第50話 克己
授業では一度たりとも感情を荒げることのなかった、草資の変貌。
「あなたはこの世界の英雄となるべき者、そう委員長に賛美されているのでございますよ!?それなのに何たる無様……恥を知りなさい!!!!!」
「ご……ごめん……なさ……」
「涙を拭きとりなさい!!それが英雄たる者の風格でございますか!!!!!」
草資は叱咤する。それなのに、勇香にはその内容が何一つ入ってこない。魔獣に蹂躙され、血に塗れた右腕に意識を削がれているからだろうか。
「あのような低種魔獣の集団、学園の三年生ならば子鼠を狩る獅子同然でございましょう!その三年生をも凌ぐ魔力……才能を、あなたは内に秘めているでございますのよ!!!それなのに魔獣一匹に現を抜かし、間合いを取られるなんて……あり得ないの一言でございます!!!」
研鑽を積んだ上級生であれば、あの状況をどうにかやり過ごすことは容易いのだろう。草資は、それくらいの実力を勇香に求めているというのか。
求めているのではない。その口ぶりは、まるで勇香にはそのような実力を既に持ち合わせていると“錯覚”しているかのよう。
「そもそも
弱点は首だ。首を一撃で葬れば、獅子種はいとも簡単に倒すことができる。それは「魔獣教本」という図鑑のような教科書を隅々まで読み込んだことで記憶している。
「何故むやみやたらに魔法を放ったのですか!!!答えなさい!!!!!」
「そ、それは……パニックに……なっ……」
消えかかった灯のような声で呟く。だが、薄れゆく意識の中、それ以上の反論を編み出すことはできなかった。
「聞こえませんわ。もっと理路整然と話しなさい」
「パニックに、な……」
「はっきりと話しなさい!!!!!!!」
怒髪冠を衝いたような草資の怒号で、勇香の眼から大量の涙が零れ落ちる。
感覚の消えた右腕。草資の激怒。勇香には涙を流すことでしか、その地獄をやりすごすことはできなかった。
その涙を目に留めた草資は、冷ややかな声で問う。
「涙を拭けと、先程申し上げたつもりですが……わたくしへの宣戦布告でございますか?」
「ち……違いま……」
「では、何故、むやみに魔法を放ったのか」
勇香は沈黙する。パニックになった。その一言を口にし、この場を収めることも可能だ。でもその前に、草資にはやるべきことがある。
声に出して約束したはずだ。この地獄を少しはマシにするために、草資がするという手加減を。
ムキになった草資は、勇香の髪に手をかけようとすると。
「傷を……癒して……ください……」
「……?」
「アドバンテージ……あるんですよね……」
地獄はもう限界だった。勇香は虫の息で草資に懇願する。
不幸中の幸いか、その言葉を聞き届いたようで、草資はすっと立ち上がった。
「そうでしたわね。私としたことが、怒りに身を任せ失念しておりましたわ」
さらりとそう言って腰を曲げ、血の滴る勇香の右腕に自らの手をやる。
「
魔術師にも扱うことのできる初歩的な回復魔法。魔法を放ったことによって、右腕の患部にほのかな光が照らされ、傷口がぶくぶくと塞がれていく。
かと思ったが、草資はいきり立っているためか、完治し終える前に魔法を止めてしまう。患部は塞がったものの、勇香には内出血したような痛みが残されてしまった。
「起立なさい」
草資は命じると、勇香は涙を堪えながら立ち上がる。
「ぅぐっ……」
「よろしい。では今一度追求します。何故むやみに魔法を放ったのですか?」
女の冷ややかな声が、右腕の痛みと共に勇香の涙を増長させる。
「パニックに……なってました……すいません、でした」
