第37話 惨めな自分(2)
勇者養成学園の医療院は、本校舎とその北側にある野外運動競技場との中間地点に位置する。見た目は修道院を彷彿とさせる縦長の宗教チックな建造物であるが、その内部には三十を超える病室があり、最大で百名ほどを収容できる。これは学園の生徒のみではなく、学園の周辺地域で活躍する勇者でも利用できるよう換算した人数だ。
医療院に勤める医師や看護師は、そのほとんどが年齢や怪我等で勇者として前線に立つことができなくなった者たちが多く、今は十数名程度が医療院で日夜負傷した生徒や勇者たちの診察や治療を行なっている。
治療といっても、この世界では当然魔法が手段として用いられる。そのため、例え骨折や肺炎といった表日本では治療に時間を要する病状でも魔法で一瞬のうちに完治できてしまい、入院しても大抵一日や半日足らずで床を出ることが殆ど。
しかしながら魔法を利用した治療法には、人の手で行う治療以上の精密さを求められる。なぜなら、魔法という未知数で漠然とした禁術の対象が「人体」だからだ。通常の魔法──初級魔法や中級魔法といった魔法は対象のほとんどが無生物。そのため、魔法の構築が皆共通であってもさほど問題はない。しかし、人を癒す魔法には初級や中級といった区別はない。そのため魔法の発動時には、いちいち綿密も綿密に魔法を構築したうえで治療を開始する。それが基本だ。
そうまでして一つの誤差も許さず魔法を組み立てねば、「人を治す」のは不可能と言えるだろう。病気の治療で血液を補うために魔法で輸血をしたとて、魔法の要領を違え多量に血液を送ってしまえば、血管が破裂しその者は出血多量で死んでしまう。
それ故に、全国各地の医療院や前線に立つ
「う、うぅ……ん」
目覚めると、視界には真っ白な天井が広がっていた。
「ここ、は……」
覚醒してきた意識で、勇香はむくりと上体を起こす。ズキズキと軽微な頭痛がするものの、別段他の痛みはすっかりと消え去っている。
寝ぼけ眼のまま、勇香は辺りを見渡した。純白の壁とアーチ状の窓枠が特徴の部屋には、数台の木製のベットが置いてある。自分もその一角で横になっているようだ。
「あれ……私……」
額に走る残り香のような頭痛を右手で押さえつつ、勇香は記憶を思い出す。
(確か、運動場で決闘を……)
そんな時、奥の焦げ茶色の扉がガチャリと開いた。
「起きた?」
柔和な笑みで、陽咲乃は数個のお菓子の入ったバスケットを抱えながら勇香に呼びかける。その後ろには、見知った藤色の髪の少女と、エメラルドグリーンの髪の少女が、
「陽咲乃……」
「どう?体調は」
「え?うん。大丈夫、だよ……」
まるで天使を彷彿させる微笑みのまま、陽咲乃は勇香の寝ているベットに近づく。そして前に立った途端、
「よかった……」
黄金色の瞳から、ぽたぽたと涙を零し始めた。
「なんで……」
初めて見る陽咲乃の涙。勇香は愕然としてぽつりと言葉を漏らす。だが理由を聞く間もなく、その涙に釣られるように涙腺が熱くなってくる感覚を感じた。そして、
「ごめん……」
大粒の涙をシーツに濡らし、勇香は俯く。
「勇香?」
そんな光景に陽咲乃は涙を擦り、目をパチパチさせた。
「ごめん……私……」
涙ぐみながら、勇香はひたすらごめん、ごめん、と呟く。ぎゅっと握られたシーツの端に涙が染みわたる。
「ねぇ、ちょっと」
そんな勇香に陽咲乃が手を伸ばした時、
「負けちゃった……」
無意識にそんな言葉が口から流れ出た。陽咲乃は深呼吸で自らを落ち着かせると、涙ぐむ勇香に尋ねかけた。
「とりあえず、何があったか聞いてもいい?」
「……」
言えるはずがないのは分かっていた。勇香は沈黙でやりすごす。
「勇香を
「え……っ!」
