第13話 転校初日
女の朝は早い。
早朝。まだ陽が裏日本の大地を照らし始めるより先に、女は己の仕事場へ出勤する。
当然、学園には生徒一人おらず、教師やそこで働く者もまばらにいる程度。
だがそれでいいのだ。この誰もいない経営企画室でこそ、明鏡止水、晴れやかな面持ちでいられる。
女は日課のエスプレッソを片手に、学園都市街の全景を眺める。
ちょうど陽が昇り始めた頃だ。居住区に広がる住宅街が、オレンジ色の光に照らされ絵にも描けない美しさを醸し出している。
女はこの光景に感傷に浸ることが、一日の密かな楽しみなのだ。
なぜなら、この景色を見ている間だけ、無心でいることができるのだから。
そして陽が空高く舞い上がったその瞬間から、女の長い一日が始まる。
*
「う、うぅ……」
日の光が、自分の全身を照らしている気がする。
ちゅんちゅんと、鳥の囀る声が聞こえる。
だけど、その光も、囀り声も、どこかいつもと違う気がした。
勇香はごしごしと瞼をこすりながら、じんわりと目を覚ます。
そこは、見慣れた自室の白いタイルではなく、古典的な渋茶色の木目天井。
「夢じゃ、なかった」
いっそ夢だったらよかったのに。
この現実離れした現実で、勇香は幾ばくもそう願った。
しかし、それが願うことはなかった。
現実なのだから。願いを叶える神など、この世にはいない。
ようやく意識がはっきりしていた。
ずるっと身を起こし、ふかふかのマットレスの上で鳶足になると、辺りの景色を見回す。
目の前ではスマホが粗雑に転がっている。
あれから寝落ちしてしまったようだ。
勇香はマットレスからあとちょっとで落下しそうなスマホをその手で拾い上げる。
次いでに時刻を見ると七時過ぎ。
いつもより一時間遅れの起床だ。もっとも、学校のある平日で、だが。
休日の勇香は、休みを思う存分満喫するために、目を覚ますのは大体十二時過ぎだ。その後は毎度の如く寝坊を母に叱咤される。
「うっ……」
ぶんぶんと首を振りベットから立ち上がると、眠気がすっと抜けて交感神経が活発になってくる。
活発化した身体に呼応するかの如く、勇香はスマホを持ち漫画だらけの本棚を抜け、寝室を後にする。
ドタドタと音を立てて下階に下ると、その足でキッチンに向かう。
その騒音に苦笑する者はもういない。
洗面台に向かって歯を磨き、顔を洗う。
その後、腹の空白感のままにキッチンの奥にある冷蔵庫?の扉を開くが、
「……ない」
中は中身が半分になったお茶のペットボトルとプリンのみだった。
これだけでは、到底朝食とは言い難い。
そういえば、昨夜アリスに夕食は頂いたものの、朝食までは貰っていなかった。
もしや寿司と共に含まれていたカップ麺が朝食として扱われていたのかもしれない。
どちらにせよ、自分も空腹感で朝食のことまでは予期していなかった。
だが、あまり気に留めることはない。
休日の勇香は、起床時刻の遅さで朝食は食べないのだ。
別段栄養を摂らなくとも、昼までの行動力は華奢な己の内にも搭載されている。
仕方なく、勇香はキッチンを出る。
その目で捉えたのは、無人のダイニングテーブル。
昨日までなら此処に自分と父が座り、母が湯気立った朝食を持ってくるのを腹を空かせて待っているはずだったのに──
「……っ!!」
気付くと、その光景を、誰もいないダイニングテーブルに重ねてしまっていた。
勇香は目を瞑り、より激しく首を振るう。
「考えちゃ、ダメ!!」
拳をぎゅっと握り、声に発して自らに釘を打つ。
よしっと肩を竦ませると、再び三階へ移動する。
向かった先はベットの横にあるデスク。
デスクの上には、ビニールの梱包袋に包まれた朱色の衣服が置かれていた。
