第54話 日常


 連絡棟──学園統括委員会が一フロアを従える階層の廊下を、一人の女が悠然と歩いていた。橘草資である。

 草資はにんまりと顔を綻ばせ、ややステップを踏むかのような足取りだ。その瞳の奥に映るものは、やはり自身が斬り捨てた英雄騙りの少女であろう。

 草資が総評という名の無慈悲な宣告を繰り広げた後の、少女の悲痛極まりない表情。自信に満ち溢れていたその顔が、絶望に支配されたかのように変貌したその瞬間。あの時ほど心が“愉悦”に満たされた瞬間は他に存在するだろうか。


「楽しみですわ、楽しみですわぁ~でゅふふふふ~」


 独特の嗤い声を廊下に響かせていると、前方から二人程の人影が見えてくる。

 一人は白髪を交えた初老の美女。学園統括委員会トップ、委員長の女だ。その一歩後ろを付いている者は、女の側近であるふくよかな老婆。

 その側近には目も暮れず、草資は女を目にするなり燥ぐ幼児のようにトテトテと歩み寄って行った。


「委員長~」


 女は無言で、姿勢を低くする草資を冷たい視線で見下ろしている。


「委員長、この橘草資よりご報告がございます」


 草資は廊下だというのに優雅に跪き、一転して丁寧な口調で口火を切る。その従順な態度に反して、草資の声は乾ききっていた。


「言ってみなさい」


 女は返さず、代わりに側近の老婆が応えた。草資は冷然な態度の女に眉をひそめるも、次には深く頭を垂れ、礼を述べた。


「この度は新参者に過ぎない私めを、女子生徒の専属講師という大役を頂き、誠に光栄に思います。この功績は我が生涯最高の誉であり、委員長には感謝しきれませんわ」


 草資の言葉には、特段の誠意は込められてはない。感謝に感謝を重ね、質より量で女の信頼を勝ち取る手法だ。そして信頼を上げたところで──


「つきましては一点ばかし、ご訂正をお願いしたく思いますわ」


 草資は静かに本題を切り出す。もっとゾクゾクを見たい。崇高な人間が、自らの見込みの誤りで奈落に落ちる姿を、その目で見届けたい。それは草資の本質か、否か。


「あの英雄騙りのろくでなし。文字通りただの木偶でございま……」


 一瞬のことだ、草資の首元にスッと亀裂が奔ると──パカッと割れた。

 血飛沫がビシュッと飛び散り、雨のように降り注ぐ。


「へっ……?」


 意識が急激に薄れゆく。その間、草資は女から視線を外さなかった。女は冷徹に草資を見つめている。


 だがそれも虚しく、次にはまるで巨人の拳のような見えない何かに身体ごと吹き飛ばされ、草資は壁に激突。この事態を把握することも、痛覚に絶叫することもできず、草資は無様に倒れた。


「あらあら手が滑ってしまいました。何処かに委員長の“お”悪口をほざいている無礼者がおりましたもので。おやおやこれまた大変、神聖なる我らが社に大量の吐瀉が……」


 老婆はニコニコと独特な嗤いをし、鮮血を垂れ流しながら倒れた草資を見渡す。


斯波しば


「はい、委員長」


「処置を」


 女はそれだけを告げると、老婆を置いて先を急いだ。


「かしこまりました委員長。生徒会室へは後ほど」

 

 意識の途切れた草資の前で、老婆は不敵に微笑んでいる。


 同時刻、同階層──堅牢な薄灰色の鉄扉の奥。


 そこは委員会の事務室兼。正義の道を外れた生徒や教師らに、委員会の理想、そしてこの世界の摂理を教え込む、という趣旨のだ。



 わずかな陽光すら遮断された全面黒曜の密室。そこには金属の椅子一つが置かれ、今まさに黒髪の少女が座っていた。

 身体のありとあらゆる部位にを打ち付けられており、外相は負わないものの、そこからは逐一自身の存在すら失う程の激痛が少女を蝕んでいる。

 そのような監禁状態の中、少女は首を曲げることも、目線を動かすことも許されず、目の前の大スクリーンから流れる映像をひたすらに見させられていた。


「……やだ……もうやめて……もうやめてくれ……」


 大量の汗と涙と共に、少女は震える声で叶わぬ願いを口にする。


「もう、分かったから……」


 その空間は、まさに地獄そのものだった。


 *


 季節柄か、宵を告げる満月が昇り始めた頃でも、沈みゆく夕陽の光が窓の外から漏れてくる。

 