反射的に勇香は服から開けた四肢を確認する。だが、陽咲乃の言ったような痣は見当たらない。
「先生が魔法で治療した後だから、もうその痣は残ってない」
「……っ!」
ついでに右腕を一瞥すると、上腕に棒線の傷跡が残っている。どうやらこれだけは今回も塞げなかったらしい。
「その傷だけは、どうやっても治せないって先生言ってた」
「だよね……知ってる」
「ねぇ教えてよ。それはどうやってできたの?」
「この傷は……ずっと前からあるものだから……」
「じゃあ、先生が治療した痣は?」
「それ、は……」
言葉の先が詰まってしまう。本当のことを話すべきか。隠蔽すべきか。勇香の選択はいつも一緒だった。
「今日は一日中晴天。雷どころか雨すら降ってない。だったら雷に撃たれたような痣って、明らかに魔法で、人の手によってできたものだよね?」
お菓子の入ったバスケットを抱えながら、陽咲乃は泰然と勇香を見つめる。
「誰にやられたの?」
「……っ」
勇香はその視線から逃げるように、また顔を俯かせる。
「何か、話せない事情でもあるの?」
「……っ」
口外するなと梨花には念を押された。しかしそれは単なる脅しに過ぎない。話すならいくらだって話せる。それでも喉の奥から言葉がこみあげてこない。まるで、喉奥に蓋をしているかのように。
「負けちゃったって、言ったよね」
「それは……」
溜息を吐くと、陽咲乃はバスケットを近くの小テーブルに置き、どこからか丸椅子を持ってくる。そして腰を下ろすと、おもむろに話始めた。
「聞いたよ。聖奈たちに」
「勇香ってさ、自分のこと決して他人に話そうとしないんだよね」
「……っ」
それを聞いた途端、勇香の顔が一気に青ざめた。その急激な面様の変化に、ドンピシャとばかりに陽咲乃はやっぱりと呟き、
「勇香がこの学園の生徒たちから受けた仕打ちは、アタシが知っているだけでも戦慄するくらい酷いものだった。けど、それをされてもなお、勇香は聖奈たちに相談したりしなかった」
遠目で陽咲乃の言葉を耳にした二人の少女は、陽咲乃の言葉に胸を押さえる。
「それでアタシ、ちょっと考えたんだ。なんで隠すんだろうって。自分の悩みを誰かに話すなんて簡単にできることじゃない。それはアタシにも分かる。ましてや人見知りな勇香なら尚更ね。それでも、あの仕打ちをされてもなお口に出さないなんて、流石に何かあるとアタシは思った。それで、これはアタシの推測に過ぎないけど」
「……っ」
「昔から、その溜め込み癖はあったんでしょ?」
勇香は頷くことなく無言のまま。しかしシーツに添えられた手の震えを、陽咲乃は正解と解釈した。
「嫌なことがあっても、誰かに悪さをされても、暴力を振るわれても、吐き出さずに全部自分の中に仕舞いこんでいたんでしょ?」
陽咲乃の推論は一つの間違いもなかった。十六年の時の中で勇香がしてきたことを、陽咲乃は淡々と言い当てた。陽咲乃は人の分析が得意なのだろう。だからこそ大勢の友人に囲まれるのだ。それはある種の才能とも言える。
「でもそれで痛みが晴れると思う?幸せになれると思う?」
「……っ」
「アタシはそうは思わない。下手すれば永遠に引きずって、重い荷物を背負い続けながら生きていく羽目になるんだから」
今まで嫌な事は全て自分の中に隠していた。どんな暴言を吐かれようが、どんな理不尽に遭おうが、自分の中に仕舞い込み“なかったこと”にすることで、他人と同等になれると思っていた。でも仕舞い切れない時もある。そんなときは大抵娯楽に身を浸ることで強制的に忘れさせた。それでも時折、思い出してしまうこともある。故意ではなく、無意識に。
「アタシ分かるよ。多分あなたの両親にも、自分の事、何も話してないんでしょ?」
陽咲乃の推論は非の打ち所がないほど的確だ。