梱包袋を剥がし、それを両手で眼前に掲げる。
勇者養成学園の制服だ。
ぐっと息を吞むと、シャツとショートパンツを脱いで制服に着替える。
すると、下の階からカンカンと鐘の音が響き渡った。
もしや、インターホンなのか。とすると、誰かが来たということになる。
勇香は制服に無理やり首筋を通しながら足を動かし、残りの穴に体を通しつつ階段を降りた。
はーいと声を漏らしながら玄関扉を開けると、やはり人がいた。
「ぐっどもーにーんぐ、う、ら、じゃぱぁん!!!」
そのけたたましい声で誰が来たのかは見ずとも分かり切る。
左右非対称の瞳をした白髪の少女。アリスだ。
(朝から騒がしい)
勇香は呆れ気味に目を狭めながら、心でそう呟く。
勇香の心情も知らぬアリスは、ふむふむと擬音を垂れながら勇香の着用する服を一瞥すると、直後に目を丸くした。
「おー制服着たんだー。相変わらずぶっかぶか」
「私が着る服みんなダボついちゃうんですか?」
「あれ?あんだけ派手派手とか言ってたのに結局アリスちゃんと同じワンピースタイプにしたんだ。そっかそっかアリスちゃんの引き締まったぼでぃに調和したこの制服に影響されちゃったワケだね!」
「違います。帰った時制服のまま寝れるかなって考えただけです」
「へぇー勇香ちゃんらしぃ~」
「どういう意味ですかそれ」
「はいこれ朝ごはん」
そうしてアリスが差し出してきたのは、昨夜と同じビニール袋。
「あ、ありがとうございます」
「いっぱい食べて元気付けてね!今日は転校初日だよ!!」
「はい」
勇香は扉を全開しアリスに入ってと促す。
アリスはすっかりこの家に慣れてしまったような勇香に、ふんふんと鼻息を垂吐きながら扉を閉め、階段を登る勇香についていった。
一旦ビニール袋をダイニングテーブルに置き、中身を覗く。
中に入っていたのは瓶の牛乳とパンダの顔をしたメロンパン、そしてクリームコロネだ。相変わらず子供扱いされている。勇香は溜息を漏らしつつ、それらをテーブルに取り出した。
そして真っ先にメロンパンのビニールを外し、まじまじと見つめてから名残惜し気に一口齧る。
「食べながらアリスちゃんが今日の予定を説明するよ」
「はい」
「まずは挨拶!勇香ちゃんのために一年生全員が講堂に全員集合してるから、みんなの前で自己紹介だよ!!」
「はい……」
その言葉を聞いた瞬間、勇香は全身の身の毛がよだち、小刻みに体を震わせた。
自己紹介。転校するにあたって、勇香が最も怖れていたイベントだ。
大勢の聴衆の面前で、己の経歴を淡々と、尚且つ簡潔に紹介する。
酷く
そんな勇香もいざ知らず、表面上の緊張だけを感じ取ったアリスは、震え固まる勇香に的外れもいいところの助言をする。
「大丈夫!一年は十二人しかいないから緊張もクソもないよ!」
「それはその人がコミュ力に達けてる人だからだと思います」
強張った真顔でそう返した勇香を尻目に、アリスは次の順序へと移行する。
「その後はー、一学年の担当の先生と受講する科目を決めてね!その時に選んだ職業も申告すること。もちろん決めてくれたよね?」
「もちろんです。か、科目を決めるっていうのは?」
「勇者養成学園は所謂大学と一緒だからね。職業に沿った必修科目以外は自分で受ける科目を選ぶっていうスタイルだよ」
「そうなんですか」
「その後普通は生徒会に挨拶するんだけど。勇香ちゃんはもう済んでるから省くよ。今日の予定はそれで全部だね」
「はい」
そういえば、昨日生徒会を訪れた時も役員の面々に向かい自己紹介をしていた。
あの時の要領で行えば多少焦らずとも円滑に……いやいや規模が違いすぎるし、あの時はアリスの
結局、昨日の自己紹介は役に立たないと判断する勇香に襲来した、次の難関。
