなるときもあった。だけどアタシは諦めなかった。いっぱいいっぱい策を練った。失敗しても、次へ進んだ」


 勇香は向うの世界での陽咲乃を知らない。それでも陽咲乃が経た紆余曲折の道のりは、声に乗った感情の厚みが物語っている。なおも陽咲乃は語り続ける。


「学級委員を決めるクラス会議から生徒会選挙まで、機会は何一つ逃さなかった。今だって。これは執念だから、憧れを憧れで終わらせないための」

「陽咲乃……」


 そう語る陽咲乃は眩しくて、思わず目を逸らしてしまうほど輝いていた。

 

「……という、リーダー狂いのこれまでのあらすじ、でした」

「急に安っぽい物語風にまとめないでよ」 


 この世界へ来てもなお変わらず、夢を諦めない陽咲乃の強情な精神こころ。勇香にとっての約束のように、陽咲乃はリーダーに人生をかけている。


(陽咲乃の夢を私なんかと比べたら、雷にでも打たれると思うけど)


「フフッ」

「キモっ、何ニヤけてんの」


 そう指摘する陽咲乃も、勇香を見て口角が緩んでいる。が、勇香はそんなことにも気づかず、心情を陽咲乃に読み取られたのかと勘違いして頬が赤く染まる。


「に、ニヤけてない!続き、早く!!」

「え?あ、うん」


 陽咲乃は勇香に促され、語りを再開した。


「そんなアタシを熱烈に、ちょっと引くくらい応援してくれた子がいてね。平凡であんたに似ためんどくさがり屋だったけど、昔からの幼馴染で、親友だった子」

「親友?」


「その子面白くてさ~口癖が『めんどくさーい』なほどぐーたらが好きで、家に遊びに行くとしょっちゅう寝てるかマンガ読んでるかで、友達が来たってのに自分の部屋は散らかってて掃除もしない。おまけにゲームの発売日とかちょくちょく学校休むし、もう本当にどうしようもないヤツだったけど……」


(ちょっと共通点……けど、私はちゃんと学校は行ってたし)


「中学の生徒会選挙の時、アタシを生徒会長にするために、普段地にくっついてなかなか離れない腰をスッと上げて、ひたむきに選挙活動を手伝ってくれた。人生で誰かのために頑張ろうと思えたのはこれが初めて、とか言ってくれたっけ。あの時は嬉しかったなぁ」


 そう語る陽咲乃の目は悲し気で、どこか虚空を見つめている。 


「そ、そうなんだ……」


 思い出話についていけなくなった勇香を一瞥して、陽咲乃はふっと笑う。語りに終止符を打つように吐息を漏らすと、再びぐぅっと腕を伸ばした。


「そりゃそうよね」


 立ち尽くす勇香の真横で胡坐を掻きながら、陽咲乃は浅葱色の虚空に目を据えながら、言った。


「今まで頑張ったことないやつが無理くり頑張ろうとしても、結果は茶番になるよね」


 勇香を人間として、底辺にいる自分を蔑むような眼。“無能”が発覚した自分を、容赦なく見捨てていく目。今はその目をしていた。


「ちゃば……」

「その惨めな姿だって、アンタが望んだものの果て。運命を自分の手で描けなんて綺麗ごとほざいたけど、アンタは自分から、運命に踊らされてた」


「ねっ、ねぇ、ごめん、な、なんでもない、さっき言ったこと、違う、から……」


 

 陽咲乃はむくっと腰を上げ、勇香より少し上にある肩を並べた。


「……ひっ」


「さっき、なんて言ったっけ?」


「えっ、あの……ちがっ」


「なんて言ったっけ?」


「あっ、あいぼ……」


「馬鹿言わないで、そもそもアンタ協調性ないでしょう?いざ一緒に戦おうとテンパってお荷物になる未来しか見えない。委員会もそれを見越してアンタをソロで戦わせようとしてたんじゃない?なのに相棒だなんてよく言うわ、勇気あるよ」


「……っ」


 気を遣われることもなく、情けをかけるわけでもなく。陽咲乃はただありのままを告げた。


「興醒め……」


 陽咲乃は勇香を捨て置くように、虚空を目指し歩く。


「ま、待って」


 勇香は陽咲乃の制服の裾をぐぃっと掴むと、陽咲乃はギッと視線を突きさした。


「じゃあ、相棒になったら、アタシを?」

「えっ、いや……」


「アンタはまだ続ける気?」


 勇香は無言で首だけをコクっと頷かせた。

 陽咲乃は、スッとその手を離した。


「現実味のない約束事に、付き合ってる暇はない」


「や、やだ」


 今まで、自分ひとりの力で何かを成し遂げたことはあるだろうか。

 決闘も、魔獣演習も、勇香に勇気を与えてくれたのは、陽咲乃だった。陽咲乃はいつも、勇気をくれた。陽咲乃がいたから、前に進めた。


「アンタは自由に生きていいよ」


「待って……」


 ここで陽咲乃を引き留めれば、何かが変わるだろうか。なのに、追いかけられない自分がいた。見捨てられた事実に、を覚える自分がいた。


 ずっと、否定して欲しかった。惨めなままの自分を、尊厳を潰されるくらい罵倒してほしかった。


 そうすれば、一歩踏み出せると思ったから。


 勇気をもらえると思ったから。


「これからなんの変化もない、退屈な毎日をね」




「陽咲乃……」



 幼い頃の勇香に、夢はあっただろうか。なりたいものとか、やりたいこととか、志はあっただろうか。


 みんなとは違う、普通が普通じゃない自分にも。


 少なくとも、そんな感情が消え失せたのは、心の支えだった妹が消えたあたりか。

 

 その日から、何をやっても生きた心地がしなかった。憂鬱だけが日常を支配していた。


 いじめられるとか、それで自己を見出せるならそれでよかった。どんなに自分が惨めったらしくとも、失態を露呈させても、苦い顔で気を遣われた。優しくされた。


 だけど、裏ではきっと思われていたことだろう。こんな惨めな人間がなぜ存在するのかと。


 勇香はただ、普通に過ごそうとしていただけなのに。


 自責に明け暮れた日々。頭の中が真っ白な空間にいるような毎日。思考すら億劫で、ぼうっと自室の天井を眺めてるだけ。


 日常を熟すことだけが唯一の生きがいとなり、新しい何かを歓迎できなくなった。


 この世界に来て、初めて英雄になれると言われ、誰かを救えると励まされた。だから、勇気をくれた人のために強くなろうとした。でも、頑張っても頑張っても何も変わらなくて、それどころかどんどん惨めになって。


 いつしか勇香は、後退しかできなくなっていた。自分が自分であることに気づいた。身を削るような経験も、誰かの死も、委員会の甘言に現を抜かしていただけの、茶番だった。


 聖ヶ崎勇香は、聖ヶ崎勇香のまま。


「……ないの」


 何もかも失ったら、もう。


「約束なくなったら私、何もないの」


 放られた氷柱は、幸いにも原型を留めていた。勇香はそれを拾うと、自らの喉元に突き立てた。


 もうこれで、おしまい──





 パリンッ!!!!!!!!


「っ!?」


 結界が弾けた。


 浅葱色の空間は、教室という色を取り戻す。窓からは黄昏をしらせるオレンジの陽光が差し込んでいる。


 スーツ姿の女は、陽咲乃の陰に隠れよく見えない。でも、陽咲乃に向け手を差し伸べたのは見えた。女から発せられたマゼンタの発光が、陽咲乃を覆い隠す。



 陽光に照らされた陽咲乃の身体から、深紅が濁流のように張り裂けた。

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