「ぅ……ぅんっ……あれ」


 目覚めた時には、勇香は自室のベットの上に寝転がっていた。

 服装は制服のまま。簡素な薄ピンク色のシーツ一枚が掛けられている。

 

「何してたんだっけ……」


 勇香は寝ぼけ眼で部屋の掛け時計を確認する。時刻は六時過ぎ。

 扉の外からはなんだか忙しない物音が聞こえてくる。

 

「そうだ……私……」 

 

 勇香は脳内をまさぐり出すかのように、数時間前の記憶を掘り起こそうとする。

 だが、その記憶は靄がかかったかのように奥深くに入り込み、手に取ることすらできそうにない。 


「なんで……寝てなんか……」


 シーツをのかし身を起こすと、とりあえず両足を床に付けてベットの端に座り込む。今更だが、自分は制服の姿のまま仮眠してしまったようだ。このためにワンピース型の制服にしたんだったと、要らぬ記憶が蘇ってきた。


 ふわふわとした気分のまま立つと、そのまま自室を後にする。

 階段を音を立てながら降りると、二階のリビングは照明が付いており、中央のダイニングテーブルには丁寧に二人分の食器が置かれていた。

 不思議に思っていると、キッチンから何かを炒めるジュージューという音が聞こえてくる。どうやら他に人がいるようだ。

 一瞬だけ家族との何気ない日常が思い起こされるが、それを拭き払い二階に足を降ろすと、キッチンから鳴っていた音がピタッと止み、そこからひょっこりと少女が顔をのぞかせた。


「あっ、起きたんだ。おっはよー勇香」

「ひ、陽咲乃?」


 陽咲乃は寝ぼけ眼の勇香を一目見ると、元気に声をかけてくる。

 とぼけ気味の勇香は目を擦りながら、陽咲乃に尋ねた。

 

「ごめん、記憶が曖昧なんだけど。私……帰ってから、なにしてたんだっけ?」

「あっ、そうだったー!あの魔法、副作用みたいなヤツで記憶ちょっと飛んじゃうんだよねー……アタシとしたことが忘れておったわぁ」


 頬を掻きながらそう呟く陽咲乃。魔法とは、一体どういうことなのだろうか。


「魔法って?」

「ごめっ、ちょっと睡眠系の魔法で眠らせちった」


「えっ……?」


 片手を顔の前に立てながら詫びる陽咲乃。勇香にはその意味を汲み取ることができなかった。陽咲乃は一旦キッチンに引っ込むと、料理を載せたお盆を持ちながらリビングに姿を現した。棒立ちで眺める勇香に、陽咲乃はテーブルにメインディッシュであろうその料理を配置する。


「勇香は頑張り屋さんだから無理するのも分かるけど、無理はしちゃダメ!倒れる前にしっかりと休息取りなさい?強くなるのもいいけど、健康でないと生徒会なんて続けられないぞ?」


 諭すように陽咲乃は言う。勇香にはその意味を呑み込むことはできなかった。それよか真っ白の脳内は、言葉自体をほろほろと消し去ってしまう。


「健康と言えば、台所勝手に使っちゃったけど、前に麻里亜先輩に勇香が偏食家だって聞いてさ。そこで!アタシお手製のお料理作ったから、一緒に食べよう!これ鮎のアクアパッツァ。アタシこう見えて料理得意なんだ♪」