「どうしたの?そんなに顔青ざめちゃって」
「友達……できるかな……」
「なーんだ、そういうこと!平気だって最悪ぼっちでもアリスちゃんがいるんだから!」
「それが一番嫌です」
「なんで!?」
勇香は時間と共に思考から湧いてくる不安を振り払うために、アリスに貰ったパンを口の中で咀嚼した。
*
朝食を終え、歯磨きをし、登校するひとしきりの準備が整った勇香。
勇香は表日本でも愛用していた藍色のリュックサック背負い、
アリスと共に新天地──勇者養成学園へと出向く。
時刻は八時頃。どこかの神殿のような学園のエントランスに着くと、まばらに生徒たちの姿が見受けられた。
この中に自分の学友となる者がいるかもしれない。
勇香は期待と一握りの不安に胸を弾ませる。
いや、その背後には計り知れない不安が渦巻いているようだ。
その不安を消し去るには、自己紹介という鬼畜の所業をクリアするしかない。
勇香はぐっと全身に力を蓄え、身を奮い立たせる。
エントランスを後にし、アリスとともに最初に訪れたのは連絡棟にある職員室だ。
またもや無機質な廊下内で、アリスは職員室の扉をコンコンとノックする。
「アリスちゃんだよー。一年の担当の先生誰か来てー」
(ノリ軽っ)
すると扉が開き、中から女性が出てきた。
まだ若さの残る、乳白色のスーツを纏った短い黒髪の女性。
女性は扉の前のアリスと、その後ろでもじもじしている勇香を一見するなりにんまりと笑顔で紅色の口を開く。
「あらっ!あなたが転校生さん?」
「えっ?は、はい」
まだ会ったこともないのに初見でよく見破れたな、と勇香は密かに感心する。
「せんせーよくこの子が転校生ってわかったね」
「今日転入する子だし、アリスと一緒にいるからなんとなくそう思ったのよ」
洞察力が鋭いのか、はたまたただの天然なのか。
一切敬語を使わず友人のように話しかけるアリスを咎めない辺り、この女性教師がアリスと同程度の位置にいると、勇香は悟った。
女性教師は勇香に振り返ると、胸に手を添えて話しかける。
「私は
「は、はい!聖ヶ崎勇香です!よろしくお願いします」
「じゃあ、さっそくだけど講堂に行きましょうか。まだちょっと早いけど、生徒たちは何人かいるはずよ。雰囲気だけでも見ておきなさい」
「あっはい……」
一瞬戸惑いながらも、女性教師の朗らかな声音に勇香は呼応する。
と、その流れを傍観していたアリスは、話の終息を見切って勇香に手を振った。
「じゃ、アリスちゃんはこれでー」
「えっ?」
何故か自分から遠ざかっていくアリスに、勇香は放心し言葉を失ってしまった。
一方、アリスは眉を顰めつつ勇香の言葉に反応する。
「えっ?っじゃなくて。ここからは耀孤せんせーが案内してくれるから、アリスちゃんはお役御免だよー」
「アリスさんは……付いてきてくれないんですか……?」
「ちょっとちょっとーアリスちゃんもこの学園の一生徒だってことお忘れでない?やることだってたくさんあるんだから、いちいち勇香ちゃん一人に構っていられないよ。あと、入学したからにもう"さん”じゃなくて"先輩”だよ?」
「ひ、酷いです……」
つまり、自己紹介の会場にはアリス同伴でないということ。それを知り、涙ぐんでしまった勇香を見て見ぬ振りしながら、アリスはとっとと退散してしまう。
徐々にアリス後ろ姿が小さくなっていくのを、悲観に暮れた様相で眺める勇香。
そんな勇香の肩を陽気に触った女性教師は、能天気な口調で勇香に告げる。
「じゃ、行きましょうか」
「……はい」
勇香はこの先の見えぬ運命に悄然と俯きながら、廊下を歩き始める女性教師の後を追った。
*