勇香は右腕を押さえたまま頭を下げた。これで説教を受ければ、この地獄は終わる。しかし、次に顔を上げた時には、草資は何故か真っ青な顔で勇香を視界に捉え、わなわなと震え上がっていた。
「パニッ……ク……?あなたが……?」
途端に草資は冷静さを失い、狂ったかのようにその顔が拉げた。
「あなたが……状況判断を、見誤る?……そんなはずは……だって、あなたは、人並外れた魔力の持ち主、才能の塊、我らの英雄……」
草資は下を向いたままぶつぶつと何かを呟いている。そのおどろおどろしい様相は、勇香でさえも後退りした。
「そう、ですわ。英雄となろう者が、このような出来損ないであるはずが……パニックに陥り、判断を見誤り、あろうことか雑魚魔獣に片腕をいたぶりつくされるはずがない。ですが、彼女は委員長からは期待されている。すなわち我らの英雄……おかしい、何故、何故、何故、何故、何故……」
出来損ない。その言葉が勇香の心中に深く突き刺さったのは言うまでもなかった。
最早、勇香は気持ちの悪さで草資を直視することなどできない。
「もしや、わたくしが初陣と口にしてしまったことで、手加減をされていたでございますか?」
草資はガンガンに開かれた瞠目を勇香に叩きつける。そんなはずがないのは明白なのだが、勇香は草資の狂気さに呑まれ何も言い返せなかった。
「そうに決まっておりますわ……でなければ先刻の無様な無様な無様な醜態を説明することはできませんの!」
「違いま……」
「申し訳ございませんわ!わたくしはあなた様の才能を鑑みず無礼な発言をしてしまったでございます!もう一度!今度は、今度こそは貴方様の本気を見せてくださいまし!!!」
「え、いや……」
勇香は言葉の終わりにだらんと下げられた右腕を一瞥する。それを見た草資は、慌てて詠唱し始めた。
「い、今完治させるでございます!!」
その瞬間すっと痛みが引き、勇香は右腕をぐっと動かす。
「さぁ!あなたの実力を見せてくださいまし!!!!!」
草資は後退し、勇香との間に結界が展開された。
その後、草資の言葉が号令となり、魔獣が再び動力を得る。草資は張り切っているのか、さっきよりも魔獣の動きが活発だ。
魔獣の気迫にやられ、勇香はまたもや涙目になってしまう。しかし、ほんのわずかだが、一度目よりは心に余裕ができた。それでも、
(と、とりあえず逃げないと……)
此処にいては格好の的になるだけと、勇香は結界に沿うように駆ける。それでも、先陣を切る黒豹には易々と追いつかれてしまう。
『ギャアアアアアア!!!!!』
雄たけびを上げながら勇香を追う黒豹。
(このままじゃ、また、同じ羽目に……)
沸き起こる絶望。地獄の未来。また同様のミスをしてしまえば、草資からどんな仕打ちを受けるのか。勇香にはそれが目に見えていた。
(だ、だけど……今はまだ、期待されている……私を、英雄と見てくれている……)
ひと時の安堵も、直後に現れたプレッシャーで胸が苦しくなる。いつも通りだ。プレッシャーに耐えかね、溺れてしまう“弱き心”。それではミスを連発させるだけ。さすれば草資の罵詈雑言を浴び、それが己の体内に蓄積していく。蓄積された罵詈雑言は、ミスを引き起こすための誘因となる。まさしく負の循環だ。
(考えちゃダメ……考えちゃダメ……)
勇香は息を荒げながらも、後ろを向くまいと走り続ける。だがその間にも、魔獣との差はあとわずかにまで縮まる。
(この圧倒的に不利な状況を打破するには……!)
『ラアアアアアアアア!!!!!』
「ひぃ……!」
何か、何か策は……
『ガアアアアア!!!!!』
魔獣の咆哮が至近距離に響いた。経過時間は動力を得てから数秒も経っていない。
(私……死ぬ……?)