「このまま一生痛みを隠して、全部自分の中に背負い続けるつもり?」
続けて陽咲乃は、勇香に顔を近づけ怪訝な形相で言葉を続ける。
「なんで?なんで話せないの?」
もう耳慣れた質問だ。けどそれに対する答えはいたって沈黙。それ以上の答えは見当たらない。
「他人に迷惑を掛けたくないから?大丈夫、アタシは迷惑だなんて思わない。思うはずがない」
そんなこと分かっている。それが陽咲乃という少女なあり得るはずがないとも。
「それとも、今まで話しを聞いてくれる人がいなかったから?だったら、アタシがあなたの話を聞く。勇香が気軽に痛みを話せる最初の人間になる!」
同じようなことを、今はなき女性教師に言われた気がする。あの時は教師のなけなしの説得に根負けし、一瞬だけ自分を曝け出した。いや、教師という職業柄に一種の安心感を持てたからだろう。けれど陽咲乃は違う。陽咲乃は友達だ。真実を話せばどうなってしまうのか、勇香には最悪の未来がいとも簡単に想像できた。
「だからさ、隠す必要なんてない。勇香のことを、全部アタシに教え……」
「陽咲乃には理解できないよ。私の気持ちなんて」
常に陽の光に照らされたまま生きてきたであろう陽咲乃。対して、勇香は光の届かない陰をずっと彷徨っていた。お互いの人生は正反対と言える。自分とは対極の地位にいる陽咲乃に、果たして自分の気持ちは理解できるのだろうか。
「
「何でそう言い切れるの?」
「だってアタシも、勇香と一緒だから」
陽咲乃は胸を張って迷いなく言い切る。だが言葉の裏に光る頑なな決意が、勇香の心をぽつりぽつりと湿らせる。
「一緒なわけ……ないじゃない。陽咲乃は私と生きてきた世界が違うんだから」
「……じゃあ、百歩譲って勇香の身に何が起きたのかは話さなくてもいい。せめて、何故話せないのかだけは教えて」
ことさらに目線を反らそうとする勇香。陽咲乃は勇香を視界から外すことなく尋ねる。勇香は数舜の迷いに目を泳がせる。しかし陽咲乃の視線に込められた熱気に焼かれてしまい。
「惨めだから」
両手で握り拳を作ったまま、勇香はそう漏らした。
「へ?」
「嫌なの……」
次の瞬間、勇香は頭を抱え、ガタガタと全身を揺らしながら、息継ぎもせず次々に言葉を放り出す。
「私がどうしょうもなく弱くて、惨めだから……それをみんなに知られるのが嫌なの……」
口から出てくる言葉に歯止めは効かなかった。いや、自分を卑下する言葉なら、大衆の前であろうと際限なしに流れ出てくる。それが、今の聖ヶ崎勇香と言う少女の、十六年の道の中で得た習性といえるだろう。
「それが理由?」
「う、ん」
陽咲乃は珍妙に、眉を窄める。
「そんなの気にする必要ないって、アタシは勇香がどうであっても、呆れて離れていったりしない、約束する……」
「違う……違うの……私は、本当に……呆れるほど惨めだから!!」
陽咲乃の説得も耳に届かず。震える顔のまま、陽咲乃を凝視して自分の弱さを吐露する。それはまるで、溢れ出る負の感情を吐き出すだけの壊れた機械。そんな自分に笑みさえ零し、口が緩んでしまう。
まん丸に見開かれたパープルの瞳は身体と連動して震え、そんな光景に陽咲乃は奇しくも悪寒を覚えた。遠目の少女二人も狂ったかのような勇香の変貌に目を見張る。
「だから……どんなに優しい人も、勇香の前から離れてしまうってこと?」
「そう、そう」
「今まで、そう言う事があったの?」
「ない……けど……そうに決まってる」
自慢するかのように、虚しさに語尾を誇張させて言い返す勇香。同時に額を流れる雫の量も増してくる。
「例え、勇香の両親でも?」
「うん」
「そんなはずが……」
「そう思うでしょ?でも私、そうとしか思えないの。それだけ今までの私は惨めだったから」