女性教師に連れられてやって来たのは、学園の北側にあるやや広めの講堂だ。
学園には講堂が数カ所が点在しているらしく、ここはその中でも狭いほうと教師は口にしていた。だが、どうみても体育館くらいの広さはある。
道中、女性教師の一方的な紹介で多少の学校見学をし、多少なりとも時間を潰すことができたため、講堂に着いた頃には開始時刻まで五分を切っていた。
演台の陰から講堂を覗くと、前方の座席にはまばらに生徒たちが座っている。
かなり遠くなので、一人一人の顔はまだ伺えない。
アリスによると一年生は一二人いるらしい。恐らくこれで全員だろう。
その時をもって、勇香は身体がピキッと凍り付いた。緊張の発現だ。
ガタガタと肩が震え、はぁはぁと息が荒くなる。
例によって心臓もドクドクと激しい鼓動を立てている。
遂に、最難関ミッション──自己紹介の瞬間である。
大丈夫、大丈夫、自己紹介なんて学年の上がり目に何度もしてきた。今さら怯えることなんてない。
勇香は自己暗示すると、掌に人の字を描いて口に放り込む。
勇香の背後にいた女性教師は腕時計で八時半過ぎを確認すると、勇香の肩にそっと手を添えた。
「頑張って、あなたの門出よ」
その暖かい声と共に、勇香の心はわずかに軽くなる。
女性教師は演台の中央に立つと、談笑に浸っていた生徒たち声がぴたりと止み、その視線が一気に彼女に集中する。
それでも物怖じしない教師を見やるに、やはりベテランの風格だ。
「おはようございます。今日皆さんに集まってもらった理由は、転校生を紹介するためです」
その瞬間、生徒たちが一斉にざわめき出す。
転校生が来るというのだから、当然だ。
だが、勇香には緊張を果てまで増幅させる起爆剤でしかなかった。
「静粛に、彼女は裏日本に来たばかりでまだ心身ともに傷心している状態です。皆さんにはどうか、彼女をこの世界へいち早く順応できるよう親しみを持って接してあげてください」
話に終止を打つと同時に、女性教師は勇香を振り向き手招きする。
こちらに来いとの合図だ。いよいよである。
勇香はガチガチに固まる身体を無理やり動かし、ロボットのようにぎこちない足取りで教師の元へ向かう。
足を動かす間も、生徒たちから声が飛び交ってくる。
内容はよく分からない。だが、聞き入れるほどの冷静さは今の勇香には持ち合わせていない。
そうして教師の一歩手前に立つが、恐怖で目を瞑んでしまう。
見たくない。自分を見つめて嫌そうな目をしている生徒を見たくない。
もし一目見てしまえば、その場で気を失ってしまうかもしれない。
だがこんなことしているようでは、ますます胡乱な者に見られるだけだ。
勇香は拳をぎゅっと握って、静かに目を開ける。
数舜のぼやけの後、視界が鮮明になってきたのを感じると、勇香は恐る恐る生徒たちを見回す。
幸い嫌そうな目をする生徒はいなかった。だがそれでも体が張ったままだ。
勇香はもごもごと鉄のように重たい口と格闘する。
早く、名を発さなければ。
背後の女性教師も怪訝な形相でこちらを見ていることだろう。
だから、早く、そう自身を鼓舞した勇香だが、ふと眼下の生徒たちを覗くと──
「……っ!」
自分がなかなか口を開かないことで段々と顔つきが重くなってきた生徒たちの端。
しかめっ面で腕を組んでいる小柄な少女。
そしてその隣にいるのは、ストロベリーブロンドの髪の少女。
その少女は、ガタガタと震える勇香と視線が合うと、にこやかに手を振った。
「……っ!!」
勇香は重たく閉ざされていた口を、ばっと開く。
「聖ヶ崎勇香です。よろしくお願いいたします」
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