 陽咲乃が言い終える前に勇香は踵を返し、階段へ戻っていく。


「ちょっとどこ行くの?」


 エプロン姿のまま、陽咲乃は勇香の手を握り制止させようとする。次に振り返った勇香から飛び出したのは、こんな言葉だった。


「さっきは私のおでこに指を当てて、今みたいに引き留めた。あれが魔法の起爆装置スイッチだったんだね」

「え……?」

「どうして、私を眠らせたの?」

「だって、疲れてるように見えたから……」


 ようやくすべてを思い出した。委員会の身を削るような授業も、陽咲乃との帰り道も、家に帰り陽咲乃に打ち明けたことも。それでもなお、勇香は委員会と向き合うことを決めたことも。それっきり、記憶が途切れていることも。


「私はまだやれた、のに……お願いだから……邪魔しないでよぉ」


 勇香は制服の裾を掴みながら、眼に涙を浮かべる。

 約束のために、“強くなるため”に、陽咲乃には「邪魔をするな」と釘を刺した。忠告したはずだった。陽咲乃も納得してくれたと思っていた。けれど現実は違ったのだ。


 勇香は、裏切られたような絶望感でいっぱいだった。


「アンタ、何言ってんの?委員会にいいように扱われてあんなに精神消耗して、あの状態でさらに苦労させようだなんて、見過ごしてる方がどうかしてる!」

「約束……したよね?私は強くなりたいの、陽咲乃のためにだよ」

「……だから言ったでしょ!?委員会は勇香をいいように利用してるだけ!アイツらに従ってたら、あんたにどんな地獄が待ってるか!!」


「だったら私が……強くなって……委員会に認められて……地獄に慣れたらいい」

 

 体感した地獄は、経験という形で自分の体内に流れ込んでいる。そう、無駄ではなかった。これ以上、地獄を見ないために。


「ねぇ、陽咲乃」

「な、何?」


「こんなこと、言いたくないし……陽咲乃がこんなこと思うはずがないって、私信じてるよ。でも、今の私はどうしょうもなく弱いから、心の隙間に入り込んでしまうの。引かないんだったら言わせてもらうね」


 怪訝そうな顔つきで見つめる陽咲乃に、勇香は口を開こうとする。

 だが、言葉選びに口をもごもごさせた。それを本当に口に出して良いのか迷っているからだ。なるべく傷つけることのないように、しかして核心を突くように、勇香は突き付けた。


「何よ?」


「陽咲乃は何故私の邪魔をするの?私は敵だから?私が陽咲乃と同等の実力を持つことが、気に喰わないから?」


 陽咲乃をしっかりと捉えたパープルの瞳。その色は怒りか憎しみか、はたまた一握りの希望を噛み締め、熱願冷諦に傍観しているのか。ゆらゆらと揺れ動き、今にも消えそうな光を放っている。

 勇香の言葉に陽咲乃は途端、声を荒立たせてて反論する。


「馬鹿言わないで……アタシは勇香を好敵手ライバルとして……」

「好敵手ならなんで邪魔するのかな!?」


 波風ひとつ立てなかった勇香の感情的な問いかけが、陽咲乃の口を閉ざした。

 声を上げない陽咲乃に、勇香はなおも迫る。


「私は倒しやすい敵だから……失敗するようにって……なんて……ありえない話だよね?ただの私の妄想だよね?」

「当たり前……大体、小一時間手を抜いたくらいでそんな……」

「私に近づいたのも、それが理由だったり、しないよね……?」

「……っ!?」


 下を向いてしまう陽咲乃に、勇香はさらに追及する。


「私、陽咲乃に救われた時……凄く嬉しかったし、陽咲乃のこと……かけがえのない友達だと思ってるよ……過去形じゃなくてね、今でもだし……これからもずっと、そう思ってる」