何か、何か策は。どうしよう……罵声を浴びたらどうしよう。
策を考えねば。打破できる策は……嫌だ。あの地獄はもう嫌だ。
(うぅ……やだ……やだ……)
演習中なのに涙が止まらない。そんな自分の情けなさにも、呆れてしまう。
(違う……今は……策を……)
約束したじゃないか。強くなると。変わると。
(策を……策を……)
寸前。勇香は意を決して、くるりと身体を反転させた。
すぅっと息を吸い込み、腹の奥から出した声量で魔法を唱える。
「
勇香の足元から、大気中の水滴が凝固した氷壁が伸長する。ぎゅるぎゅると氷壁は伸び続け、遂には演習場の半分程度の標高にまで達した。
『ガルッ!!』
眼下で、黒豹は持ち前のかぎ爪を氷壁に押し付ける。が、極限まで研磨された氷壁は、かぎ爪を差し込み氷壁を登ることは不可能。
「はぁ……はぁ……はぁ……助かった……」
梨花との決戦で得た策が窮地を脱した。勇香は額から濁流のように流れる汗を拭き取る。
(落ち着け……落ち着け……落ち着け……私は、藤堂さんとの戦いで何を得た)
例え魔獣戦が初陣だとしても、勇香は藤堂梨花と本気で決闘した。それは経験として、勇香の体内に眠っている。今こそ、それを目覚めさせる時だ。
「はぁ……はぁ……」
勇香の“弱き心”は、自ずと成長を阻害する。策を練ろうにも、黒豹への恐怖、なにより草資に失念された後の仕打ちを無意識に想像してしまう。
(考えるな……私ならできる……私ならできる……私ならできる……)
勇香は目を瞑り、己の精神を研ぎ澄ます。
もう感情に思考を左右されてしまう“弱き心”の自分は終わった。結果的には敗北したが、梨花との戦いを自分はどう乗り切ったのか。そう、痛みへの恐怖は潰えた。思考の全てを“画策”に回した。あの時の心情風景を、再燃させれば……
(私なら……っ)
『何故むやみやたらに魔法を放ったのですか!!!答えなさい!!!!!』
記憶を捨て去ることはできなかった。何を考えていようと、幾度となく考えを逸らそうとも。無意識に、無意識に、その言葉は無限に湧いてくる。
もう叱咤されるのは懲り懲りだ。自分を否定されるのも嫌だ。そんな懊悩が、思考を覆い被せてしまう。
そんな思考と感情の狭間で、勇香は──
(と、とりあえず……秒で考えた、やつだけど……)
眼下の黒豹に、掌を翳す。
(上空からなら、あれができる)
決闘の再演。魔法の連鎖による灼熱の流星群。
「
魔法の
──
勇香の号令によって、火炎球は大地へと降り注ぐ弾頭のように黒豹へと落下。案の定、氷壁を登ろうと夢中になっていた黒豹たちは、その餌食となった。
しかし、鋼の毛並みを持つ黒豹は、火炎球を数滴落としたくらいでは傷ひとつ付かない。勇香はそれを承知の上だ。
先の黒豹を魔法で吹っ飛ばしたように、火炎球は複数の黒豹を足止めするためだけに行使した。隙を作って弱点を突くくらいなら、魔獣を捕縛して無理矢理にも弱点を捉えろと。
(後は……)
このような氷壁の頂上からは、黒豹の首筋に魔法の照準合わせることは不可能だ。
まずは氷壁の頂上から落下するのが先決。その手段は決闘時と一緒だ。
勇香は氷壁の末端に立つと詠唱をし……
「コマンドセッ……うわぁ!!」
その直後、あろうことか氷壁がグラグラと揺れ、あろうことか崩落し始めた。極限まで硬度を高めた氷壁がだ。勇香は足場を失くし、地へと真っ逆さまに落ちていく。
そのまま眼下を覗くと、氷壁を崩壊させた屈強な人型魔獣がその鋭い双眸を飛ばしていた。
獣型・
(や、やばい……!!)
巨人は、落下する勇香を捕えると剛掌を伸ばす。一度その手中に嵌ってしまえば、勇香の体躯であればいとも簡単に握りつぶされてしまう。
(どうしよどうしよどうしよ!?)
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