その言葉が起爆剤となり、勇香が人生で体感した“痛み”の全てが走馬灯のように脳内に映りこんでくる。
思い出したくなんかない。なのにそれに関する言葉を使えば必ず、待っていたかのように脳内に押し寄せてくる。
「ちょっと、考えすぎじゃ……勇香っ!?」
痛みを思い出した途端、勇香は頭を抱えベット上で過呼吸になる。それを見ていた陽咲乃が咄嗟に勇香の背中を摩ると、勇香は荒い息を吐きながら言葉を交える。
「私ね……憧れてる人が……いるの……」
「……っ?」
「年下なのに……陽咲乃みたいに明るくて……人懐っこくて……勉強も運動も人一倍得意で………羨ましかった、私の憧れだった」
その者は自分にとって一番身近で、自分にとって一番遠い存在。
「私は……その人みたいになりたかった……だからその人を真似てみたり、学力や運動神経を伸ばして、なんとかその人に近づけるよう努力した……けど、無理だった」
運命が、そうさせてはくれなかった。
「勇香……」
「考えすぎなんかじゃない……私は今まで、人生を“惨め”に、“運命”に振り回されているだけの木偶人形でしかなかった……そんな私に、今更振り向いてくれる人なんて誰もいない……」
「……っ」
「今日だって、私が惨めだから負けたんだ……何もかも私が惨めなせいで……」
その後、その言葉を発しようとして、初めて我に帰る。ずっと隠していたはずだった本音を陽咲乃にぶちまけてしまった。咄嗟に陽咲乃の顔色を伺うと、不機嫌そうに眉をしかめている。
「ご、ごめん……私のこと、嫌いになっちゃった、よね」
やはり、陽咲乃に自分の気持ちは理解できなかった。それよか引かれてしまった。 結局隠しても隠さなくても、自分のやっていることは全て「惨め」に変換されてしまう。そうやって、周りから人は消えていく。いつも通りだ。
「あんたの自己肯定感の低さがマリアナ海溝つっ切るくらいってのは、ずっと前から知ってたことだけど……」
「ははっ……」
枯れてしまった瞼を擦り、勇香はシーツに目線を下げる。
「呆れちゃったよね」
シーツを掴み、震える声音で漏らす。
「私、いつもこうだから。それでみんないなくなっちゃうの。私が仲良くしたいと思ってる人でも、私が惨めなせいでいつも寸前で間違えて、私の前から消えちゃう。誰かから陰口を言われるのも、虐められるのも、暴力を受けるのも、みんなみんなみんな私が惨めだからいけないの」
それが、聖ヶ崎勇香という齢十六歳の少女。
「だから惨めな私は全部隠して、外見だけは普通の女の子でいたかったのに……結局、隠しても隠さなくても、結末は一緒だった」
陽咲乃は口を開かない。ただ勇香の自虐を、しゃがれたままの口で聞く耳を立てている。
「違う……そもそも隠すなんて無理だったんだ。惨めを押し付けられた私には、何をしても無駄だったんだ」
それが、聖ヶ崎勇香という少女の数奇な運命。
「あはっ、私は永遠に惨めのまま」
そしてそれは、永遠に続いていく。
「もぅいいや、私……」
「……いい加減にしろよ」
突然胸倉を掴まれ、勇香は唖然と陽咲乃を見やる。
「何……」
「いいから黙って、アタシの目を見て」
勇香は困惑しながらも、視線を陽咲乃の顔にあげる。二対の黄金色の宝石の瞳。それは窓から差し込む射光に照らされ、一層強く煌めいている。
「惨め惨め煩いから、少し頭冷やしてもらおうと思ったけど」
「無理だよ……私は……」
「ごめ……やっぱ、こっちが無理だわ」
直後、陽咲乃は勇香の胸倉を掴んだま引っ張り上げ、力いっぱい、投げつけるように勇香の全身をベットに叩きつけた。
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