 勇香が言葉を放つ度、瞳からぽたぽたと雫が零れ落ちる。


 試していたつもりだった。委員会に引き続き教えを乞うために、陽咲乃を黙らせようと弱みにつけ込んだだけだった。

 だけど、なんだか、虚しくなってくる。胸の奥が、苦しくなってくる。


「だけど陽咲乃は……陽咲乃にとって私は、としか思われていなかった、なんてないよね?」


 陽咲乃は、何も言い返せなかった。


「そう、よね……私なんて、所詮その程度でしか人と関われない……“惨め”な人間だもんね……だから、今更……そんなこと……でも、私」

「勇香!!!」


 陽咲乃は勇香の両肩をぎゅっと掴み、淡々と言った。


「確かにアタシは、傍から見れば勇香を利用していると思われてるかもしれない。いや、思われているよ。クラスメイトからは、絶対に」 

「ぇ……?」

「でも、アタシが勇香と交わした“約束”は重みは、アタシが一番この胸に感じてる。今は、そう思ってくれてもいい。でもアタシは、生徒会選挙で真っ向勝負すると決めたから。だから勇香。あなただって……」


 そう言って陽咲乃は、自分の胸に手を添える。


「うん。知ってる。陽咲乃は友達だもん」


 勇香は晴れたような顔をし、陽咲乃に背を向けてトボトボと階段へ向かった。


「ごめん。私、勉強してくるね。陽咲乃は、一人で食べてて」


「ちょっと待って……違う……勇香!!!」


「約束。絶対守るから」


 後を追おうとする陽咲乃だが、その前には勇香は目の前からはいなくなっていた。


「違う……そうじゃない……」


 陽咲乃に、階段を登る余力はなかった。


 それから、陽咲乃は一人で夕食を済ませ、傍らで勇香を待ち続けた。

 強引に勇香の部屋に侵入しようとも考えた。例え鍵をかけていようとも、盗賊なら造作もないことだ。しかし、それは自分の本心が許さなかった。


 結局、夜が更けても勇香は姿を見せずに、陽咲乃は自分がいても迷惑だからと家を去った。


 ──翌日


 その日は朝から学級委員の仕事があった。だが、陽咲乃は居ても立っても居られずに仕事を投げ出し、早朝から勇香の家を訪れた。

 陽咲乃は家の前に立つと何度もベルを鳴らし、扉を叩いた。迷惑なんて、そんなこと考えていられなかった。もう一度勇香に会いたい。ただ一言だけ伝えたい。

 でもなぜか、勇香は現れなかった。


「あれ、ひさのんじゃないですか」

「陽咲乃ちゃんおはよう。早いね」


 背後から、朝の陽気に誘われた軽快な声が聞こえてくる。そこには、見知った顔の二人が手を振っていた。

 

「先輩……聖奈……」


「どうしたんですか?朝からそんな重っ苦しい顔して?」 

「それより、勇香ちゃんは?早く来すぎたし、まだ寝てるかな」

「あの絶対領域布団魔、ちょっとベル鳴らしたくらいでは目ん玉一つ開けないっすよ。くっ!アイツらのせいでしばらくここに来れなくなるから、せっかく今日は食材多めに買って来たのに!!此処は強引に窓から……」


 そう言って邪気溢れる顔で飛び上がろうとする麻里亜に、陽咲乃は胸が痛くなる。


「それやってこの前勇香ちゃんにさんざん怒られたよね」

「そうっすけど、これが現時点で最も有効な方法なんですよ」

「あはは……とりあえずチャットで連絡してみるね」


「ごめん……アタシのせいだ……」


 突然、陽咲乃は大粒の涙を流し、膝から崩れ落ちた。

 善意でやったことだった。しかし、結果として勇香を向う側へ引き渡してしまった。陽咲乃は自分がもどかしく、腹立たしかった。


「ど、どうしたんすか?」


 麻里亜がすぐさま駆け寄り、その後に聖奈も続く。陽咲乃はひくひくと啜りながら、掠れた声で続けた。


「アタシのせいで……四人の日常……奪っちゃった」

「ど、どういうこと?」

「……勇香……来ないかも」


 事態を呑み込めずに、麻里亜は涙を零す陽咲乃の背中を摩る。


「そ、そんなことないっすよ……勇香ちゃんはまだ寝て」


「ねぇ、あのさ……」


 そんなとき、物憂げな顔で勇香の家を見つめていた聖奈が、ふと漏らした。

 

「勇香ちゃん、いないっぽいね」

「「えっ?」」


 二人は呆然と、聖奈を見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る